TEKKEN SHORT STORIES
仁のいない日~ラースの一番長い日~(3)
「うっ……!」
外に出た途端、カッと太陽が照りつけ、ラースは思わず片手を上げて、ぎらつく日差しをさえぎった。
灼熱地獄に突き落とされたような熱気に全身が包まれ、こめかみから汗が噴き出して来る。
「くう、なんて暑さだ……」
北欧の国、スウェーデンで生まれ育った彼にとっては、日本の暑さは耐えがたかった。
何年住もうが、特に関東地方の蒸し暑さには、到底慣れそうにない。
それはともかく、花郎はどこへ行ったのか。
見回すと、道路の少し右に行ったところに、サンダルが落ちているのが眼に入った。
左右はバラバラ、片方は裏返しになっている。
(……花郎の、だな)
歩み寄り、拾い上げて確認し、彼は再び周囲を見渡す。
慌てて転んで脱げたのか、それとも、走りにくくて脱ぎ捨てて行ったのだろうか。
花屋の前には、左右にまっすぐ道路が延びているが、真夏の昼下がり、人影もなく、花郎の姿も見えない。
それでも、この状況から考えるに、花郎は右の方へ行ったのだろう。
まださほど遠くへは行っていまい、すぐに追いつけるはずだ。
ラースはサンダルを道路の脇に置き、花郎を追いかけ始めた。
ゆらゆらと陽炎かげろうが立つ中を走り出すと、熱風が吹きつけ、汗が体にまといつき、すぐに息が上がってしまう。
しかし、行けども行けども花郎の姿は見えず、車の一台さえも通らない。
前方にまっすぐ伸びる道路を、恨めしげに見ながら、彼は走る。
やがて、わき腹が痛くなって来た。
しばらくは頑張っていたものの、ついにラースは足を止め、膝に手を当てて前かがみになり、息をついた。
「く、そ、体が、重い……最近、走り込み、とか、してないから、な……。
……にしても、花郎の、ヤツ……何て、足が、速い、んだ……!」
悪態をついた途端、大量の汗が噴き出し、彼は顔をしかめてボタンを外すと、シャツの胸元を大きく開けて風を入れた。
(おかしいな……追いつきはしないまでも、姿が見えて来てもいいはずなんだが……。
まさか……どこかに隠れてる、とか……?)
彼は首を上げ、またも周囲に視線を送るが、辺りには住宅がびっしりと立ち並び、隠れてやり過ごすような場所もない。
(ふう……これじゃ、埒らちが明かないぞ……一旦戻るか)
仕方なく、彼は今来た道を、とぼとぼと戻り始めた。
「あれ? ラースおじちゃん?」
そのとき、後で、可愛らしい声が聞こえた。
振り返ると、麦わら帽子の少女が、眼を丸くして彼を見上げていた。
「あ……マミちゃんか。どこか、お出かけかい?」
「うん、お兄ちゃんが帰って来たら、一緒にプールに行くの」
少女は、うれしそうに、手にした浮き輪を持ち上げて見せた。
「……そう。あ、そうだ、マミちゃん、花郎を見なかった?」
マミは首を横に振った。
「ううん。お花屋さんの自動車、見てないわ」
「いや、車じゃなくて。花郎、こっちに走って来なかったかな?」
「花郎お兄ちゃん? 走って?」
小首をかしげ、それから少女は言った。
「ううん、来なかったわ。
あたし、早くお兄ちゃんが来ないかなって、ずーっと窓からお外見てたけど、だーれも来なかったもん」
「そうか、ありがとう。やっぱり、こっちじゃなかったみたいだ」
礼を言い、ラースが歩き出すと、その背中に少女は声をかけた。
「お腹が空いたら戻って来るわよ」
「え?」
首だけ振り向くと、マミは言った。
「ママがいつも言ってるの。お兄ちゃんがなかなか帰って来ないとき。
お腹が空いたら戻って来るよ、って」
「そう……だね、お店で待ってればいいね」
「うん」
「じゃあね、マミちゃん」
「バイバイ」
手を振る少女に片手を上げて見せ、ラースは戻り始めた。
考えてみれば、花郎が飛び出したすぐ後に自分も外に出たのだから、彼の後ろ姿が見えていて当然、のはずだった。
……だが、見えなかった。
ということは、花郎は、わざと右にサンダルを置いてダミーとし、逆方向に逃げたのか?
(くそ、手の込んだことを……!)
舌打ちしたラースは、再び汗をぬぐい、歩き続けた。
行きよりも、帰りの方が長く感じられる。
店の前を通り過ぎ、ラースはそのまま、まっすぐ進んで行った。
花郎に追いつこうと焦りはするが、さすがにもう、走る気はしなかった。
じりじり照りつける日光は容赦なく肌を焼き、背中や脇を汗が流れる感触が気持ち悪い。
しかし、花郎が出て行ってからすでに時間が経っており、いくら行っても、花郎はおろか人影一つ、見えては来ない。
それにしても、今日は暑い。喉がひりつく。
(駄目だ、戻ろう……このままじゃ脱水症になって、下手をすれば病院行きだ)
花郎が店を長いこと開けておくわけもない、マミが言ったように、いずれ必ず戻って来るだろう。
そのときにもう一度謝って、誤解を解こう。
ラースは重い足取りで、元来た道を引き返し始めた。
眼に突き刺さるような強烈な日差しを、片手を上げてさえぎってもあまり効果はなく、ようやく花屋まで戻って来たときには、かなり気分が滅入めいっていた。
(はぁ、やっと着いた……涼しいところで少し休もう……ん?)
中に入ろうとした彼は、はっとした。
ドアが開かない。
(む……鍵なんか閉めたか?)
そんな余裕はなかったはず、だった。
よく見ると、ごていねいに、『本日休業』の札までがかかっている。
(……どういうことだ……!?)
暑さでもうろうとしていたラースは混乱し、頭が真っ白になって、がくりと膝をついた。
「熱ち……!」
道路に手をついた瞬間、理解が脳を駆け抜けた。
こんな焼けて熱いアスファルトの上を、裸足で走り続けるなんて、絶対無理に決まっている。
(……やられた。俺もバカだな、花郎は、どこにも行ってなかったんだ)
ラースは頭を振り、大きく息をつく。
それから、ゆっくりと立ち上がり、彼はドアを叩いた。
「おーい、花郎、開けてくれ! 中にいるんだろう!?
謝るから、俺の話を聞いてくれないか! おい、花郎、花郎!」
何度呼んでも、返事はない。
「くそ……!」
彼は滴る汗をぬぐい、ともかく店の裏に回ってみた。
幸い、勝手口のドアは鍵がかかっていなかった。
「おい、花郎、いるんだろう、返事くらいしろよ!」
ドアを勢いよく開け、ラースは中に入る。
「花郎、どこだ!?」
台所には誰もおらず、二階の部屋にも行ってみたが、もぬけの殻だった。
そうこうするうち、ラースの喉の渇きは限界に達していた。
ともかく何か飲もうと台所に戻ったが、蛇口からはぬるい水が出るだけだった。
(そうだ、麦茶だ!)
急いで冷蔵庫を開け、彼は、ビンのまま麦茶を一気飲みした。
冷たい飲み物が喉をうるおし、ようやく人心地がついた。
「ふうー」
花を長持ちさせるため、人がいないときでも、常に室内は冷房が効いている。
ひんやりした空気の中、崩れるように食卓に座り込むと、一息つく。
そうしているうちに、ラースもようやく、冷静に考えを巡らす余裕が出て来た。
花郎の取った行動は、おそらく、こうだ。
店を飛び出した直後、サンダルを脱ぎ、右の方に放り投げると、物陰に隠れて様子を窺うかがう。
そして、後を追って来た俺が、狙い通り、右側に向かって走り出すのを見届けてから、店内に戻って鍵をかけ、休業の札を下げておいて、靴を履はき、出て行った……。
あの短時間に、追跡を免れる方法を考えつき、とっさに実行に移すとは。
ラースは、花郎の頭の回転が早いことに舌を巻いた。
それまでは、口が達者な男だな、くらいにしか思っていなかったのだが。
「……ここまでとはね。部下に欲しいくらいだよ」
思わず、ラースは口に出した。
こんなに機転の利く部下が一人でもいたら、昨日も、徹夜などしなくて済んだかも知れなかった。
それはさて置き、これからどうするかだったが。
幸運なことに、花郎の携帯電話は、テーブルの上に置かれたままだった。
(仁が戻って来て、花郎がさっきの一幕を話す前に、誤解を解くよう、最善を尽くすしかないだろうな)
ラースは渋々、立ち上がった。
勝手口に戻ってみると、さっきは焦っていて気づかなかったが、花郎がいつも履いているスニーカー見当たらなかった。
(やっぱりな……あんな熱いアスファルトの上を、裸足でそんなに行けるわけがない、ってことに、
最初に気づくべきだったよ。
……そういえば、ここを行くと、河原に出るんだったか)
勝手口を出た先には細い道があり、花郎と仁は閉店後、そこを通って、河原へ涼みに行ったりしていた。
ときにはラース自身も、二人の散歩に付き合ってもいたのだ。
こうなると、花郎は、この道を行ったとしか考えられなかった。
ラースは、手をかざして道の先を見たが、誰の姿もない。
それでも、仁はもうじき帰って来るのだし、店のことも気になるだろうから、花郎がそんなに遠くまで 行ってしまうはずはなかった。
多分、自分が店から出て行くまで時間を潰し、その後に戻って来るつもりなのだろう。
とすれば、花郎がまだ河原にいる可能性は高そうだった。
「……いてくれるといいが」
ラースはつぶやき、歩き出した。

