~紅龍の夢~

番外編 BLUE MOON (15)

「ごめんなさい、サマエル。
あたしが南の島なんかに来たがったりしたから、こんなことに……」
二人が去った後、すっかり打ちひしがれてしまった妻を、サマエルは慰めた。
「そんなことはないよ、ジル。巡り合わせさ。
それに、とても刺激的だったよ、この一月は。これまでの退屈が、すべて吹き飛ぶくらいにね」
「でも、こんな大騒ぎになって、ケガまでしちゃって……」
うつむいたまま、ジルは鼻をすする。

「そうだねぇ……では、そろそろワルプルギスに戻ろうか?
せっかく遠くまで来たのだし、他の島々にも足を運んでみたいなとは思っていたのだけれど。
ジル、キミはどうしたい?」
サマエルは、妻の顔を覗き込む。
「あのね、……ううん、何でもない」
言いかけて、ジルは小さく首を振った。

「どうしたの?」
「……何でもない。言わないでおいた方がいいわ、きっと。
こんなこと、知らない方がいい……」
再び妻の眼から、大粒の涙が流れ始めるのを見たサマエルは、驚いて尋ねた。
「本当にどうしたのだね、ジル?
言いたいことがあるのだったら言っておくれ、キミが辛そうだと私も辛いよ」

「でも……」
「私達の間で、隠し事は無しだよ。言ってみてご覧」
再度彼に促され、ジルはようやく口を開いた。
「うん。ごめんなさい。あのね、シエンヌのことなの。彼女の声が聞こえて来て……。
悲しんでる、謝ってるわ、何度も何度も、サマエルを傷つけてしまったこと。
時々彼女は正気に返るの、そして後悔するんだわ……自分のしてしまったことに」

「……そうか。私は、そういった声に心を閉ざす癖が出来ていてね。
すべてを受け取ってしまうと、この狂った頭が余計に混乱してしまうから。
私同様、彼女も、正気と狂気の間を彷徨っているのだろうな。
可哀想に、完全に狂ってしまった方が、どれほど楽か知れないのにね……」
サマエルは心底、気の毒そうに言う。

「そうなの?
でもね、彼女が変になったのは、お父さんが急に死んじゃったからじゃなかったのよ。
ううん、それもショックだったかも知れないけど……」
「彼女の狂気には、他に理由があるというのかい?」
サマエルの問いかけにうなずいて、ジルは手を差し出す。
その手を取り、サマエルは彼女の心を読んだ。

数分後、彼はわずかに眉をしかめ、痛ましい思いで妻を見た。
「……なるほど、これはひどいな。
こんなことが聞こえてきたのでは、キミが泣いてしまうのも無理はない。辛かったね、ジル」
ジルは否定の仕草をした。
「ううん。ホントに辛かったのはシエンヌの方よ」

「……ふうむ。最初は彼女も、リュイと二人で頑張ろうとしていた……なのに突然、狂気に
憑かれたのには、こんなわけがあったのか……」
王子は、ゆっくりと首を横に振った。
「シエンヌはあなたを傷つけたけど、でも、彼女を助けてあげて。サマエル、お願い!」
ジルは、祈るように胸の前で指を組み合わせた。

困惑した彼は、深く息をついた。
「ふう……難しいねぇ。
自分の心の制御さえ、ろくにできないでいる私が、他人の心の面倒まで()られるものかどうか……」
「でも、このままじゃ、リュイだって可哀想よ。
さっきはきついこと言ってたけど、ホントは今でも、シエンヌのことが大好きなんだもの。
好き合ってるのに、別れちゃわなきゃいけないなんて」

思い出したように、サマエルはうなずく。
「ああ、リュイね、たしかに彼には罪はない。
仮に彼が町長の娘と結婚し、その後で、シエンヌの狂気の理由を知ってしまったら、ひどいショックを<受けるに決まっているしね……」
「でしょう? 第一、シエンヌは、リュイが誰かと結婚したら、死ぬつもりでいるのよ。
もし彼女が死んじゃった後で、リュイが本当のこと知ったら、どうなるのかしら……」
ジルは(うれ)いを込めた眼で、サマエルをじっと見つめた。

「ふーむ、彼が自分を責めるだけならまだいいが……ああ、何だか、ひどい悲劇が待っているような気がして来た……」
サマエルは、頭を振って嫌な考えを振り払い、答えた。
「分かったよ、ジル、何とか彼女を助ける手立てを考えてみよう」
「ありがと、サマエル。
でも、まだ血が出てるみたいよ。いつもより、何だか治るの遅い気がするんだけど、大丈夫?」
心配そうに、ジルは彼の胸を指差す。

たしかに、ずきずきする痛みは徐々に強くなりこそすれ、一向に弱まる気配はない。
「……変だな。ジル、手伝ってくれないか、傷を見てみよう。
この後、どうするにせよ、このケガを直さないと自由に動けないからね」
「うん」

サマエルは妻の手を借りてシャツを脱ぎ、血がにじむ包帯を解く。
(あらわ)になった傷は、先ほどシエンヌに傷つけられた時のまま、まだ大きく口を開け血を流し続けて、やはり治癒にはほど遠かった。
「まあ、ひどい……全然治ってないわ」
ジルは、またも大きな瞳をうるませた。

彼は首をかしげた。
「……おかしいね、こんな程度のケガ、薬も塗ったし、すぐに癒えると思っていたのだけれど。
雑菌でも入ったかな……魔法を使わなければ駄目のようだ」
痛みには慣れている魔族の王子も、傷がふさがらないことには戸惑っていた。
元々魔族は傷の治りが早い。
まして“カオスの貴公子”である自分の治癒能力の高さには、忌々しささえ感じるほどだったのに。

ともかくサマエルは、治癒魔法を唱えた。
「──フィックス!」
しかし次の瞬間、珍しくも彼は、驚きを声に出してしまっていた。
「こ、これはどうしたことだ、治癒魔法が効かないとは……!?」
「えっ、治癒魔法が!? そんな……じゃ、じゃあ、あたしが!
──キリエイ・アレイアサン!」
代わってジルが急ぎ呪文を唱えるものの、ケガは治る(きざ)しさえ見せない。

「ど、どうして? 何で治らないの? ああ、サマエル、このままじゃ……!」
おろおろする妻に、サマエルは優しく声をかける。
「大丈夫だよ、ジル、落ち着いて。
私が人間だったとしても、これは大した傷ではないよ」
「で、でも、どうして? こんなこと初めてだわ。いつもはすぐ治るでしょ、なのに」

「ふうむ、そうだねぇ……」
少しの間、考えを巡らした後、サマエルは口を開いた。
「……可能性として上げられるのは、シエンヌが、天界の……神族の血を引いているのかも知れない、ということくらいだろうか」
ジルは栗色の眼を見開く。
「ええっ、シエンヌが神族? だから魔族のサマエルにケガさせたの!?」
「いや、それだけが理由とは思えないな。この仮説では、キミの呪文までが効かない理由を説明できないし。
──あ、そうだ、もしかしたら」

突如、サマエルは何か思いついたように振り向き、リュイが描いた絵……切り裂かれたカンバスを指差した。
「やはりそうだ。あれだよ、ジル。今気づいたが、リュイにも魔力があるのだ。
そのせいで、私の傷も治らないのだよ」
「えっ、リュイの絵のせいなの!?」
急いでジルはカンバスを手に取り、しげしげと見た。
「……ホントだわ、リュイにも魔力があるのね。とっても弱いから、今まで気づかなかったけど。
だから、彼の絵は人の心を打つんだわ」

「そうだね。ただし彼は、無意識のうちに、絵を描くことだけに力を使っているから、自分に魔力があるということに気づいていないようだけれど。
ジル、この絵の、傷ついた箇所を修復してくれないか。
私の魔力では、反応しないかも知れないから」
「う、うん。
──レスティティオ!」

理由が分からぬまま、それでも言われた通りにジルが呪文を唱えると、無惨に斬られた絵は、あっという間に元通りになった。
抜けるような青空の下、緑鮮やかなヤシの木陰で、一組の浅黒い男女がにこやかに寄り添い立っている。
その後ろには純白の砂浜と、紺碧(こんぺき)(きらめ)く海が広がり、打ち寄せる波頭は白く泡立っていた。
じっと見ていると、絵の中の二人が互いに愛し合っているのが、見る者にも鮮明に伝わって来る。
その上、今にも彼らは動き出して、抱き合ったり、キスしたりしそうな気さえして来るのだった。

「でも、何度見ても、不思議な感じがする絵ね。
サマエル、絵は直ったけど、……」
彼女が振り向くと同時に、サマエルの胸の傷も出血が止まり、みるみるふさがっていった。
「き、傷が消えちゃったわ!?」
ジルは眼を丸くして、彼と絵とを交互に見た。
「……やはりね」
サマエルは微笑む。

傷跡一つない、夫のなめらかな皮膚に触れ、彼女は、ほっと安堵の息をつく。
「よかった……でも、どうして、絵を直したら傷が治ったの?」
「これは私の推測だが、彼らは一種の共鳴現象を起こしているのだと思う。
シエンヌは神族の、リュイは魔族の血をそれぞれ引いているために、磁石のプラスとマイナス極が引き寄せ合うように。
だから、リュイは無意識にシエンヌに力を貸した……彼女の望みを叶えようとしたのだ、絵を通じてね」

「えっ、リュイまで、サマエルを傷つけようとしたの!?」
ジルは青ざめ、口に手を当てる。
サマエルは、かぶりを振った。
「いや、シエンヌを守ろうとした結果だよ、しかも彼自身、それを意識していない。
彼女の思いに同調しただけなのだから。
こうなると、やはりシエンヌにとっての王子様は、リュイなのだろうな」

「じゃあ、シエンヌを……ううん、二人を助けてあげてくれる?」
おずおずと問い掛けてくる妻に、サマエルは微笑みかけた。
「ああ、彼らのために一肌脱ごう。
というより私達は、知らず知らずのうちに引き寄せられたのかも知れない、シエンヌの力に。
……かつて私が、キミの声に呼び寄せられたようにね」
「うん、きっとそうね!」
うれしそうな顔で、ジルは両手をパチンと打ち合わせる。

やがて夜になり、サマエルは妻を置いて宿屋を出た。
夢魔としての力を(ふる)うところを彼女には見られたくはなかったし、また、一人の方が、これからすることに集中できるからだった。

周囲を探り、誰も見ていないことを確認する。
そして彼は黒い翼を力強く羽ばたかせ、飛び立った。
折りしも今夜は満月、その光を受けて高く高く飛翔するサマエルの姿は、地上から見れば、ただ一匹で餌を探す、はぐれコウモリのようにも見える。

しばしの飛行の後、音もなく彼が舞い降りたのは、とある豪邸の、広大な庭のはずれだった。
どうやらパーティが開かれているらしく、にぎやかな音楽と、人々のさんざめきがそこにまで届いて来る。

「……うまく行ったわ、何もかも。これでリュイはわたしのものよ、誰にも渡さないわ、ふふ」
人の群れから離れて、ワイングラスを片手に、ほろ酔い加減の町長の娘、ジュガが一人で自己満足に浸っていた。
その彼女に、音もなく、サマエルは近づく。
ジュガの顔と屋敷の位置は、リュイの心から読み取って、彼は知っていたのだった。

「今晩は、お嬢さん」
「だ、誰!?」
いきなり声をかけられて、ジュガは、ぎくりと身を固くする。
サマエルは闇の中から歩み出、ローブのフードを跳ね上げて、素顔を露にした。
「驚かせて申し訳ありません。私は旅の占い師。レシフェとお呼び下さい。
今宵のパーティに、余興にと呼ばれましてね。
こうして皆様の間を回り、占って差し上げているのですよ、未来をね」

「なあんだ、占い師……」
ほっとしたジュガは、いきなり動きを止めた。
月明かりに浮かび上がる、サマエルの絶世の美貌が眼に飛び込んで来たのだ。
無論、今の彼は変装して色黒にし、髪も眼の色も変えてはいたが、その凛とした気品と犯しがたい威厳は、見間違えようもなかった。
「あ、あなた、は……本当に占い師なの、ですか……?」
我知らず、ジュガの言葉遣いは、ていねいなものになっていた。

「そうですよ。他の何だとおっしゃるのでしょう」
サマエルは、ここぞとばかりに極上の笑みを浮かべ、ジュガはどぎまぎして真っ赤になった。
それから気を取り直し、急に横柄な口調になる。
「いいわ、とにかく占ってよ。まあ、わたしの未来は、輝いてるに決まってるけどね」
「では、これをご覧下さい。あなたの未来が映ります」
彼は懐から、掌サイズの水晶球を取り出した。

町長の娘は眼を凝らすものの、いつまで経っても水晶球は、夜の色を映して黒いままだった。
「何よ、何も見えないじゃない」
振り返り、ジュガは口をとがらせた。
「焦っていけませんよ、お嬢さん。もうじきです」
サマエルが答えたとき、水晶が眼も眩む輝きを放った。

「きゃっ!?」
ジュガは思わず顔を覆う。
「さあ、ご覧下さい、これがあなたですよ、ごく近い未来のね。
この水晶は嘘をつきません、決して」
その言葉にジュガが眼を明けると、水晶球に浮かび上がっていたのは、彼女が想像すらしなかった何者かの姿だった。