~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

6.ジュエル・ベアラー(1)

(あの回廊を、どうにかして通り抜ける方法さえあれば、ヤツにばかり、美味しいところを持っていかれずに済むのだがな……)
弟の帰りを大人しく待っている気など、これっぽっちもないタナトスは、考え込みながらサマエルの屋敷を後にした。
外の空気を吸えば、何かいい考えが浮かぶかもしれないと思ったのだ。

(さっきから、何か忘れている気がして仕方がない……。
過去に、同じようなことがなかったか……)
「おっと、もうこんなところまで……む?」
考えを巡らすうち、ふもとまで降りて来てしまっていた彼の前に、その時、白い髪の人物が現れ、さっと膝をついた。
幾重いくえにもおび申し上げます、“闇の貴公子”、タナトス殿下」
彼が人間でないとわかるのは、その瞳の虹彩こうさいが、猫と同じく縦長をしているからだった。

「ああ、プロケル、貴様か」
「ジル様の護衛の任に失敗致しまして、面目次第もございませぬ。
かくなる上は……この老いぼれの命をもって、お詫びに代えさせて頂き……」
深々と頭を下げる老人の言葉を、タナトスは手を振ってさえぎった。

「ふん、貴様ごときを殺したところで、ジルは帰って来んわ。
大体、貴様はジルではなく、サマエルを監視していたのだし、ここは汎魔殿はんまでん(魔界の宮殿)でもない、くだくだしいあいさつなどいらん。
俺のことも名で呼べと、前々から言っているだろう」
御意ぎょいにございます、タナトス様。
サマエル様にご報告致しました後、どのような罰も受ける所存にて……」

「くどいぞ、プロケル! 貴様の処遇しょぐうなど後だ、ジルを見つけるのが先決だろう!
もしも彼女に何かあったら、そのときは容赦はせん!」
家臣に言わせも果てず、タナトスは語気鋭く言い放った。
「……は」
魔界の公爵は、さらに深くこうべを垂れた。

「ところで、報告とは何だ? あいつならとっくに行ってしまったぞ。次元転移の呪文を使ってな」
その言葉に、プロケルはさっと顔を上げた。
猫そっくりな琥珀色の眼が、大きく見開かれている。

「な、何と!?
あの冷静沈着なサマエル様ともあろうお方が、何の準備もなさらずにご出発あそばされましたとは!
ああ……今少しお待ち頂ければ、比較的容易に、異界へ到達できる方法をお教えできましたものを……!」
「何。簡単に異界へ行ける方法を見つけただと?」
御意ぎょい
魔界公は、古びた革表紙の本を懐から取り出すと、あるページを示した。

「こちらをご覧下さい。サマエル様のおおせに従い探し出した本でございますが、興味深い記述がございます。
回復の泉が湧く、“異境祠”…あるいは、“不思議祠”とも呼ばれる場所があり、そこは文字通り、異界と人界をつなぐ回廊になっておると。……これを探し出せれば、行き来も容易。
しかしながら、今は稼動不能になっておるようでして、探索に手間取りましてな。
それでも、何と言う偶然、祠はこの森にあったのですわ。
正確な場所は特定できませなんだが、とりあえず、分かったことだけでも直接ご報告申し上げようと……。
……? どうなされたのですかな、タナトス様」
プロケルは、首をかしげた。

「“異境祠”……回廊……そうか、そうだったのか、やっと分かったぞ──!!」
──サマエルのたわけめが! こんな大事なことをけろりと忘れているとは!」
自分のことは棚に上げ、抑えようもない興奮をそのまま声に現して、彼は叫んだ。
「その……ご説明願えませぬか?」
面食らうプロケルには答えず、タナトスは逆に訊き返した。
「貴様、一万年前の“戦争”のことを覚えているか?」
「一万年前……と申されますと……ああ、“三つの大陸(トリニタス)”との戦いのことでございますな?
無論覚えておりますとも。それがしも、参謀の一人として参加させていただきましたし」
プロケルは誇らしげに胸を張った。

「ふっ、そうだったな。
では、“ジュエル・ベアラー”は、どうだ?」
タナトスが重ねて問うと、魔界公の瞳の黒い虹彩が急激に広がり、円盤状になった。
「ふむ、左様でございました。あやつめは、異界に封印されておったのでございましたな。
なるほど、では、今回のことは……」
プロケルが続けて言おうとしたとき。

「そこにいらっしゃるのは、タナトス様ではありませんか、お久しぶりですわね」
「おう、イナンナ殿、今お帰りですかな」
「あ、プロケル様もご一緒でしたか、失礼致しました。
でも、こんなところでどうされたのですか?」

二人に走り寄って来たのは、一人の美しい少女だった。
深い湖水の緑をたたえた、少し釣り上がり気味の眼、それを縁取る長いまつげ、形のいい鼻。
朝露に濡れた花のつぼみを思わせる唇から発せられる上品な言葉づかいから、彼女が上流階級の出自しゅつじだと分かる。
銀色に輝く長い巻き毛をきりりと結い上げ、腰には鋭い剣を下げ……陶器のようになめらかな肌、すばらしいプロポーションを、軽量のものとは言え、アーマーで覆い隠してしまっているのがもったいなく思えるほどだった。
この女剣士イナンナは、ジルの三つ年上の従姉いとこに当たる。
彼女もプロケルやジルと一緒に、サマエルの屋敷に同居していたのだが、ここ数日間、所用で外出していたのだった。

「む、イナンナか。実はだな、キミの留守中に、ジルが行方不明になってしまったのだ。
どうやら、昔、俺達が関わり合いになった魔法使い、“ジュエル・ベアラー”というヤツの仕業しわざらしいのだが」
タナトスの言葉に、イナンナは息をのんだ。
「──ええっ !? ジ、ジルが、行方不明ですって!?
そ、その、ジュエル……何とかって、一体何者なのですか、それになぜ、ジルを?」

「まだよくは分からんのだが、魔力が目当てかも知れんな……。
それはともかく、ついさっき、彼女がいるのは“異界”と呼ばれる異空間だと分かった。
サマエルは独りで先に転移した。俺達もこれから行く。必ずジルを助けて来るからな」
「はい、よろしくお願いします」
少女は頭を下げた。

「ですが、タナトス様。異境祠の正確な位置は、まだつかめておりませぬが……」
「それなら、大方の目星はついている。あれは特殊な結界で覆われているからな。
そこの転移装置を修復できれば、すぐにでもジルを助けに行ける。
ついでだ、祠を探しがてら“ジュエル・ベアラー”のことも話してやろう、イナンナ」
「はい、お願いします」

「“貴石を帯びし者”……まことに厄介やっかいな敵だったと記憶いたしておりますが……」
プロケルは顔をしかめた。
「ああ、ヤツには本当に手こずらされたな。
……お、こっちだ。行くぞ」
「は」
タナトスは二人を従え、歩きながら話し始めた。