~紅龍の夢~

巻の二 THE JEWEL BEARER ─貴石を帯びし者─

7.再会(2)

「──あっ、タナトス!」
「どうやって来たのだ!?」
ジルとサマエルは同時に叫んでいた。
うわさをすれば影とは言うが、豪華なマントをひるがえし、そこに立っていたのは、サマエルの兄である魔界の第一王子、タナトスだった。

「ふん、この俺に不可能などあるものか」
タナトスは唇をゆがめ、傲慢ごうまんに言い放った。
その声は、邪悪そのもののように響き、ジルの全身に鳥肌が立った。
再び、心臓が早鐘はやがねのように打ち始め、彼女は思わず師匠の陰に身を隠した。

「どうしたのだね、ジル」
そんな態度を不思議に思い、サマエルは尋ねた。
「こ、怖いの、お師匠様……」
ジルの声は、我知らず震えていた。
「怖い……だって? タナトスのことが?」
サマエルは驚き、顔を見ようとしたが、弟子の少女は、一層固く、彼にしがみついた。

たしかに角や翼を通常隠し、柔和な表情をしている弟王子とは違い、兄王子は眼光鋭く、太い角が二本も生え、唇の端からは長い牙さえ覗いている。
背中には巨大な、コウモリめいた漆黒の翼まであり、しかも気性は荒々しい。
普通の人間が、突然彼を見れば、同様の反応をしたかも知れない。
しかし、ジルは魔族を見慣れていたし、タナトスの外見を恐ろしいと思ったことなど、まるでなかったのだ。
……つい今し方までは。

「な、何かよく分かんないけど、今日のタナトスは、どっか変なの……」
ささやくようにそう告げたとき、イーサの峰打ちから小人達が回復したことに、彼女は気づいた。
「あ、ハロート、マロート、よかった、目が覚めたのね。でも……あれ?」
彼女が面食らうほど、正気づいた二人の振る舞いは奇妙だった。
歯の根も合わないほど震えながら、タナトスを指差しているのだ。

たしかに第一王子は性格がきつく、魔族にとっても、あまり会いたくない相手と言えなくもない。
だが、この状況では、助けに来てくれたと考え、喜ぶのが普通なのに。
それに、目の前にいるタナトスは、顔の右半分を髪で隠していた。
今まで、そんな風にしている彼を、ジルは見たことがなかった。

不意に、猫魔の言葉が彼女の脳裏をよぎった。
『あ、あいつの……顔……ひっかいて、や、った……僕ら、爪に、毒、ある、から……。
あいつ……変身術、得意、だから……顔、に、キズ、あるヤツに……気を、つけて……』
「ま、まさか……」
少女の顔から血の気が引く。

「ジル、どうしたのだ、そんな隅に隠れたりして?」
歩み寄って来るタナトスに、思わず彼女は叫んでいた。
「こ、来ないで!
──お前はタナトスじゃないわっ!」
彼女の感情の高ぶりに呼応し、突風が呼び出されて第一王子の髪を巻き上げ、その顔についた生々しい猫の爪痕つめあと(あらわ)にした。
「し、しまった!」
慌てて、男は傷跡を隠そうとするが、遅かった。
「やっぱり! カッツをひどい目に遭わせた、ジュエルベアラとか言うのは、あんたね!」
ジルは、タナトスの姿をした男に向かって、指を突きつけた。

「“ジュエル・ベアラー”だって!? どうして、その名をキミが!?」
いつもは冷静なサマエルが、偽のタナトスよりも先に叫んでいた。
ついさっき、異界にやって来たばかりの彼が、相手の“気”をうまく読み取れないのは、仕方ないことだったのだが、兄の偽者に気づかなかった、おのれの不甲斐(ふがい)なさへの怒りも手伝って、思わず声を上げてしまったのだった。

「さっきカッツに聞いたのよ。このヒト、家に帰してやるなんて言って、彼を騙したんだって!
それに、夢で見た魔族と人族の戦争で、黒いローブを着た魔法使いがいてね。
その嫌~な魔力の波動と同じのを、たった今、このヒトから感じたの。
夢の中のお師匠様もタナトスも若かったし、あの戦争って、ホントにあったことなんでしょ?」

弟子に問われたサマエルは、正直に答えた。
「その通りだよ、ジル。一万年も前だが、現実に起きたことだ……。
しかし、キミには本当に驚かされてばかりいる、“夢飛行”の素質もあるのだね。
まあ、それほど強力な魔力があれば、当然と言えるかも知れないが」
「え、何? その、ユメ……ヒコーキって?」
ジルは、きょとんとして、聞き返す。

「何を聞いておるやら、この小娘めが」
その時、“貴石を帯びし者”が、初めて本来の声を使った。
タナトスのものとは似ても似つかない、ひどくしゃがれた声だった。
はっとして、その場の全員が、ジュエル・ベアラーに視線を移す。

「“夢飛行”とは、夢を使い、過去や未来、または遥か遠方へと心を飛ばす術のこと、左様な、基礎中の基礎すら知らずにおるとは、まったくあきれたものよ。
かような世間知らずの小娘に、かくも強大なる魔力が秘められていようとは。
まあよい。その力を手に入れることさえできれば、一万年前に阻止された我が野望も成就じょうじゅできると申すもの。
おぬしを始め、タナトス、また魔界におるベルゼブルへの復讐も成し得ようぞ!」

言うが早いか、魔族の第一王子の姿は溶けるように崩れ去り、黒衣をまとった魔法使いの禍々まがまがしい姿が現れた。
土気色をした顔の中で、不気味な笑みが張り付いた唇だけが鮮やかな紅色をし、洞窟のような暗黒をたたえた眼に見据えられた者は、抵抗する意思さえ、くじかれてしまいそうだった。
暗褐色あんかっしょくの髪の間からは、ねじくれた細い角が二本飛び出し、黒いローブの下からちらりと覗く足先には、鋭い鉤爪かぎづめまでもが生えている。

「お初にお目にかかる、乙女よ。我が名はセリン」
魔法使いはジルに向かい、ていねいに頭を下げた。
「ジュエル・ベアラー、“貴石を帯びし者”と呼ばれることもあるが。
かつては、王として人界をべていた者だ」

「何よ、さっきまで散々、世間知らずの小娘とかなんとか言ってたくせに!」
つい今し方まで(おび)えていたことも忘れてジルは言い返し、そんな少女をかばいながら、サマエルは冷たく眼を光らせた。
「“ジュエル・ベアラー”などと、単にお前が自称していただけのことだろう。
それに、人界の王とは笑わせる。
お前は鏡を見たことがないのか、その姿形の、一体どこが人間だと?」

「ふん、他人に偉そうに言える立場か、おぬしが」
“ジュエル・ベアラー”は、嘲笑を返す。
魔族の第二王子は、肩をすくめた。
「私には、自分が化け物だという自覚くらいはあるさ。
そんなことより、どうやって封印の結界を切り、ジルをさらったのだ?
昨夜の流星群がきっかけのようだが」

「ふふ、教えて欲しいか?」
邪悪な魔法使いは、いやらしく笑った。
「答える気があるなら、言うがいい」
その挑発には乗らずに、静かに彼は答えた。

「ふん、相も変わらぬ冷静さよ、まったくしゃくさわるわ!
今度こそ、おぬしの魔力をすべて奪った上、その美しい顔を切り刻んで二目と見れぬようにし、四肢ししをバラバラに引き裂いて、生意気な口をたたけなくしてやろうぞ!」
セリンは、忌々しげに、鋭く尖った長い爪をサマエルに突きつける。
「弱い犬ほど何とやら……か」
涼しい顔で、魔族の王子はつぶやいた。

「ふん、そうして、澄ましておられるのも今のうちよ。
……されど、久方ぶりの再会だ、記念に教えてやってもよいぞ」
「それはありがたき幸せだね。……で?」
サマエルは、笑みを浮かべた唇で、穏やかに促す。
「それほど知りたいか。ならば教えてやろう」
ジュエル・ベアラーは、尊大な口調で言った。

「最近、人界で頻発ひんぱつしておる地震が、地滑りを引き起こし、“異境祠”を埋めたため、我は復活できたのだ。
ちょうど流星群も近づいて来ており、隠密おんみつ行動には、これ以上の条件はないと言えるほどであった。
完全に結界が切れたわけではなかったが、我が力を以ってすれば、結界を超え、分身“影の手”を人界まで伸ばすことなど造作ぞうさもないこと。
そうやって、密かにさらって来た魔物どもの精気を我が物とし、そして今、ついに、かの宿願をも取り戻せるまでになった。
この“石”さえあれば、おぬしごとき、この指一本で倒せるわ、ククククク……。
──さあ、とくと見るがよい! そして我が前にひざまずくのだ、“カオスの貴公子”よ!
──スターヴ!」

魔法使いが両手を掲げ、声高に呪文を唱えると、手の間に、一本の古めかしい杖が現れた。
杖の握り部分には、拳ほどもある巨大な漆黒の宝石がはめ込まれている。
それと見るや、サマエルの眼の色が変わった。
「そ、それは“黯黒あんこくひとみ”!
お前、一体今までそれをどこに隠していたのだ!?」

「知りたいか? クク──生憎あいにくだが、教えるわけにはいかぬ。
これからも、隠し置く必要があるやも知れぬゆえな。
おぬしを倒し、その娘を手に入れたとしても、今度は魔界との戦いが待っておるのでなぁ」
セリンは、蛇めいて二股に分かれ、青紫色をした気味の悪い舌で、真紅の唇をなめ回した。

「それにしても、おぬしの屋敷よりその娘をさらってくるのは、笑止しょうしなほどに容易であったぞ。
気配を殺し、我が分身たる“影の手”を伸ばし……まあ、ほどよい緊張感はあったが、な。
あまりに容易すぎたゆえ、わなの存在を疑い、直接手元には置かず、様子を見ておったのだ。
おぬしや、魔獣使いの洟垂(はなたれ)れ小僧が、我が結界に侵入してきたことにもとっくに気づいておったが、わざと泳がせておいた。
この眼で、娘の力を確かめたかったゆえな。
あとは娘を捕え、我がにえとするばかりよ、クフフフ……!」
魔法使いの邪悪な笑いが、異界に響き渡る。

「……くっ、お前の思い通りになど、させるものか!」
叫びと同時にサマエルの体から、すさまじいまでの魔力が放出され、白く燃え上がりながら彼を取り巻き、ローブを勢いよくはためかせた。
「ジル、下がっていなさい」
いつになく厳しい声で、彼は弟子に命ずる。

「あ、は、はいっ!」
「ジル、ほれ、手を貸すぞ」
「あ、ありがと、ハロート」
「ハロートは、わしじゃわい。さあ、せーので立つぞ、せーの、よっこらしょ!」
まだ回復し切っていなかった少女は、小人達の手を借りてどうにか立ち上がり、少し後方の<岩陰に座り込んだ。

「フッ、死に急ぎたいと見えるな、カオスの貴公子よ。よかろう。
──ムン!」
黒衣の魔法使いが念を集中させると、黒色の貴石から、どす黒い魔力が噴き出して、構えた杖にまとわりつき始めた。
「──デッドリーシンズ!」
そして、ジルの夢に出てきたのと同じ閃光せんこうが、サマエル目がけて伸びていく──。

「危ない、お師匠様っ!」
思わず、ジルは叫ぶ。
「──ディークタ・ヴェイド!」
しかし、サマエルの呪文の前に、閃光は瞬時にかき消された。
「一万年前と同じと、甘く見てもらっては困るな」

「フフン。そう来なくては詰まらぬ。
……では、これでどうだ?
──ディカパティート!」
セリンの杖から、上空目がけて放出された黒い魔力が無数のやりとなり、魔族の王子に一斉に降り注ぐ。
それは地面に当たると続々と爆発し、もうもうと上がる爆煙で、一挙に周囲の視界はふさがれた。

「お、お師匠様──っ!」
ジルの声は悲鳴に近かった。
「クク……もう終わりか、魔族の王子の最期とはいえ、あっけないものだな。
まあ、それだけおぬしの力が絶大だということよの、“黯黒の眸”」
黒の魔法使いは、異様に紅い唇を、闇色の貴石に押し当てた。