水晶球に映し出されたのは、木の枝を杖代わりにしてよろめき歩く、みすぼらしい人物だった。
背骨は弓なりに曲がり、顔は、ほこりまみれのもつれた長い髪に隠されていて、見えない。
着ている物は、元の色が分からないほど汚れ、あちこち擦り切れて穴が開いている。
ジュガはむっとして振り返り、サマエルを睨んだ。
「ちょっと! こんなのが、わたしの未来だって言うつもり!? ふざけないでよっ!」
「……おや? 変ですね……ああ、少々手違いがあったようです、失礼しました」
サマエルは軽く頭を下げ、水晶球をなでるような仕草をした。
「さあ、今度こそ、あなたの未来が映りますよ。よくご覧下さい」
別な画像に替わるかと思いきや、怪しい人影の顔部分が拡大されただけだった。
ジュガが再び抗議しようとしたとき、不意にその人物が顔を上げ、彼女の眼は水晶球に吸いつけられた。
「まあ、ひどい。どうしちゃったの、これ……」
疫病にでも
少し開いた口から覗く歯もまた、ぼろぼろに欠けてしまっている。
元々ジュガは、髪こそ黒だったものの、肌の色は一般のメリーディエス人よりかなり白く、眼も、はしばみ色だった。
そして、超がつくほどではないにしろ、美人の
しかし、今、水晶球に映し出されているの人物の風貌は、果たしてこれが人間なのかどうか、怪しむほどだった……。
「……も、もう、いい加減にして!
人を呼ぶわよ、お父様に言いつけて、二度と占いなんかできないようにしてやるから!」
怒り心頭に達したジュガが叫んだ刹那、サマエルの表情が一変した。
それまで青空のように澄んでいた眼が、妖しい紅へと変わり、さらにその中には闇の炎が燃え上がって、背後からは、瘴気めいた暗黒のオーラが立ち昇り始める。
「な、何……あんた、本当は誰よ、何者なの!?」
優しげだった青年の豹変した態度に、ジュガは息を呑み、たじたじとなった。
サマエルは、そんな町長の娘に冷ややかな眼差しを向け、水晶球を頭上高く差し上げた。
「これに映っているのはまぎれもなく、お前の姿だ。
──さあ、ジュガよ、おのれの犯した罪の報いを受けるがいい、これこそがお前、その醜き心を具現化した真の姿だ!
──暗黒に
──ターピス!」
呪文と共に、彼は力を込めて、水晶球を敷石にたたきつけた。
それが粉々に砕けた次の瞬間、地面にぽかりと穴が開き、何かが飛び出して来て、ジュガに襲い掛かった。
それは、ワニの顔、ライオンの前脚、カバの後ろ脚を持つ魔獣だった。
「ぎゃーっ! な、何よ、こいつ! た、助けて、誰かーっ!」
彼女は大声を上げ、怪物を振り払おうと地面を転げ回った。
「何だ!?」
「どうした!?」
音と悲鳴を聞きつけた人々が、何事かと集まって来る。
しかしその頃には、サマエルが呼び出した闇の魔獣は目的を達し、再び地中へと吸い込まれ、同時に穴もふさがっていた。
「お嬢様!」
大勢の護衛達が駆け寄って来て、そのうちの一人が、倒れたジュガを揺さぶった。
「お嬢様、大丈夫ですか、しっかりなさって下さい!」
残りの男達、十人ほどが、険しい顔で剣を構え、サマエルを取り囲んだ。
「貴様、何者だ!? ジュガ様に何をした!」
「何者かと問うか。
ならば答えよう、我が名はサマエル、ジュガの非道に泣かされた、幾人もの娘達の嘆きに呼び寄せられ、この地へと参った。
そして、ジュガはおのれの悪業の報いを受けた……まさに自業自得だ!」
無慈悲な口調で言い捨てると、サマエルは、呪文を唱えた。
「──ディスイリュージョン!」
たちまち、肌は抜けるような白へと変わり、短かった黒髪もまた背の中ほどまで伸びて、月光を受けて輝く銀となる。
変身を解いたといっても、無論、ここで真の姿を現すわけにはいかない。
当然、魔族の証である角や翼は隠したままだった。
そのとき、ジュガが正気づき、半身を起こした。
「サマエルですって……!? 賢者様が、どうしてこんなことを……」
「お嬢……うわあっ! ば、化け物!」
彼女を助け起こそうとした護衛の一人が、悲鳴を上げ、腰を抜かした。
「な、何だ、こいつは!」
「お嬢様じゃない!?」
「化け物がいるぞ!」
別な護衛達も、ジュガを指差し、口々に声を上げる。
「え? 何、どうしたの……?」
ジュガは訳が分からず、自分の顔に手を当てた。
「
──カンジュア!」
サマエルは鏡を呼び出す。
「さあ、とくと見よ、これがお前の真の姿だ!」
「こ、これが!?
う、嘘よ、こんなっ……! な、何でこんなことをするのよ!
わたしが一体、何をしたって言うのっ!?」
ジュガはぼろぼろと涙を流し、拳で地面をたたく。
空中に浮かぶ鏡に映し出されたのは、ついさっきサマエルが彼女に見せた、水晶球の人物とまったく同一の、たとえようもなく醜い顔だったのだ。
「お前自身の胸に聞くがいい。
……それとも、皆の前で、すべての悪事を暴露される方がいいか?」
サマエルは、紅い眼に暗い怒りの炎を
「え、いえ、その……」
ジュガは、ぎくりとし、口ごもって眼を伏せた。
「レ、レシフェさん……あなたが、賢者サマエルだったなんて……!」
聞き覚えのある声にサマエルが振り返ると、そこに呆然と立っていたのはリュイだった。
「ああ、キミもこのパーティに呼ばれていたのか。
騙していて悪かったね。正体を知られないためには、ああいう嘘をつくしかなかったのだよ」
穏やかな表情に戻り、サマエルは言った。
「そ、それはいいとして、どうして、ジュガにこんなことを?
いや、理由なんかどうでもいい、今すぐ彼女を、元の姿に戻して下さい!」
彼の嘆願に対し、サマエルは否定の身振りをして見せた。
「それはできない。
このままでは、キミもシエンヌも揃って不幸になってしまう……それを阻止して欲しいと、ジルに頼まれたのでね」
リュイは、あっけに取られた顔をした。
「……ジルさんがあなたに? どういうことですか?
あなた方は、散々、シエンヌに迷惑をかけられたのに。どうして今さら、彼女の肩を持つんです?」
「リュイ、キミは不幸な結婚をしようとしているのだよ。
まあ、シエンヌが狂ってしまった理由を知らないから、仕方がないのだけれどね」
「え、彼女が狂った理由?
……お父さんが急に亡くなり、お母さんも病気になってしまったからでしょう?」
それを聞いたサマエルは、痛ましい顔になり、首を横に振った。
「……いいや。
シエンヌの狂気には、口が裂けても言えない……いや、キミにだけは決して聞かせたくない、ある特別な理由があるのだよ。
感受性の強いジルは、敏感にそれを感じ取って……」
「だ、騙されちゃ駄目よ、リュイ!
──皆、何をしているの、早くこいつを捕まえて!
こいつは賢者なんかじゃないわ、わたしに……こんな呪いをかけた、悪い呪術師よ!」
両手で顔を隠し、ジュガが叫ぶと、腕に覚えのある護衛者達は我に返り、剣を構え直した。
「そ、そうだ、サマエルがこんなところにいるはずがない!」
「こいつは、賢者の名を
「──偽者めっ!」
一人が斬りかかるのを合図にして、皆がサマエルにかかっていく。
だが。
無言でサマエルは手を一振りし、全員を宙に浮かせた。
「うわあ!」
「お、下ろせ!」
手足をばたつかせる十人ほどの護衛を背景にして、サマエルは冷たい微笑を浮かべた。
月光に浮かび上がる
「ジュガ。愚かで
この国のみならず、人界や魔界全土を巡ったとしても、私に対抗し得る者はいないぞ。
だが、我とて慈悲の心はある。誠心誠意、祈るがいい、それが天に届けば、必ずや、呪いを解く術を知る者が現れるだろう……。
では、さらばだ」
そう言い残し、立ち去ろうとするサマエルの背中に、リュイは呼びかけた。
「待って下さい、賢者サマエル!
その、理由を教えて下さい、シエンヌが狂った訳を!」
「駄目、駄目よ、そんなヤツに耳を貸しちゃ!」
必死の面持ちで、ジュガは彼に取りすがる。
サマエルはまっすぐにリュイを見つめ、尋ねた。
「それがどんな酷いことでも、受け止める勇気がキミにあるか?」
「はい」
きっぱりとリュイは答える。
「では、教えよう。私と共に来るがいい」
サマエルは手を差し伸べた。
「リュイ、行っちゃ駄目!」
ジュガはさらに強く、彼にしがみついた。
「放してくれ、ジュガ。僕は知らなくちゃいけないんだ、真実を。
それを知らないうちは、キミと結婚もできない……そんな気がする」
「──あああ!」
ついにジュガは顔を覆い、泣き崩れた。
「泣かないでくれ、ジュガ、すぐ戻るから……」
「リュイ、来るのか、来ないのか?」
ジュガに慰めの言葉をかけるリュイを、苛立たしげにサマエルは急かす。
「行きますとも、でも、ちょっと待って下さい、ジュガと話を……」
「そんな女は放っておけばいい。私の話を聞けば、なぜ私がそう言ったか分かるだろう」
そっけなくサマエルは言ってのけ、リュイは、弾かれたようにジュガを見た。
「まさか……!? と、ともかく放してくれ、ジュガ」
「嫌、嫌よ、行かないで」
まだしがみついて来る、ほてったジュガの腕を振りほどき、彼は賢者の冷たい手を取った。
「──ヴェラウェハ!」
再びジュガが彼を捕らえないうちに、サマエルは急いで呪文を唱え、二人を運んだ。
「あれは……シエンヌの家?」
「しっ、静かに」
彼らは、彼女の家の見えるところに来ていた。
シエンヌは一人、窓辺に座り、月を見上げている。
やがて、彼女は独り言を言い始めたが、その口調は、意外なほどしっかりしていた。
「……これでよかったのよね、お金持ちと結婚すれば、絵の勉強も続けられる……。
きっと有名になれるわ、リュイ。
あたしやお母さんの面倒を見るために頑張ってくれるのはうれしいけど、あなたみたいな人が、畑仕事や漁師のまねごとなんて、しちゃいけないのよ……あんな素敵な絵を描けるのに、もったいない……」
しかし、正常な口の利き方もそこまでで、彼女の目つきはすぐにとろんとし、ろれつが回らなくなって、何を言っているのか分からなくなり始めた。
「そぉよ、もう、あたしの、おおじさま……お月さまになて飛んでった、のね……」
「シエンヌ……」
リュイはうつむき、唇を噛んだ。
「キミはここで待っていなさい」
そう言うと、サマエルはシエンヌの前に進み出た。
「お、王子様……!」
シエンヌは再び、正気に戻ったように見えた。
「そう、私は王子だ……ただし、魔界のね。
私の名はサマエル、人界では賢者と呼ばれているが、実のところは、魔族の第二王子なのだよ」
だが、彼の告白にも、シエンヌは動じた様子はなかった。
「……そうじゃないかと思っていたわ。
だって、あなたは、わたしが昔見たままの姿で、全然年取ってないんだもの」
「それで、ジルを傷つけようとしたあげく、私に傷を負わせたのか?
通りすがりの男達に抱きついたのも、リュイに嫌われるためにやっていたのだろう?」
「……その通りよ。怒った?」
「ああ、とても」
眉一つ動かさず、サマエルは答えた。
「それで……わたしを殺しに来たの?」
上目遣いに、シエンヌは問いかける。まったく怖がっている風もなく。
「いや。もっと酷いことをしに来た。その後で殺してあげよう」
そんな恐ろしい言葉にも、シエンヌは動揺を見せなかった。
「……そう。いいわ。もう。
リュイはお金持ちになれるし、お母さんは……お母さんも殺してくれる?
彼の足手まといにしたくない……でも、わたしが死んだのを知ったら……。
でももう、お母さんも多分、長くなさそうだけどね。
……さあ、どうぞ。好きにして」
シエンヌは指を組み合わせて祈り、眼をつぶった。
閉じた目蓋から、涙が一筋、頬を伝う。
「いい覚悟だ……痛くはしない、夢見心地で死なせてあげるよ」
サマエルは、彼女の服を脱がしにかかる。
それを見ていたリュイは我慢できず、飛び出して来た。
「やめて下さい、何をする気なんですか!?」
「リュイ!? いつからそこに……」
シエンヌは驚き、慌てて服の胸元をかき合わせる。
「この人と一緒に来たんだよ!
あなたは……魔族というのはホントなんですか!?」
リュイは、彼に詰め寄る。
「ああ。そして、魔界の王族はすべて夢魔……インキュバスなのだよ。
私はこれから、私が受けた傷と、妻を傷つけようとしたことに対する罰を、彼女に与えようと思う。
そこで見ているがいい。
──ヴォクテム!」
彼がぱちんと指を鳴らすと、リュイの体は動かなくなった。
「な、何を……!?」
「……ふふ、インキュバスがどういう類の魔物か、キミも知っているだろう……?
夜な夜な女性を襲い、何をするか……」
サマエルは、凄みのある笑みを浮かべた。
「そ、そんな!」
リュイは真っ青になった。
きょうまん【驕慢】
おごりたかぶって相手をあなどり、勝手気ままにふるまう・こと(さま)。