客引きの言葉通り、さほど歩かずに、彼らは宿に着いた。
「さ、ここですよ。どうです、なかなかでしょう?」
自慢げに、客引きは宿を示す。
「……ふむ、たしかにね」
「ホント、いい感じ」
二人が想像していたより、宿の程度はかなりよかった。
と言っても中の上、といったところだろうか。
木造の三階建て、さほど古びてもおらず、看板にはピンと尻尾を跳ね上げた人魚の絵と、『おてんば人魚亭』と、これもまた活きのいい書体で宿の名前が書かれている。
「ここでいいかな、ジル」
「うん」
「じゃ、決まりということで!」
二人が合意に達したと見るや、客引きはがらりと扉を開け、宿中に響きそうな大声を張り上げた。
「おかみさん、二名様、ご案内ー! 新婚さんだから、一番眺めのいい、角部屋をご希望だよー!」
ジルは真っ赤になった。
「な、何もわざわざそんなこと、大きな声で言わなくなっていいじゃない!」
「へ? ああ……そんなもんっすか。どうもすみません」
さほど悪びれた様子もなく、客引きは頭をかいた。
そのとき、まるまると太った宿の女主人が奥から飛び出して来たかと思うと、男の頭を勢いよく小突いた。
「──まぁたお前は! 一言多いんだよ!」
「痛ってぇ、姉さん、ひどいよぉ」
客引きは涙目で頭を抱える。
「おかみとお呼び!」
女主人は男を睨みつけ、それから二人に頭を下げた。
「すみませんねぇ、お客さん。
エルマーはまだ子供なもので。これでも、十七になったばかりなんですよ」
「ええっ、あたしより年下なの、この人!」
ジルは驚いて叫ぶ。
体つきもたくましく、背も高い。おまけに態度も大きいために年がいって見えるが、この客引きは
まだ少年だったのだ。
「ええ、あたしとエルマーは年が離れた姉弟でしてね。
あたしの子供だって言っても通るくらいなんですよ」
「なるほど……さっき、私達のことを兄妹だと言ったのは、そのせいかな」
サマエルが言うと、おかみは目を見張った。
「まあ、そりゃ重ねて失礼なことを……」
「だから、姉さん、一番眺めのいい部屋を用意するって約束して、来てもらったんだよぉ」
頭をさすりながら、客引きの少年が口を挟む。
「おかみとお呼びって言ってるだろ!
そうでしたか、もちろん、お部屋はご用意させて頂きますよ。
……あ、その前にお名前を、ここにお願いします」
「ああ」
おかみが差し出すペンと宿帳を受け取ったサマエルは、すらすらと二人分の署名をした。
「ええ……ジル様とレシフェ・アラディア様ご夫妻、と。
ご一泊でよろしいですか?」
「……いや、まずは三泊としておこうかな。気に入ったら、予定を伸ばそう」
「分かりました。
──そら、エルマー、ぼさっとしてないで、お二人を三階の角部屋にご案内するんだよ!」
おかみは少年を急かした。
「はあい、姉さ……じゃなかった、おかみさん。
お客さん、荷物は俺が持ちますんで。さ、こっちへどうぞ」
少年は、体に見合った力もあるようで、サマエル達の鞄を軽々と持ち上げ、先に立って階段を上り始めた。
「さ、この部屋ですよ。
──ほら、ここからの眺めが一番いいんだ!」
鍵をがちゃつかせてドアを開け、荷物をベッドの側に運んだエルマーは、勢いよく窓を開け放った。
刹那、南国の風が部屋に吹き渡る。
眺望もたしかに素晴らしく、ついさっき二人がいた海岸線が一望できた。
「素敵、いい景色ねー」
「本当だね……そうだ、私達は朝食がまだなのだが、この宿では何がお勧めかな?」
窓から振り返り、サマエルは少年に訊いた。
「ええと……名物って言えば、サシミ、かな。
魚の切り身を生で食べるんです。すごく美味いですよ。
毎朝、漁師が獲って来た活きのいい魚を、食堂のでっかい水槽に入れといくんです。
そっから、食べたいのをお客さんに選んでもらって、料理するんですけど」
「……しかし、生の魚とは、……」
「──あたし、それがいい!」
「……私は別のものをもらおう。白身魚のマリネはあるかな」
少年はうなずいた。
「もちろん。あ、部屋に持ってきますか、それとも食堂で?」
「あたし、水槽が見たいわ。お魚を選べるんでしょ」
「そうだね。おかみさんとちょっと話もしてみたいし、荷物を解いたら下りてゆくよ」
「はい、じゃあ、姉さんにそう伝えときますから」
エルマーは頭を下げ、どたどたと部屋を出て行った。
「さて、と……」
二人きりになると、サマエルは木綿のローブを脱いだ。
「ジル、私は、またちょっと外見を変えてみたのだが、どうかな」
彼は、船に乗っていたときよりも服装のグレードをかなり落とし、黒い綿のズボンと生成りのシャツ、という出で立ちだった。
そして、髪と瞳は以前と同じ黒と青だったが、抜けるように白かった肌色だけが浅黒く変化していた。
「あれ? いつの間に、そんなに日に焼けたの、サマエル」
彼同様、ローブを脱いだジルは、可愛らしく首をかしげる。
船旅で少々日焼けした彼女は、白地に紅い花柄の庶民的なワンピースに着替えていた。
「一緒に旅をしているのに、私だけ肌が白いのは変だろう?
それで、少し色黒にしてみたのだが……」
「うん、素敵! サマエルは、色が黒くっても綺麗ね」
ジルはうっとりと、彼を見上げた。
「そう……かな」
サマエルは眼を伏せた。
「ええ!」
ジルは力を込めて同意したが、すぐに続けた。
「でも、やっぱり目立っちゃうわね……どんな格好してても、サマエルは王子様……ううん、お姫様みたいなんだもん」
「それは困るね……」
彼はため息をついた。
王子ならまだしも、姫君というのでは。
美しさ……それは、特に旅先では目立つだけでなく、様々なトラブルを呼び込みやすいということを、彼はよく知っていた。
非力な女性の二人連れなどと勘違いされたら、人さらいにまで目をつけられかねない。
旅の間は極力魔法を使わず、魔法使いであることも伏せていよう、そう二人は申し合わせていた。
というのも、国によっては、魔法使いを万能の神のように思い込んでいる場合があり、せっかく二人きりでいたいのに、あまりにも大げさに歓待されたり、無茶な頼み事をされたり等、色々とわずらわされる恐れがあったのだ。
そのため、無用なもめごとは、なるべく避けたいと彼らは考えていた。
「──そうだ、思いきって髪を切ってみたら?
さっき見たけど、メリーディエスの男の人達は皆、髪が短いみたいじゃない」
暑さのせいだろう、ジルの言う通り、道を行き交う男達は、大部分が髪を短く刈り込んでいた。
「なるほど、短髪……それもいいかも知れないね。やってみようか」
妻の提案にうなずき、サマエルは、ぱちんと指を鳴らした。
背中の中ほどまであった黒髪が、一瞬で耳が隠れるくらいの長さになる。
それを見たジルは、眼を輝かせた。
「──あ、イイ! その方が、男っぽくてカッコイイわ!」
「……そうかい?」
サマエルはうれしそうに、短くなった髪に触れてみる。
「うん。それなら、女の人に間違えられっこないわよ。
──カンジュア! ほら、見て」
ジルは鏡を呼び出して、彼に渡す。
自分の容姿を好まないサマエルだったが、こうして鏡に映してみると、色が黒くなったお陰で健康的に見えるということもあり、髪を長くしていたときよりも数段、自分が男らしく感じられた。
「……たしかにそうだね」
思わず彼の顔から笑みがこぼれる。
しかし、ジルは首をかしげた。
「でもまだ、王子様って感じよね……少なくとも、漁師さんとか、農家のお兄さんみたいには見えないわ」
「困ったな……。
仕方ない、私のことは、ちやほやされて育った裕福な商人の
「……信じてもらえるか、すっごく怪しい気がするけど。
ま、やってみるしかないわね。それよりお腹すいちゃった、早くご飯食べましょうよ」
「そうだね」
二人は連れ立って階段を降りて行った。
食堂は一階の奥だった。
エルマーの言った通り、大きな水槽が置いてあり、色とりどりの熱帯産の魚が泳いでいる。
「あ、お魚がいっぱい!」
ジルが叫ぶと、数人いた客が振り返り、思わず感嘆の声を上げた。
庶民的な格好をしているとはいえ、サマエルの美貌と貴族的な雰囲気は、隠しようもなかったのだ。
カウンターの向こうにいるおかみまでもが、ぽかんと口を開けて自分を見ていることに気づくと、彼は自分の格好を見下ろした。
「……ローブを着て来るべきだったかな、やはり」
「そんなことしたら、また怪しまれちゃうわよ。堂々としてた方がいいわ」
「そう……だね。
ともかく、魚を選ぼうか、ジル」
「うん、……でもこんな綺麗なお魚食べるの、ちょっと可哀想……」
ジルは、水槽で元気よく泳いでいる魚を目で追った。
「では、パンだけにするかい?」
サマエルが尋ねた途端、腹がぐうと鳴り、彼女は紅くなった。
「……キミのお腹は、本当に正直だね」
彼はくすくす笑った。
「……もう。いいわ、やっぱり食べるから。
ねえ、おかみさん、サシミで美味しいお魚はどれ?」
「……え、ああ、はい、サシミでしたね」
問われたおかみは我に返り、ようやくサマエルから視線を外した。
「ええと……この魚はどうですか? 生でも、煮たり焼いたりしても美味しいですよ」
気を取り直したおかみは、華麗に泳ぐ、掌くらいの大きさの紅い魚を示した。
「じゃあ、それにするわ。サマエルは?」
「では、私も、同じ魚でマリネをお願いするよ」
「はい、じゃあ少しお待ちを」
網を手に取り、おかみは水槽から魚をすくい上げた。
ぴちぴち跳ねる活きのいい魚を、手際よくおろしてゆく。
そして皿に盛りつけ、ジルの前に置いた。
「はい、サシミですよ。このタレとスパイスを少しつけて食べてみて下さい。
パンよりもライスに合うんですけどね、食べてみます?」
「じゃ、それで」
おかみがマリネを作っている間、ジルはスプーンでご飯を食べ、そして切り身をフォークに刺し、小皿に入った黒いタレと、緑のペースト状のスパイスをたっぷりつけて、口に入れたのだが……。
「──か、辛いっ!」
一声叫んで彼女はフォークを放り出し、鼻を押さえ、涙をぽろぽろこぼした。
「だ、大丈夫かい、ジル!?」
慌てて妻にハンカチを渡すと、サマエルは、おかみに言った。
「水を下さい、早く……!」
「はい、お水」
おかみも急いでコップに水を汲み、ジルに渡す。
「お客さん、このワサビはとても刺激が強いから、小指の爪の先くらいの量でいいんですよ」
「は、はやく言ってよ、そういうことは……!」
ジルは水を一気飲みした。
コップをカウンターに置き、大きく息をつく。
「……あー、鼻につーんときたわ……強烈ね、このスパイス……」
「そんなに辛いなら、別なものを頼もうか?」
サマエルが訊くと、ジルは否定の身振りをした。
「ううん、もったいないわ。これ、ちょっとだけつけたら、いいんでしょ」
「そうです、ほんのちょっぴりで」
おかみはうなずく。
そこでジルは、今度は米粒ほどのワサビをつけて、恐る恐るサシミを口に運んだ。
刹那、その顔に至福の表情が浮かぶ。
「……どうだい?」
心配そうに尋ねる夫に向けて、彼女はにっこりしてみせる。
「ええ、大丈夫。すごく美味しいわ!」
「そうでしょう。慣れるとやみつきになりますよ、サシミは」
自慢げにおかみは言った。
「ね、サマ……ううん、レシィも食べてみない? とっても美味しいから」
「えっ、いや、私は……」
ためらう彼に、ジルは、フォークに刺した切り身を差し出す。
「はい、あーんして」
妻に、こんな風に食べさせてもらうことなど、初めてだった。
サマエルは、思い切って口を開けた。
生の魚ということは考えずに、よく噛み、味わってみる。
「……どう?」
訊いてくる妻に、彼は微笑み返した。
「とても美味しいね。
……なんというか、こりこりとした食感もいいし、魚本来の甘味が口に広がって……生の魚が、こんなに旨いとは思わなかったよ」
「言うことが通ですねぇ、お客さん。はい、お待ちどうさま」
おかみは感心したように言い、湯気が立つ魚のマリネをサマエルの前に置く。
「では、今度は私がキミに……」
彼は、できたての料理を一口大に切り分け、フォークですくった。
「あーん」
可愛らしく口を開ける妻に、彼は、少しときめきながら食べさせる。
「……どうかな?」
「うん、これも美味しいわ」
「そう。よかった」
二人は見つめ合い、笑みを交わす。
「……やれやれ、さすが新婚さん。ご馳走様だわこりゃ」
おかみはつぶやき、苦笑した。