~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

7.再会(1)

しのつく雨の中に、ジルは立っていた。
周囲では、大勢の人間達が泥にまみれ、飛沫しぶきを上げて戦っている。
ある者は剣で、またある者は魔法で。
しかし彼らが戦っている相手は、人間ではなかった。
鋭い角や爪や牙を持ち、妖しい闇の気配をまとった、魔界の住人達だったのだ。

(またヘンなところに来ちゃった……どこなの、ここ……?
どうしてみんな、戦ってるの……?
──きゃ!)
わけが分からないまま、彼女が呆然と周りを見回していた時。
稲妻がひらめいて暗い空をいろどり、杖を振り上げる黒衣の魔法使いのシルエットをくっきりと浮かび上がらせた。

(──お師匠様!)
思わず駆け寄ろうとしたが、声は出ず、足も動かない。
その代わり、望遠鏡を覗いたと同じく、相手の姿がぐっと拡大された。
(……あれ? なんだ、お師匠様じゃないわ。魔力の感じは似てるけど。
それに、このヒト、魔族じゃないのね……)

その証拠に、杖の先端に埋め込まれた黒い宝石からほとばしる閃光は、魔物達に向かって放出され、彼らを次々になぎ倒していた。
魔族達はそれでも必死に魔法使いに向かって行くが、近寄ることさえできず、確実に数を減らしていく。

圧倒的に魔族が不利、そう思われた時だった。
(──あ!)
突如三人の男達が現れ、黒の魔法使いを取り囲んだのだ。
抵抗する間も与えずに、黒衣の男を結界に封じ込める。
そのうちの二人は、ジルにもすぐに見分けがついた。
今度こそお師匠様だわ、タナトスもいる! でも……なんか、今より若い……みたいだけど?
それに、もう一人……ダレ? このヒト?)

まったく見覚えがない残りの一人は、サマエル達によく似た面差おもざしをした、威厳ある年配の男だった。
その男は、黒衣の魔法使いに相対し、顔を紅潮させて何事か怒鳴っている。
(あれ……なんか、タナトスが怒ったときにそっくり。
──あ、そっか。このヒト、お師匠様達のお父さんなのね!)

やがて、魔界王と王子達は、結界に閉じ込めた魔法使いごと上昇を始めた。
ジルの体も、そう願っただけで、彼らと一緒に昇ってゆく。
大陸が眼下に一望できるところまで来ると、彼らは停止し、ベルゼブルは再び黒衣の男に声をかける。
しかし、男は、捨て台詞を吐いてそっぽを向き、魔界王のこめかみに青筋が立ったのを、ジルは見て取ることが出来た。

またしばらく押し問答が続き、それでも望む答えを魔法使いが出さぬと知ると、ベルゼブルは呪文を唱え、一本の杖を呼び出した。
それは、黄金よりもまばやく輝く赤みを帯びた貴金属でできた太い杖で、先端には、本体に負けず劣らず素晴らしい輝きを宿した、巨大な紅い宝石がはめ込まれている。
その杖を、魔界の王は高々と掲げた。

(何するのかな、こんなところで……)
不思議に思う少女の前で、サマエル達の父親は、何事か唱えた。
その刹那だった。
宝石から、一筋の紅い光が地上目がけて放射されたのだ。
(え……?)
次の瞬間、ものすごい爆発と閃光が、地表を覆い尽くした。

閃光をまともに見てしまったジルは、何度も眼をこすった。
(あー、まだ眼がちかちかするわ。何が起きたの……あれ?)
ようやく彼女が視力を取り戻したとき、ついさっきまで足元にあったはずの三つの大陸、その一つが、丸ごと消滅してしまっていた。
(う、うそ……なんてことするの、ひどい……)
少女の顔から血の気が引いた。

気づくと、サマエルが魔界王に詰め寄っていた。
父親を止めようとしているのだと、彼女には分かった。
それでも、ベルゼブルは聞く耳を持たず、手荒く息子を振り払って、再び呪文を唱えるのだった。

またもや起こる大爆発──そしてまたも、大陸が消滅した。
(やめて! もうやめて!)
ジルが叫んだとき、第一王子が行動に出た。
争っている父親と弟にそっと近づき、杖を奪い取る。

(よかった……)
少女が安堵したのも束の間だった。
タナトスは、にやりとたちの悪い笑いを浮かべると、杖を振り上げ呪文を唱えた。
当然杖から紅い光がほとばしり、たった一つ残っていた大陸にも、やはり火柱が立ってしまう……。
紅く焼けた岩が降り注ぎ、地面が鳴動し割れて水没していく中、人間達は逃げ惑い、火に焼かれ水におぼれ、岩の下敷きとなり、次々に死んでいく……。

当のタナトスはと言えば──何と、笑っている! それらの情景を指差し、笑い転げているのだった。

(──違う、違う! これはあたしの知ってるタナトスじゃない……こんなヒドイこと、しないわ!)
涙があふれて頬を伝い、ジルは目覚めた。
すると目の前に、師匠の懐かしい顔があった。
彼は膝枕をして、彼女を寝かせてくれていたのだった。
見慣れた穏やかな笑みと、優しい眼差し。それが現実のものと知った少女の心は、ついに弾けた。

「──お師匠様!
やっと会えた、夢じゃない、本物のお師匠様なのね!」
彼女は跳ね起き、サマエルに抱きついた。
夢で流した涙と、再会の喜びの涙が混じり合う。

「……ジル……」
ただ一言に万感の想いを込めて、彼は春風のようにそっと、少女を包み込んだ。
「ごめんなさい、心配かけて」
「いや、君が無事ならそれでいいよ……」

(ようやく取り戻した。やっと帰って来たね、私の許へ……。
何物にも替えがたい、私の宝……)
しばしの間、声もなく、二人はただ抱き合っていた。

そのまま幾分か時が過ぎ、ジルが涙をふこうと、身じろぎしたときだった。
サマエルの口から、思わず言葉が飛び出してしまっていた。
「待ってくれ、あと少し……ほんの少しでいい、このままでいさせてくれないか」
「え?」

彼は青ざめ、強く後悔した。
「……すまない、嫌だろう?」
そう言いつつも、少女を放すことが出来ない。
少女は戸惑い顔で、抱きしめられたまま、魔族の王子を見上げた。
「嫌じゃない……けど……? お師匠様、ど、どうし……?」

「今だけでいい……サマエルと呼んでくれ」
しぼり出すように、再び彼は、自分の想いのたけを口にした。
「一体どうしたの、おし……いえ、その、……サマエ……ル?」
その声に、眼差しに、彼はもう、自分の感情を抑えられなくなった。
抱きしめる腕に力がこもる。

「すまない、私の油断から、キミをつらい目にわせてしまった……キミを永遠に失ってしまったかも知れないと思うと……心が引き裂かれそうだった……。
ああ、もはや自分をいつわることは出来そうもない。
ジル……私は、キミを愛している……!」

こうしてついに、決して言うまいと決めていた想いを、彼は口に出したのだった。

「え、ええっ……!?」
ジルは、顔がかあっと熱くなるのを感じた。
鼓動がどんどん激しくなり、口から飛び出しそうになっていく。

自分のことを保護者…父親としてしか見ていない少女に、こんな振る舞いをしてはいけないことは分かっていたが、これが最後、もう二度と会えないのだという思いが、彼を突き動かしていた。

(私に……この少女に愛を告げる資格などないのは、分かり切っている……。
だが、ジルをさらった者との戦いに勝利し、彼女を人界に無事帰すには、あまりに今の状態は心許こころもとない。
……私は、確実に命を落とすだろう……。
それならせめて、今だけは……こうして温もりを感じていたい……この温もりを胸に、黄泉路よみじをたどることが出来たなら、私の生にも意味が出来る……この少女を助けるために、私は生まれてきたのだと……)

他方、ジルは、伝わって来るサマエルの強い感情に困惑していた。
(いつものお師匠様は、こんなじゃないのに。……ちょっぴり怖い……な。
あたし、どうしたらいいの……?)
彼女は頭の中が白くなり、言われた通りにじっとしていることしか出来なかった。

やがてサマエルは、壊れ物を扱うときのように慎重に体を離し、最愛の少女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫かい……?」
「……え、う、うん……」
優しく声をかけられても、どういう態度を取っていいのか途方に暮れて、彼女はただうつむいていた。

「治癒魔法をかけたのだが…あまり回復していないようだね……」
いつもより、少しかすれた声でサマエルは言い、弟子の汗ばんだ額に、そっと触れた。
冷たい掌から、魔族の王子のエネルギーが流れ込んでくるのを感じ、少女の胸の鼓動も徐々に静まってゆく。
(……あったかくて、いい気持ち……)

「あ……あたしがさっき、そこにいるカッツにかけたときもそうだったの……。
その前に使った火炎魔法も、スカしたかと思えば、強すぎて爆発までしちゃったりで、大変だったし……」
「そう、か。思った通り、異界では、魔力が安定しないようだ、ね」
静かに言うとサマエルは手をどけ、弟子の顔をじっと見つめた。
その眼差しはひたすら暗く、顔色もとても悪く、ひどく悲しげで……。

「……ね、何だか、これから死んじゃう人みたいよ。
どうしちゃったの、お師匠様……? やっと会えたのに」
「……すま、ない」
サマエルは眼を閉じ、必死に精神を落ち着かせようと努めた。

「お師匠様? 大丈夫?」
「あ……あ。キミ……は辛くないかい? ジル……」
ジルは、涙の跡を手でこすった。
「あ、あたしはもう平気よ。お師匠様こそ、ホントに大丈夫?」
「何とか……ね」
まだ、硬く眼を閉じたまま、彼は答えた。
「えっと……でも、ここって、異界……ってイーサが言ってたけど。
どうしてこんなトコに来てたのかな、あたし」

「何も覚えていないなら、その方がいい。
早く屋敷に連れ帰ってあげたいが、キミの魔力が回復しないうちは、二人一緒に帰ることは難しいようなのだ」
話すうち、どうにかサマエルは、おのれの感情を制御することに成功して眼を開き、声もいつもの穏やかさを取り戻すことが出来た。

彼が落ち着いたことで、少女も顔が上げられるようになった。
「うん……あたし、ぐっすり眠ってたから、何も分かんなくて。
目が覚めたら、いきなりこんなトコにいて、びっくりしちゃった」
「誰が、何の目的でキミを連れ出したのか、まだ分からないのだよ。
プロケルに調べてもらっていたのだが、それを聞く前に、つい、飛び出してしまってね……。
 “夢”でキミを見つけ、危険が迫っていると知ったら、矢も盾もたまらずに……」
「そ、そうなの。
──あ、そう言えば、あたしもついさっき起きるまで夢を見てたのよ、お師匠様。
たっくさんのヒト達が戦ってる中に、黒いローブ来た魔法使いがいてね、真っ黒い宝石がついた杖で魔界のヒト達を倒してたの。
そこには、お師匠様やタナトスとか、二人のお父さん……かな? もいて、その魔法使いを捕まえたんだけど、そいつが全~然言うこと聞かなくてね、とうとうお父さん、怒り出しちゃって。
すっごく大きな紅い宝石がついた杖、それを使って……大っきな大陸を二つも壊しちゃったの……。
お師匠様は、がんばってお父さんを止めようとしてたわ。
でも今度はタナトスが杖をぱっと取って、残った大陸まで壊しちゃった、そんな、ヘンな、夢……」

ジルがそこまで言ったとき。
「──俺が、何を壊しただと?」
聞き覚えのある声が聞こえて来たのだ。