~紅龍の夢~

番外編 BLUE MOON (18)

二人は時も忘れて愛し合い、そのまま朝を迎えた。
太陽が、水平線から輝かしい姿を現す。
「ご覧、ジル。日が昇るよ……」
「綺麗……素敵な一日が始まるんだわ……」
「……ジル?」
腕の中で眠り込んでしまった妻を、サマエルは愛おしげに抱きしめ、口づけた。

夜の間に、二人は、かなり沖まで流されていた。
翼を広げ、元の島まで戻ろうと舞い上がったとき、サマエルの眼に入ったのは、ヤシの木がまばらに生えた小さな無人島だった。
このまま帰ってしまうのも、どこか名残り惜しい。
今日はここで過ごそうと決め、彼は白い砂浜に舞い降りた。

そして、念のため結界を張ってから、ヤシの木にハンモックを二つ吊るし、一つに妻をそっと寝かせ、自分は隣に身を横たえた。
ジルは、安らかな寝息を立てていた。
波と葉ずれの音だけが聞こえ、潮風が優しく二人の吊床を揺らす。

(ああ、久しぶりだ、こんなに気分がいいのは……)
幸福な気持ちで、そよぐ風に身を任せているうち、知らず知らずサマエルも、眠りに落ちていた。

太陽が真上に来た頃、二人はほぼ同時に目覚めた。
「……お早う、奥さん」
すでに朝ではなかったが、サマエルは、妻にそう声をかけた。
「え、あ……、サマエル、お早う……でも、ここ、どこ?」
ジルは眼をこすりながら、不思議そうに辺りを見回す。

「沖の無人島だよ。
ヤシの木がいい感じに生えていたから、これで寝てみるのも、風情があっていいかなと思ってね」
彼は、手でハンモックを示した。

「わー、ホントだ、すごい! あたし、一度寝てみたいと思ってたのよ!」
ジルは眼を輝かせ、ハンモックを揺する。
「そう、よかった」
妻のはしゃぐ様子に、サマエルも顔をほころばせた。

朝昼兼用の食事をとり、二人は浜辺に並んで座った。
昨夜の嵐がまるで嘘のような穏やかな海、足元に波が打ち寄せ、砕ける。

彼の肩にもたれかかり、ジルは自分の腹部に触れた。
「ね、サマエル……これで、赤ちゃん、出来るのよね?」
サマエルは眼を伏せた。
「そう、だね、多分……。
でも、本当に……これでよかったのか、な……?」
「え、どうして、そんなこと言うの?」

「生まれた子を愛せるか、自信がなくてね……。
それに、私はインキュバス……関係を持ったが最後、もう抑えは利かない、私は毎晩、いや、暇さえあれば、キミの体を求めてしまうよ。
結果、次々子供を生む羽目になり、キミは疲れ果て、赤ん坊の世話どころではなくなるかも知れない……そうしたら、キミは……」

「待って」
ジルは、彼の唇に指をあてがい、黙らせた。
「たしかにあたしも、疲れちゃったりして、起きれないときがあるかも知れないわ。
でも、そのときは、サマエルが赤ちゃんのお世話をしてくれるんでしょ?
子育てって、母親だけじゃなく、夫婦でやるものじゃない」

「こ、子守り……私が? お乳をあげたり、あやしたり……ああ、とても出来そうにないよ……。
そ、それに、いくら頑張っても、赤ん坊が泣き止まなかったら……?
私は、頭がおかしいのだよ、ひょっとしたら、思い余って、赤ん坊を、手に掛けたりするかも……」
狼狽(ろうばい)したサマエルは、おろおろと言った。

「大丈夫よ、落ち着いて。
サマエルはそんな人じゃないし、赤ちゃんのお世話だって、慣れればきっと上手になるわ。
……あ、それに、一人で頑張ることないじゃない、タィフィンがいるもの。
手伝ってもらえばいいのよ、ね?」
なだめるように、ジルは言う。

「タィフィン……?」
オウム返しに口にした途端、サマエルの顔は、ぱっと明るくなった。
「そうだ、忘れていたよ、魔界にいた時分、彼女は子守りをしていたのだ。
面倒見がとてもよくてね、こんなに子供に懐かれているのなら、きっといい使い魔になるだろうと思い、契約したのだった……」

「素敵! ホントはあたしも、ちょっとだけ心配だったの。
妹や弟のお世話は、一応、やってたんだけど……」
ジルは、ちょろっと舌を出した。
「……そうか、キミも……」

ジルも、やはり不安だったのだ。
彼女の両親や、イナンナの一家を除く親戚もすべて亡くなっており、頼る相手はいないのだから。

(……ああ、私ときたら、何をおたおたしているのだか。
一家の大黒柱として、しっかりしなければ……!)
サマエルは、決意を新たにした。

その後、食事と睡眠以外のほとんどを愛し合って過ごすうち、いつしか、三日が経ち、ジルが言った。
「……ねえ、一回、宿に戻らない?
荷物や、リュイに描いてもらった絵も取りに行かなきゃ。
そして、またここに来ればいいわ」
 
「そうだね、戻ろうか。あ、その前に……」
サマエルは再び、黒い短髪と青い眼、日焼けした肌に姿を変えた。
「……どうかな、この姿……?」
自信なさげに、前と同じ問いかけを、彼は口にする。

「とってもかっこいいわ、すごくいい……!」
頬を上気させ、瞳も輝かせて、妻は答えた。
「そう、ありがとう」
微笑みかけると、ジルはますます赤くなる。
(ああ、何て可愛い……!)
思わず、サマエルは妻を抱き締め、口づけた。

そうこうしている間に、太陽は西に傾き始める。
ジルは彼の腕の中でもがいた。
「ね、ねえ、サマエルってば、もう出かけないと、日が暮れてしまうわ。
あたしは逃げないし、焦らなくたって、これからたくさん時間はあるのよ」
「……そうだね」
渋々サマエルは彼女を解放し、二人は身なりを整えた。

まだ明るいうちに翼で飛んだりすれば、誰かに見られる恐れがある。
面倒事は避けたいと思い、彼らは魔法で小舟を出して乗り込み、漕ぎ出した。
波は穏やかで、小舟は滑るように進んで行く。

「あ、そういえば、シエンヌはどうなったの?
あのとき、ばたばたしてたから、よく分からなかったけど……」
温かい海の水を片手ですくい上げながら、ジルは尋ねた。

「……ああ、彼女ね……」
(かい)で漕いでいたサマエルは、一瞬、眼が泳ぐも、何気なく答える。
「私としては……考え得る最上の方法で、救ったつもり……なのだけれど」
「そう、よかった!」
ジルは無邪気に喜んだ。

少し心が痛んだが、その言葉は彼の本心だった。
しがらみから解き放たれ自由になったリュイは、今頃は一人、ファイディーに向う船の上……だろうか。

(だが、不自由な身というのも、思ったほど悪くないな……。
こんなことなら、もっと早く……)
微笑みかけると、妻は、はにかみながらも、極上の笑みを返して来る。
天にも昇る心地……こんなに幸せでいいのかと、サマエルは思ってしまう。

「あ、見えて来たわよ、あの島よね」
ジルが島影を指差し、もう着いてしまうのかと、彼は少し心が暗くなる。
これからも、ずっと一緒にいられると、頭では分かってはいたのだが。
「三日も、何も言わずに留守にしちゃったから、宿のおかみさん、心配してるんじゃないかしら」
「……まあ、嵐で沖に流されて、なかなか帰って来れなかったと言えば……嘘ではないし、ね」

岸に上がり、街中に入ると、気のせいか、すれ違う人が皆、自分達を見ているようだった。
「……ねぇ、何だか、あたし達、見られてない?」
ジルはささやく。
「キミではなく、私だろうね……」
サマエルは、ため息混じりに答えた。
「え、ローブ着て、顔も隠してるのに?」
「この程度では、夢魔の力は隠せないよ……早く宿へ行こう」

ようやく“おてんば人魚亭”に着くと、おかみが笑顔で迎えてくれた。
「よかったよ、心配してたんだ、連絡も何もないしさ。
リュイが一度訪ねて来てね、お客さん達はもう、戻らないんじゃないかって言ったもんだから」

「ごめんなさい」
「すみませんでした」
二人は揃って頭を下げた。
「いやいや、そんな、頭を上げとくれ、お客さんなんだよ、お前さん方」
おかみは、慌てて手を振り回す。

「小舟を借りて沖に出ていたら、急な嵐で沈んでしまって……どうにか泳ぎついた先は無人島で、すぐには帰れなかったんですよ」
「そりゃ大変だったね、でも、ホント、無事でよかった。
あ、そうだ、もし戻って来たら伝えてくれって、リュイから伝言があったんだっけ。
『人でなしなんて言って悪かった』って……リュイと何かあったのかい?」
「いや、ちょっとした行き違いでね」

「そうかい。
……実はね、お前さん方がいない間に、いろんなことがあったんだよ。
ええと、何から話そうか……そうそう、まずはシエンヌのことからだね」
サマエルはぎくりとしたが、おかみは気づかず、話し続けた。

「彼女、やっと正気に戻ったようなんだけど、代わりに記憶を失くしちまったそうでねぇ。
気の毒に、リュイ、しょげちまってたよ、彼のことも、全然覚えてないんだって……」
「え、可哀想……」
サマエルは無言でいたが、ジルの視線を、痛いほど感じていた。

「でもね、いい話もあるんだ。
船が沈んで死んだとばかり思ってた、シエンヌの親父さん、生きてたんだよ。
お陰で、シエンヌのおっ母さんは見違えるように元気になったって」
ぱっと、ジルも明るい顔になる。
「じゃ、後は、シエンヌの記憶が戻ればいいのね」

「そうさねぇ……。
まあ、どっちにしろ、リュイは、ジェガなんかと結婚しなくてよかったよ、あんな犯罪者一家と関わったら、今頃は大変だったろうからね」
おかみは眉をしかめ、ジルは小首をかしげた。
「え? 犯罪者一家?」

「そうともさ。そもそも、シエンヌの親父さんの船が沈んだのは、町長……ジェガの父親の仕業だった、ってんだから驚きさね。
ならず者どもを雇って、海賊の仕業に見せかけ、船員を皆殺しに……でも、そん中に、昔、親父さんに世話になった男がいて、ケガした親父さんを死んだことにして、かくまってくれたそうでねぇ……親切はしとくもんさ。
ようやくケガが治って戻って来た親父さんの訴えで、町長はしょっぴかれたってわけ」
「まあ、そうだったの……」
ジルは、眼を真ん丸くした。

「けど、娘のジェガの方も、父親に負けず劣らずだよ。
邪魔になった元婚約者を、金を積んで殺させて、死体を海に放り込んだって。
前からいい噂は聞かなかったけど、まさか、あそこまでとはねぇ……!」
身震いしながらおかみが指す壁には、醜くなる前の、ジュガの絵姿が載った手配書が張られていた。

「……たしかに、色々ですね」
サマエルは、ポツリと言った。
「あ、すまないね、一人でしゃべっちまって。
ずっと無人島にいたんなら、お腹減ってるよねぇ、今、何か元気の出るものを……」

「いえ、食事は、ここに来る前にとりました。
今日はもう休んで、明日、出発しますから」
女将の提案を断り、サマエルは、逃げるように階段に向かう。
「待って」
慌てて、ジルはその後を追った。

部屋に入ると、サマエルは、うつむき加減でベッドに腰掛けた。
「……サマエル、あのね……」
妻の問いかけに先んじて、彼は言った。
「分かっているよ、どうしてシエンヌの記憶を消したか、だろう?」
「……うん」
ジルは、こっくりとうなずく。

「……彼女を正気に戻すには、それしかなかったのだよ。
リュイのことまで忘れてしまったのは、気の毒だけれど……。
もし、彼女が神族の血を引いていなければ、忌まわしい記憶だけ抜き取ることも可能だったかも知れないが……私に出来たのは、彼女の記憶をすべて、精気と一緒に吸い取ることだけだった……」

「あ、それで、リュイは怒って、酷いこと言ったのね……?」
「すまない……これが私の出来る、最善の策だったのだ……」
サマエルは頭を下げた。
「謝らないでってば。サマエルは頑張ってくれたわ。
あの二人なら、もう一度、恋人同士になれるわよ、きっと……」

「そうあって欲しいものだが……」
口ではそう答えたが、リュイは一人で旅立つべきだと、彼は思っていた。
シエンヌ母子の面倒を看る必要はもうないのだし、絵画と魔力の制御法を学び、悲劇を繰り返さないためにも。

「それと、ジェガって、酷いことばかりしてたのね……あ、もしかして、サマエルは知ってたの?」
「ああ。水晶球を覗いたら見えたよ、口にしたくないようなものが、たくさんね……」
サマエルの眼に、暗い光がたゆたう。

「私は、不殺生(ふせっしょう)を信条にしているが、それにしても……。
反省と(つぐな)いをさせたくて、ジェガの命は取らなかったけれど……。
今頃、彼女は生き地獄を味わっているだろう」
「……ジェガに何をしたの?」

「醜くしたよ、とてつもなくね。
ただし、心の醜さを反映した姿だから、心を入れ替えることが出来れば、元に戻れるのだよ。
同じ術をかけても、キミはまったく変わらないだろう……逆に、美しくなるかも知れないな……」

「嫌よ、そんなの。あたし、この顔がいいわ」
ジルは自分のほっぺたをつまみ、それから、彼の眼を覗き込んだ。
「でも……サマエルは、もっと綺麗な人が好き?」
彼は首を横に振った。
「いや、私も、そのままのキミがいいよ。
それに、私は自分の顔が嫌いだ……術をかけ、もっともっと醜くするべきかな……」

「え、同じ術なら、サマエルは綺麗になると思うけど?
あ、そしたら、ドキドキが止まらなくなっちゃうわ、大変。
あたしは好きよ、サマエルの顔。他の全部も、だーい好き!」
夫の胸に、ジルは飛び込んだ。
そして、彼らは再び、至福の時を楽しんだ。