「空腹だったところでもあるし、ちょうどいい。
それでも……傷は完治したし、キミの素晴らしい絵に免じて、命は取らない、少し精気を吸い、もてあそんだ後は、生かして解放することにしよう。
今度こそ、シエンヌは完全に狂い、サキュバスのごとく、男を求めてさ迷い歩くようになるだろうけれどね、くく……」
サマエルは、凄絶な笑みを浮かべた。
「や、やめてくれ! いや、やめて下さい!
あなたも、賢者サマエルと呼ばれたほどの人なら、そんな酷いこと、しないで下さい……」
「私は人ではない。“賢者”も、お前達人間が勝手につけた呼び名だ。
それに、シエンヌは乙女ではないから、さほど良心も痛まないね」
すがるようなリュイに対するサマエルの返事は、そっけなかった。
「何だと、この人でなし!」
カッとなった青年は殴りかかろうとするが、拳どころか指さえ動かせない。
魔界の王子はそれを横目で見、冷たく微笑んだ。
「忘れていた、彼女の狂気の原因を教える約束だったな」
途端に、シエンヌの表情が変わった。
「や、やめて、言わないで! 彼にだけは知られたくないの!」
しかし、サマエルは冷ややかに彼女を見た。
「私を傷つけ、せっかくの新婚旅行を台無しにしておいて、何を今さら。
不快の極みだ」
「ご、ごめんなさい、謝るから、それだけは彼に言わないで!」
シエンヌは、祈るように手を合わせた。
「嫌だね。リュイ、聞くがいい、シエンヌが狂った訳を。それは……」
「やめてぇー!」
サマエルは、飛びかかって来た少女を軽くいなし、話を続けた。
「簡単なことだ。ジュガが、ならず者達を雇って彼女の体を汚したからだよ。
狂った後も、シエンヌはお前のことだけを考え、自分を諦めさせようとした。
さっきのように、時折は正常に戻っていたのだろうな」
「いやああああ……!」
シエンヌは悲鳴を上げ、その場にくずおれた。
「シ、シエンヌ!」
リュイはもがくが、やはり動けず、気絶した彼女を見ることしか出来ない。
「ああ……僕は知らずに……キミの仇と結婚しようとしてたのか……?」
つぶやくその顔からは、血の気が失せていた。
「そうさ。ジュガは人一倍、自尊心の強い女だ。
何でも自分が一番でなければ気が済まず、自分よりも優れた女性達を、次々、ならず者に襲わせていたのだよ。
毒を飲まされ、声を失った歌い手や、追い詰められて自殺した女性もいた……」
「そ、そういえば……ジュガより綺麗な子は、皆、いなくなって……いつの間にか、彼女が島一番の美人ってことに……まさか、そんな、まさか」
まだ信じられずにいる様子の青年に、サマエルはさらに教えた。
「女だけではない。ジュガの婚約者だった男が、行方知れずになったのを知っているか?」
「……あ、ああ、知ってるとも、隣島の村長の息子だろう?
けど、あいつは二股かけてて、別な女と逃げたって、ジュガは泣いてたぞ!」
「それも嘘だな、涙も、同情を引くための演技だ。
お前の方が好みだったから、婚約者が邪魔になったのだな。
その男、今頃は魚の餌になっているだろうさ、可哀想に」
「そんな……」
あまりのことに、リュイは言葉を失った。
「お前は魔族……インキュバスの血を引いている。
女達は、灯りに集まる虫のようにその血に惹かれ、群がるのだ……お前の周りの女性が不幸になるのは、全部お前のせいだ」
魔族の王子は、冷酷に宣言する。
リュイはただ、口をパクパクさせるだけだった。
「もしもお前に会わなければ、生家が没落したとしても、シエンヌは母と二人、慎ましく暮らせていたはずだ。
ジュガも、殺人にまで手を染めることはなかったろう、魔性の女となったのも、すべてお前のせいなのだ!」
サマエルは、若者に指を突きつけた。
「そんな……すべて、僕のせい……!?
く……だったら……そうだ、あんたはどうなんだ!」
リュイは食いしばるように言った。
「私……?」
「そうだよ。あんただって、奥さんを、ジルさんを騙してるんじゃないのか!?」
「まさか。彼女は私の素性を知った上で、一緒になると言ってくれたのだ」
「嘘つけ、術でもかけたんだろう!」
王子は頭を振った。
「そんなことはしていない。
第一、彼女のように魔力が強い女性には、術などかからないよ。
かつて私は、病気で死にかけていた彼女を助けた……成人したら、独立させるつもりで……なのに、兄が妃にすると言い出し、連れて行こうとした……だが、魔界は人族にとって過酷な場所だ、そこでやむなく、手元に置くことになり……彼女も私を選んでくれた……けれど……」
サマエルは、天を仰いだ。
あれほど晴れ渡っていた空は、いつしか厚い雲に覆われて、ぽつぽつと雨が降り出していた。
「今は、少し後悔しているかな、彼女の自由を奪ってしまったような気がして。
それに……時々、愛など知らなければよかったと思う時もある……。
今も一人だったなら、私は……今も地下深くで、安らかに眠っていられたのにと……なまじ、彼女を連れ帰ったばかりに、私は……心の平安をなくしてしまったような気がして……」
サマエルがそう言った時、近くの茂みが、がさりと音を立てた。
はっと口をつぐんだ時には遅く、そこにはジルが立っていた。
「サマエル……あたしのこと、そんな風に思ってたの……?」
「ジ、ジル、いや、違う……」
「どう違うの? ずっと、邪魔、だったんでしょう?
だから、……」
大粒の涙が、ぽろぽろと、栗色の瞳からこぼれ出る。
「いや、そうではないのだ、ジル、聞いてくれ……」
「もういいわ、分かったから。あたしなんて、いない方がいいのね。
──さよなら!」
そう言うと、ジルは砂浜目がけて駆け出し、勢いよく海に飛び込んだ。
「ジル! ……ああ」
手を伸ばしかけた魔界の王子は、すぐに下ろしてしまった。
「……いいのか? 追わなくて」
問われて、彼は首を横に振った。
「……彼女はついに、私に愛想を尽かしたのだろう……。
何があっても、私を信じて付いて来てくれたのに、去って行く……それを止める権利は、私にはない……」
「馬鹿野郎!」
動けないまま、リュイは叫んだ。
「何で、彼女が逃げ出したと思う! お前に追いかけて来て欲しいからだ!
いや、追いかけて来てくれるかどうか、試してるんだよ!」
「……そんなわけ……」
サマエルが言ったとき、彼の心の内を流れる涙のように、雨脚が激しくなり始めた。
ざわざわとヤシの木が揺れ、波も高くなっていく。
「お、おい、ヤバイぞ、
こんなに波が高いんじゃ、泳ぎが達者でも溺れるかも……」
「……大丈夫さ、彼女は魔法が使えるのだから」
「そういう問題じゃない!
もしかしたら、彼女は、生きる気力をなくして、泳ぐのを諦めちまうかも知れないってことだ、あんた、奥さんが死んでもいいのかよ!?」
リュイは声を振り絞った。
「まさか、そんな……」
「いいから、早く行け!」
「……」
サマエルはリュイをちらりと見、それから、まだ気を失っているシエンヌに歩み寄ると、抱き上げて唇を奪った。
「あ、な、何するんだ!?」
「彼女は、それこそ死んだ方が幸せだ。
お前にだけは知られたくなかった秘密を、知られてしまって。
だから、精気を吸い尽くしたのさ」
サマエルは、ぴくりとも動かないシエンヌを地面に寝かせ、背中の黒い翼を羽ばたかせて、空に舞い上がった。
「あ、動ける!?」
途端に金縛りが解けたリュイは、恋人に駆け寄り、抱き起こした。
「シエンヌ、死ぬな、眼を開けてくれ!」
「……これでお前の足枷は、全部なくなったな」
上空にいたサマエルは、無表情に言った。
「え、全部って……まさか?」
はっとしたリュイは、シエンヌの家に視線を向けた。
「こ、この人でなし!
僕は、彼女とお母さんを支えて行こうと思ってたのに!」
「今までのお前は、無意識に力を使っていて、そのことが不幸を招いていた。
だが、もし、力を制御しつつ絵の勉強をしたいなら、ファイディー王立魔法学院へ行くといい。
ただし、私の名を出すのは、学院長の前だけにしておくことだな、命が惜しければ」
「ま、待て、サマエル! 許さないぞ! 僕はお前を……!」
悲痛な叫びを背中に聞いて、サマエルは、ジルを捜して飛び始めた。
荒れ狂う波と、たたきつけるように降りしきる雨、どこから吹き付けるか予想もつかない風に翻弄されながら、サマエルは、恋しい妻の姿を暗い海に探し求めた。
「──ジル! ジル、どこだ! 返事をしてくれ!」
声を枯らして叫んでも、応えはない。
この嵐が、まるでジルの拒絶のように思えて来て、彼はくじけそうになる。
(いや、駄目だ、ここで諦めたら、絶対後悔する。
ジルを見つけ出し、そして……謝ろう。
とことん謝って、それでも駄目だったら……そのときは。
そう、きちんと別れよう。こんな中途半端な別離は嫌だ……!)
彼はそう思い、捜し続けた。
しかし、夜目が効く彼の魔眼でも、中々ジルの姿は捉えられない。
(……おかしいな。この嵐の中、そんなに速く泳げるわけがないのに……。
呪文で移動したのか……? いや、それなら、魔力の波動を感じるはず……)
不審に思った彼は、念話に切り替えた。
“ジル……ジル! どこにいる? 返事をしてくれ!”
心を澄まし待ってみても、やはり、彼女の意思は返って来ない。
サマエルは眼を閉じ、嵐を無視して、ジルを感じようと努めた。
「あ……まさか!」
思わず、彼は眼を見開いた。
答えがないのも当然、彼女の反応は海中にあり、それも、海の底に向かって沈んで行っていたのだ。
「……く!」
急ぎ、サマエルは指を二本立て、さっと振る。
途端に、水柱が、まるで鎌首をもたげる水蛇のように空高く伸びたかと思うと、すさまじい勢いで彼目がけて急降下して来た。
「いた!」
臆することなく彼は水流を受け止め、その中から、愛しい妻の体をすくい取った。
「ジル、しっかり!」
揺さぶっても、すでに息はなく、彼女の心臓も止まっていた。
「……死なせるものか!」
彼は妻の胸に手を当て、魔力で心臓に刺激を与えた。
鼓動の再開を確かめ、人工呼吸を開始する。
それでも、中々意識は戻らない。
(死なないでくれ、ジル……!
私は、まだ、ちゃんとキミに謝っていない、生き返ってくれ……!)
懸命に、彼は妻に息を吹き込み続けた。
「うっ、……ごぼっ、う、ごほ、ごほっ」
そうして、ついに、ジルは息を吹き返した。
「よかった……大丈夫かい、気分はどう?」
心から安堵したサマエルは、妻の背中を優しくさすった。
「サマエル……?
来てくれたのね、ああ、サマエル!」
正気づいたジルは、彼の首に抱きついた。
その言葉と態度が、リュイの推測が正しかったことを物語っていた。
サマエルは、天に向かって拳を突き上げた。
その刹那、空を覆い尽くしていた雲は消え、あれほど激しかった嵐はぴたりとやんで、大きな明るい満月が、煌々と海面を照らし出した。
「……済まない、ジル。
何もかも私がいけないのだ、愚かな私を許してくれ、許すと言ってくれ、そして、戻って来てくれ……!
でないと、私は生きていけない、済まない、ジル、済まない、済まない……」
波の音だけが聞こえる中、彼は妻を抱き締め、ひたすら謝り続けた。
ジルは悲しげに彼を見つめた。
「そんなに謝られると、辛いわ。
サマエルって、何も悪いことしてないときでも、いつも謝ってばっかりなんだもの」
「済まない……あ、いや……だったら、何と言えば……いいのだろう……」
サマエルは、眼を伏せるしかなかった。
「そうね……じゃあ、ありがとう、って言えばいいんじゃないかしら?
来てくれてありがとう、あたし、すっごくうれしいわ……!」
ジルは、彼の顔に冷たい頬をすり寄せた。
「ああ……ジル……!
こちらこそ、私の妻になってくれてありがとう……!」
「サマエル!」
穏やかな波間に二人は漂い、しばしの間、固く抱き合っていた。
「体が冷え切ってしまったね……そろそろ陸に……」
言いかけたとき、空に輝く満月が眼に入り、サマエルはあることに気づいた。
「……ああ、ご覧、ジル。今日はブルームーンだよ」
「え? でも、青くないけど?」
ジルは小首をかしげた。
「いや、色のことではなくてね。
覚えているかい? 屋敷を出た日も満月だった……あれからちょうど一ヶ月だよ。
通常、満月は月に一度……それが二度あるとき、奇跡の月……ブルームーンと呼ぶのさ」
「そうなの。素敵な呼び方ね。
……あ、ねえ、見て。
海に映ってるお月様の光が、ながーく伸びて、まるで階段みたいじゃない?
あれを登ったら、お空に行けそう。綺麗ね……」
うっとりとジルは言った。
その言葉通り、海面に映る月の姿は、一筋の輝く帯となり、あたかも空へと続く光の階段のようにも見える。
「月への階段か……。
こんな美しい景色を、二つも同時に見られるなんて、私達はついているね」
「ホントね、ここに来てよかったわ、これもサマエルのお陰よ」
ジルはにっこりした。
「……いや、キミのお陰さ、旅行しようと提案したのはキミだもの」
「ううん、あたし達、二人でいたから、こんな素敵なところに来られたのよ」
「そうか……そうだね」
彼も釣られて微笑み、それから左腕を伸ばして、月にかざした。
(奇跡の月……ブルームーンよ、お願いだ……私に、勇気を与えてくれ!)
そうして、サマエルは、大きく息を吸って心を落ち着け、妻の肩に両手を置き、栗色の瞳を覗き込んだ。
「ジル……海は生命のゆりかごだ。
人界の生物は皆、この海で生まれ、私もその血を半分受け継いでいる。
だから……ここで、新しい命を宿す儀式……を、行ってもいいだろうか?」
「え、儀式? 新しい命……?」
ジルは首をひねる。
「そう、つまり……。
普通なら、夫婦が夜、一つのベッドで行うもの、なのだが……」
気後れしたサマエルの声は、徐々に小さくなっていく。
だが、彼女の眼には、ぱっと理解の光が灯った。
「あ、赤ちゃんを作るってこと?」
「……そう。でも、もし、キミがこんなところでは嫌だと言うなら……」
彼が口ごもると、ジルは頬を赤らめながらも、否定の仕草をした。
「嫌じゃないわ。あたし、うれしい……」
「いいのだね……?」
こくんとうなずく妻にサマエルは口づけ、ついに二人はその夜、晴れて本当の夫婦となった。