「ごめんなさい、サマエル。
あたしが南の島なんかに来たがったりしたから、こんなことに……」
二人が去った後、すっかり打ちひしがれてしまった妻を、サマエルは慰めた。
「そんなことはないよ、ジル。巡り合わせさ。
それに、とても刺激的だったよ、この一月は。これまでの退屈が、すべて吹き飛ぶくらいにね」
「でも、こんな大騒ぎになって、ケガまでしちゃって……」
うつむいたまま、ジルは鼻をすする。
「そうだねぇ……では、そろそろワルプルギスに戻ろうか?
せっかく遠くまで来たのだし、他の島々にも足を運んでみたいなとは思っていたのだけれど。
ジル、キミはどうしたい?」
サマエルは、妻の顔を覗き込む。
「あのね、……ううん、何でもない」
言いかけて、ジルは小さく首を振った。
「どうしたの?」
「……何でもない。言わないでおいた方がいいわ、きっと。
こんなこと、知らない方がいい……」
再び妻の眼から、大粒の涙が流れ始めるのを見たサマエルは、驚いて尋ねた。
「本当にどうしたのだね、ジル?
言いたいことがあるのだったら言っておくれ、キミが辛そうだと私も辛いよ」
「でも……」
「私達の間で、隠し事は無しだよ。言ってみてご覧」
再度彼に促され、ジルはようやく口を開いた。
「うん。ごめんなさい。あのね、シエンヌのことなの。彼女の声が聞こえて来て……。
悲しんでる、謝ってるわ、何度も何度も、サマエルを傷つけてしまったこと。
時々彼女は正気に返るの、そして後悔するんだわ……自分のしてしまったことに」
「……そうか。私は、そういった声に心を閉ざす癖が出来ていてね。
すべてを受け取ってしまうと、この狂った頭が余計に混乱してしまうから。
私同様、彼女も、正気と狂気の間を彷徨っているのだろうな。
可哀想に、完全に狂ってしまった方が、どれほど楽か知れないのにね……」
サマエルは心底、気の毒そうに言う。
「そうなの?
でもね、彼女が変になったのは、お父さんが急に死んじゃったからじゃなかったのよ。
ううん、それもショックだったかも知れないけど……」
「彼女の狂気には、他に理由があるというのかい?」
サマエルの問いかけにうなずいて、ジルは手を差し出す。
その手を取り、サマエルは彼女の心を読んだ。
数分後、彼はわずかに眉をしかめ、痛ましい思いで妻を見た。
「……なるほど、これはひどいな。
こんなことが聞こえてきたのでは、キミが泣いてしまうのも無理はない。辛かったね、ジル」
ジルは否定の仕草をした。
「ううん。ホントに辛かったのはシエンヌの方よ」
「……ふうむ。最初は彼女も、リュイと二人で頑張ろうとしていた……なのに突然、狂気に
憑かれたのには、こんなわけがあったのか……」
王子は、ゆっくりと首を横に振った。
「シエンヌはあなたを傷つけたけど、でも、彼女を助けてあげて。サマエル、お願い!」
ジルは、祈るように胸の前で指を組み合わせた。
困惑した彼は、深く息をついた。
「ふう……難しいねぇ。
自分の心の制御さえ、ろくにできないでいる私が、他人の心の面倒まで
「でも、このままじゃ、リュイだって可哀想よ。
さっきはきついこと言ってたけど、ホントは今でも、シエンヌのことが大好きなんだもの。
好き合ってるのに、別れちゃわなきゃいけないなんて」
思い出したように、サマエルはうなずく。
「ああ、リュイね、たしかに彼には罪はない。
仮に彼が町長の娘と結婚し、その後で、シエンヌの狂気の理由を知ってしまったら、ひどいショックを<受けるに決まっているしね……」
「でしょう? 第一、シエンヌは、リュイが誰かと結婚したら、死ぬつもりでいるのよ。
もし彼女が死んじゃった後で、リュイが本当のこと知ったら、どうなるのかしら……」
ジルは
「ふーむ、彼が自分を責めるだけならまだいいが……ああ、何だか、ひどい悲劇が待っているような気がして来た……」
サマエルは、頭を振って嫌な考えを振り払い、答えた。
「分かったよ、ジル、何とか彼女を助ける手立てを考えてみよう」
「ありがと、サマエル。
でも、まだ血が出てるみたいよ。いつもより、何だか治るの遅い気がするんだけど、大丈夫?」
心配そうに、ジルは彼の胸を指差す。
たしかに、ずきずきする痛みは徐々に強くなりこそすれ、一向に弱まる気配はない。
「……変だな。ジル、手伝ってくれないか、傷を見てみよう。
この後、どうするにせよ、このケガを直さないと自由に動けないからね」
「うん」
サマエルは妻の手を借りてシャツを脱ぎ、血がにじむ包帯を解く。
「まあ、ひどい……全然治ってないわ」
ジルは、またも大きな瞳をうるませた。
彼は首をかしげた。
「……おかしいね、こんな程度のケガ、薬も塗ったし、すぐに癒えると思っていたのだけれど。
雑菌でも入ったかな……魔法を使わなければ駄目のようだ」
痛みには慣れている魔族の王子も、傷がふさがらないことには戸惑っていた。
元々魔族は傷の治りが早い。
まして“カオスの貴公子”である自分の治癒能力の高さには、忌々しささえ感じるほどだったのに。
ともかくサマエルは、治癒魔法を唱えた。
「──フィックス!」
しかし次の瞬間、珍しくも彼は、驚きを声に出してしまっていた。
「こ、これはどうしたことだ、治癒魔法が効かないとは……!?」
「えっ、治癒魔法が!? そんな……じゃ、じゃあ、あたしが!
──キリエイ・アレイアサン!」
代わってジルが急ぎ呪文を唱えるものの、ケガは治る
「ど、どうして? 何で治らないの? ああ、サマエル、このままじゃ……!」
おろおろする妻に、サマエルは優しく声をかける。
「大丈夫だよ、ジル、落ち着いて。
私が人間だったとしても、これは大した傷ではないよ」
「で、でも、どうして? こんなこと初めてだわ。いつもはすぐ治るでしょ、なのに」
「ふうむ、そうだねぇ……」
少しの間、考えを巡らした後、サマエルは口を開いた。
「……可能性として上げられるのは、シエンヌが、天界の……神族の血を引いているのかも知れない、ということくらいだろうか」
ジルは栗色の眼を見開く。
「ええっ、シエンヌが神族? だから魔族のサマエルにケガさせたの!?」
「いや、それだけが理由とは思えないな。この仮説では、キミの呪文までが効かない理由を説明できないし。
──あ、そうだ、もしかしたら」
突如、サマエルは何か思いついたように振り向き、リュイが描いた絵……切り裂かれたカンバスを指差した。
「やはりそうだ。あれだよ、ジル。今気づいたが、リュイにも魔力があるのだ。
そのせいで、私の傷も治らないのだよ」
「えっ、リュイの絵のせいなの!?」
急いでジルはカンバスを手に取り、しげしげと見た。
「……ホントだわ、リュイにも魔力があるのね。とっても弱いから、今まで気づかなかったけど。
だから、彼の絵は人の心を打つんだわ」
「そうだね。ただし彼は、無意識のうちに、絵を描くことだけに力を使っているから、自分に魔力があるということに気づいていないようだけれど。
ジル、この絵の、傷ついた箇所を修復してくれないか。
私の魔力では、反応しないかも知れないから」
「う、うん。
──レスティティオ!」
理由が分からぬまま、それでも言われた通りにジルが呪文を唱えると、無惨に斬られた絵は、あっという間に元通りになった。
抜けるような青空の下、緑鮮やかなヤシの木陰で、一組の浅黒い男女がにこやかに寄り添い立っている。
その後ろには純白の砂浜と、
じっと見ていると、絵の中の二人が互いに愛し合っているのが、見る者にも鮮明に伝わって来る。
その上、今にも彼らは動き出して、抱き合ったり、キスしたりしそうな気さえして来るのだった。
「でも、何度見ても、不思議な感じがする絵ね。
サマエル、絵は直ったけど、……」
彼女が振り向くと同時に、サマエルの胸の傷も出血が止まり、みるみるふさがっていった。
「き、傷が消えちゃったわ!?」
ジルは眼を丸くして、彼と絵とを交互に見た。
「……やはりね」
サマエルは微笑む。
傷跡一つない、夫のなめらかな皮膚に触れ、彼女は、ほっと安堵の息をつく。
「よかった……でも、どうして、絵を直したら傷が治ったの?」
「これは私の推測だが、彼らは一種の共鳴現象を起こしているのだと思う。
シエンヌは神族の、リュイは魔族の血をそれぞれ引いているために、磁石のプラスとマイナス極が引き寄せ合うように。
だから、リュイは無意識にシエンヌに力を貸した……彼女の望みを叶えようとしたのだ、絵を通じてね」
「えっ、リュイまで、サマエルを傷つけようとしたの!?」
ジルは青ざめ、口に手を当てる。
サマエルは、かぶりを振った。
「いや、シエンヌを守ろうとした結果だよ、しかも彼自身、それを意識していない。
彼女の思いに同調しただけなのだから。
こうなると、やはりシエンヌにとっての王子様は、リュイなのだろうな」
「じゃあ、シエンヌを……ううん、二人を助けてあげてくれる?」
おずおずと問い掛けてくる妻に、サマエルは微笑みかけた。
「ああ、彼らのために一肌脱ごう。
というより私達は、知らず知らずのうちに引き寄せられたのかも知れない、シエンヌの力に。
……かつて私が、キミの声に呼び寄せられたようにね」
「うん、きっとそうね!」
うれしそうな顔で、ジルは両手をパチンと打ち合わせる。
やがて夜になり、サマエルは妻を置いて宿屋を出た。
夢魔としての力を
周囲を探り、誰も見ていないことを確認する。
そして彼は黒い翼を力強く羽ばたかせ、飛び立った。
折りしも今夜は満月、その光を受けて高く高く飛翔するサマエルの姿は、地上から見れば、ただ一匹で餌を探す、はぐれコウモリのようにも見える。
しばしの飛行の後、音もなく彼が舞い降りたのは、とある豪邸の、広大な庭のはずれだった。
どうやらパーティが開かれているらしく、にぎやかな音楽と、人々のさんざめきがそこにまで届いて来る。
「……うまく行ったわ、何もかも。これでリュイはわたしのものよ、誰にも渡さないわ、ふふ」
人の群れから離れて、ワイングラスを片手に、ほろ酔い加減の町長の娘、ジュガが一人で自己満足に浸っていた。
その彼女に、音もなく、サマエルは近づく。
ジュガの顔と屋敷の位置は、リュイの心から読み取って、彼は知っていたのだった。
「今晩は、お嬢さん」
「だ、誰!?」
いきなり声をかけられて、ジュガは、ぎくりと身を固くする。
サマエルは闇の中から歩み出、ローブのフードを跳ね上げて、素顔を露にした。
「驚かせて申し訳ありません。私は旅の占い師。レシフェとお呼び下さい。
今宵のパーティに、余興にと呼ばれましてね。
こうして皆様の間を回り、占って差し上げているのですよ、未来をね」
「なあんだ、占い師……」
ほっとしたジュガは、いきなり動きを止めた。
月明かりに浮かび上がる、サマエルの絶世の美貌が眼に飛び込んで来たのだ。
無論、今の彼は変装して色黒にし、髪も眼の色も変えてはいたが、その凛とした気品と犯しがたい威厳は、見間違えようもなかった。
「あ、あなた、は……本当に占い師なの、ですか……?」
我知らず、ジュガの言葉遣いは、ていねいなものになっていた。
「そうですよ。他の何だとおっしゃるのでしょう」
サマエルは、ここぞとばかりに極上の笑みを浮かべ、ジュガはどぎまぎして真っ赤になった。
それから気を取り直し、急に横柄な口調になる。
「いいわ、とにかく占ってよ。まあ、わたしの未来は、輝いてるに決まってるけどね」
「では、これをご覧下さい。あなたの未来が映ります」
彼は懐から、掌サイズの水晶球を取り出した。
町長の娘は眼を凝らすものの、いつまで経っても水晶球は、夜の色を映して黒いままだった。
「何よ、何も見えないじゃない」
振り返り、ジュガは口をとがらせた。
「焦っていけませんよ、お嬢さん。もうじきです」
サマエルが答えたとき、水晶が眼も眩む輝きを放った。
「きゃっ!?」
ジュガは思わず顔を覆う。
「さあ、ご覧下さい、これがあなたですよ、ごく近い未来のね。
この水晶は嘘をつきません、決して」
その言葉にジュガが眼を明けると、水晶球に浮かび上がっていたのは、彼女が想像すらしなかった何者かの姿だった。