“サマエル、サマエル、しっかりして! 死んじゃ嫌! 嫌ぁ!”
パニックを起こしたジルは、サマエルにしがみつき、泣きじゃくり始めた。
“ジル、落ち着いて。
忘れたのかい、私は『紅龍』、こんなケガ程度では死なないよ”
サマエルは冷静に、自分の胸に刺さったナイフを引き抜くと、それをベッドの下に放り投げて、妻の視界から消した。
そして心の声で優しく語りかけ、彼女の頭をなでる。
“さ、ほら、血なんてすぐ止まるから、もう泣き止んでおくれ。
騒ぎが大きくなるとまずい……医者を呼ばれたら、私の正体がばれるかも知れないからね”
その言葉に少し落ち着きを取り戻し、ジルは涙で濡れた顔を上げた。
“う、うん。でも、サマエル、ホントに死んじゃわない?“
“約束しただろう、私は、キミより先には死なないよ”
“そ、そうよね……”
しゃくりあげながらも、ジルは微笑んだ。
その時、悲鳴を聞きつけた宿のおかみが、どたどたと階段を登って来た。
「何の騒ぎだい、一体!」
「あ、お、おかみさん、レシフェさんが、ケガを! 急いでお医者を呼んで下さい!」
「放して、放しなさいよ!」
まだ暴れているシエンヌを押さえつけ、リュイが叫ぶ。
「ケガ!? わ、分かったよ、すぐに……」
事情が飲み込めないまま、ともかく部屋を出ようとするおかみを、サマエルは呼び止めた。
「待って下さい、おかみさん、医者はいりません」
「そ、そうなの、サマ……ううん、レシィはお医者はいらないの」
ハンカチで血を止めながら、ジルもおかみに言った。
「何を言ってるんです、命に関わりますよ!」
「そうだよ、すごい血じゃないか、このままにしちゃおけないよ!」
リュイとおかみが、代わる代わる声を上げる。
「ですが……実は、私達は、その……」
サマエルは言いよどみ、それから素早くジルに念話を送った。
“ジル、この際だから、一芝居打って、シエンヌの興味を私から完全に引き離そうと思う。
この後、何を聞いても見ても驚かず、沈黙を守ってくれるかい?”
“分かったわ”
それからサマエルは、声に出して言った。
「ともかく、リュイ、シエンヌをこちらへ連れて来てくれないか……私のそばに。
そうしてもらえたら、詳しく話すよ」
「えっ、駄目ですよ、危ないです、あなたを刺したのは彼女なのに……!」
「ええっ、シエンヌが!?」
眼を丸くするおかみに、サマエルは頼んだ。
「では、おかみさん、リュイに手を貸して、彼女をここまで連れて来てくれませんか」
「……え、そりゃ、二人がかりなら、何とかなるかもしれないけど」
「お願いします」
「さあ、シエンヌ、レシフェさんが、ああ言ってるから……」
おかみは、リュイにつかまれているシエンヌに手をかけた。
「嫌よ、放して! 放せってば、このばばあ!」
しかし彼女は大声を上げ、さらに激しく抵抗する。
「こら、暴れるんじゃないよ!」
「シエンヌ、大人しくするんだ!」
「何すんのよ、二人がかりで! 放しなさいよ!」
“でも、サマエル、シエンヌを呼んで何をするつもりなの?”
“これ以上誰も傷つけずに、彼女に私を諦めさせるのさ。黙って見ていて”
妻の念話にそう答え、サマエルは口の中で呪文を唱える。
魔法が発動し、彼の胸元がわずかに光る。
ジルは眼を丸くしたが、残りの三人がその光に気づいた様子はない。
「……はぁ、ほら、もう、手間を、かけさせないどくれ……!」
「レ、レシフェさん、済みません、遅くなって……」
数分のち、息を荒げたおかみとリュイは、暴れ疲れてぐったりしたシエンヌを、引きずるようにして、床にうずくまるサマエルのそばまで運んだ。
「いえ、お手数をかけて済みませんね、お二人共。
さて、シエンヌ。私の話を聞いてくれないだろうか」
サマエルは穏やかに、彼女に声をかける。
「何よ、あたしが刺した傷でも見せて、反省でもさせようっての?
でも、あんたが悪いんでしょ、あたしとの約束を破ったんだから!」
ふてくされたように頬を膨らませ、シエンヌはそっぽを向く。
「いや、キミの勘違いを正したいだけだよ。さあ、よく見て、私の体を」
そう言うと、サマエルはジルに手をどけさせ、服の前をはだけて見せた。
「えっ、あんた、何よ、その胸……!?」
シエンヌだけでなく、そこにいた全員が眼を見張った。
血を流し続ける傷は心臓から外れていたが、彼らが驚いたのはそのせいではない。
サマエルの胸には、豊かな女性の乳房があったのだ。
「きゃっ!?」
注意を受けていたにもかかわらず、ジルは声を上げてしまい、慌てて口を押さえた。
しかし、おかみは彼女の悲鳴を、むごたらしい傷口を見てしまったからだと理解した。
「……ああ、ほんとにもう、気の毒に。こんな綺麗な肌に、ひどい傷が……」
「ね、分かるかい? 私は“女”だ。だから、キミの“王子”ではないのだよ。
なんなら今ここで、全身をご覧に入れてもいいけれど……痛たた」
服を脱ごうとしたサマエルは、傷の痛みに顔をしかめる。
リュイは真っ赤になり、眼を逸らした。
「も、もういいです、レシフェさん、早く服を着て下さい……!」
「嘘、こんなの嘘に決まってる、あんたは女に化けてるだけよっ、この嘘つき!」
混乱したシエンヌは叫ぶ。
しかし次の瞬間、リュイの平手打ちが、彼女の頬に飛んでいた。
「いい加減にしろ、シエンヌ! お前は、どこまでこの人達に迷惑をかけたら気が済むんだ!
初めは付きまとい、次に絵を切り裂いて、しまいにはケガまでさせたんだぞ!
もういい、お前にはとことん愛想がついた。
もう、お前の顔なんか見たくない、お母さんの面倒は僕が看るから、出て行け!
二度と僕の前に姿を現すな!」
リュイは荒々しく宣言し、開けっ放しになっていたドアを指差した。
「ふ、ふん、言われなくたって出て行くわよ、この能無し!」
シエンヌは捨て台詞を吐き、脱兎のごとく駆け出して行った。
それを見送ったリュイは、サマエルとジルに向けて深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、レシフェさん、ジルさん。何と言ってお詫びをしたらいいか……」
「大丈夫よ、レシィはこれくらい、平気なの。
でも、とりあえず血は止めた方がいいわよね」
ジルはそう言い、新しいハンカチを出して重ねたが、それもまたみるみる血に染まってゆくのだった。
「そ、そうだ、医者が駄目なら、包帯と薬くらいはウチにだってあるよ、今、持ってくるから!」
おかみは、あたふたと階下に降りて行った。
「僕も、水を汲んで来ます!」
リュイもその後を追い、駆け出して行った。
「ね、サマエル、ホントに大丈夫なの? 痛くない?」
二人の足音が遠ざかると、ジルは心配そうにサマエルに訊いた。
彼は、にっこりした。
「ああ、大丈夫。動かしさえしなければ、大した痛みもないよ。
女性の力では、さほど深くは刺せないからね。
この程度の傷なら一晩経てば消えるだろうが、あまり早く治っては怪しまれるかな」
「そう、よかった。サマエルが死んじゃったら、どうしようかと思ったわ……」
心底ほっとしたようにジルは言い、それから彼の胸を指差した。
「でも、それ、さっき、魔法かけたんでしょ?」
「そうだよ。それをキミ以外には悟られないように、わざとシエンヌが暴れるように仕向けたのさ。
シエンヌは昔、“裸の王子”を見たと言った。
だから、私が“女性”だと分かれば、もう付きまとって来ないだろう……とっさに、そう思いついたのだよ」
「あ、なぁるほど、さすが。
うん、これでもう、シエンヌは諦めてくれるわよね」
「そう願いたいけれどねぇ……。
……はぁ。もういい加減、“女難の相”は、これっきりにしてもらいたいものだ、まったく……」
最後の方は口の中でつぶやき、サマエルは、妻の手を借りて立ち上がると、ベッドに腰掛けた。
「あ、そうだわ、忘れてた、お薬、持って来てたんだった!」
ジルは鞄に突進し、中身を全部放り出すようにして、傷薬を見つけ出した。
「あったわ! よかった……」
「薬がなくても大丈夫だと思うけれど……」
言いかけたサマエルは、妻の切なそうな表情に気づくと、微笑んだ。
「そうだね、念のため、塗ってもらおうか」
「うん!」
ジルが傷薬を塗り始めたとき、階段を登って来る音がして、おかみとリュイが相次いで、薬箱と洗面器を持って現れた。
「おや、薬はあったんだね」
「ええ、おかみさん。このお薬はとってもよく効くのよ」
「あ、僕は部屋の外にいますから」
リュイはサマエルの方を見ないようにして、水の入った洗面器を机に置くと、すぐに部屋を出る。
「じゃ、塗り終わったらこれを巻こうかい」
おかみは薬箱から包帯を出し、サマエルの傷を覗き込んだ。
「ほう、血はたくさん出てたけど、思ったほどひどい傷じゃないようだ。運がよかったねぇ」
ジルはうなずく。
「うん、ホントに。でも、一時はどうなることかと思っちゃったわ……」
二人がかりで包帯を巻き、サマエルの血のついた服を着替えさせる。
それが終わると、おかみは思い出したように言った。
「ああ、そうだ。リュイが、二人に話があるそうだよ。中に入れてもいいかい?」
「ええ、もちろん」
サマエルの同意を受けて、おかみはドアを開けた。
「リュイ、もう入ってもいいよ」
「済みません、本当にご迷惑ばかりかけて!」
入室するなり、リュイは深く頭を下げた。
「虫のいいお願いですが、シエンヌを許してやって下さい!
彼女が憲兵に連れて行かれたなんて知ったら、病気のお母さんは……!」
「気にしなくていいよ、リュイ。私達も、憲兵には関わりたくないからね。
聞いて欲しい、実は……」
そう言うとサマエルは、ちらりとジルを見、念話を送る。
“私達の経歴について、今からちょっと作り話をするから、キミも話を合わせて”
“うん、分かったわ”
「私は遠い北国の、とある神殿の女司祭だった。ジルは、その神殿の
そうして、いつしか私達は、愛し合うようになっていった……。
けれど、私達の国では、同性同士の恋愛はご
しかも、私は神に仕える者、生身の人間を愛することなど、到底許されない。
隠し通して来たけれど、ついに発覚してしまい、私とジルとは手と手を取り合って、神殿から逃亡した。
追っ手に怯え、それに女二人だけの旅は危険でもある、私は男に変装し、逃げに逃げて……ここまで来れば大丈夫と、気を抜いた途端に、こんなことになってしまったのだよ」
とっさの作り話だったが、幾分かの真実も含まれている。
おかみはすっかり本気にし、二人に同情した。
「まああ、そうだったのかい、そりゃ大変だったねぇ!
けど、女同士の恋人って、どこがそんなにいけないんだろ」
「そうだったんですか、男装……道理で、あなたの美しさは、どこか浮世離れしているというか……」
リュイもまた、疑っている素振りは見せなかった。
それどころか、サマエルを女性だと思い込み、整った顔にうっとりと見とれて、頬を染めていた。
「私達は逃亡者、目立つことは極力避けたい。だから、シエンヌのことは不問に帰すよ。
その代わり、どうか、私達のことも黙っていて欲しい……」
サマエルは頭を下げた。
リュイは、焦ったように手を振り回す。
「いや、レシフェさん、頭なんか下げないで下さい。
こちらとしてもありがたいんですから、絶対、口外はしませんよ」
「もちろん、あたしだって言わないよ。人にゃ、秘密にしておきたいことの一つや二つ、あるもんだからね。
任しときな、悪いようにはしないから」
おかみは、自分の胸をたたいて見せた。
「ありがとうございます……」
「ありがとう!」
サマエルとジルは、そろって礼を述べ、お辞儀をした。
「でも、傷は大丈夫なんですか? もし化膿したりしたら……」
「そうだよ、やっぱりちゃんと医者に診てもらった方が、いいんじゃないのかい?」
心配そうな二人に、サマエルは、否定の身振りをして見せる。
「いえ、出血量の割には傷は浅いですし、やはり医者には診せたくありません。
きっとシエンヌは、私を本気で殺そうとしたわけではないのでしょう。
それに、この薬は神殿に伝わる秘薬で、とてもよく効きます。
数日もすれば傷もふさがり、動けるようになると思いますから。
それまではともかく、そっとしておいて頂きたい……どうぞお願いします」
サマエルはまたも深々と頭を下げ、こうして、どうにかその場を