~紅龍の夢~

番外編 BLUE MOON (10)

船長室から甲板に上がると、サマエルは深く息をついた。
さすがに南国の夜、吹き付ける風も、真夜中だと言うのに暖かい。
見上げる星空には、(あざ)笑う口のような月が掛かっていた。
(……笑うがいいさ。私は、自分が間違っているとは思わない。
偽善者とそしられようと、もうこれ以上、人界で血が流されるのはたくさんだ)

彼は手を一振りし、トルレンス号全体に結界を張った。
これは空間を閉じることで魔法の効率を高めると共に、天界の看視者に発見されることを防ぎ、さらに嵐や海賊の襲撃等から今宵一晩、客船を守るためのものでもあった。

(極上の夢を編むとしよう。
今まで誰も見たことがなく、これからも見ることができないほどの最高級の夢を。
フォルティス・ナーハフォルガー・スミス……この船はあなたの城、そしてあなたは城主。
ならば、頂戴したもてなしにふさわしい、飛び切りの夢のお礼をさせて頂きますよ)

サマエルは、人々の心の底に眠る願望に沿った夢を見続けることができるよう、そして、万が一にも悪夢が潜り込んだりしないよう、意識を集中させた。
「──エニュプニオン!」
唱えた瞬間、夢魔の王子の眼は、頭上に輝く星々に負けない光を宿した。
船内の人々は一斉に彼の術中に陥り、特別製の夢を見始める。

そのとき彼は、マストの上の狭い見張り台から、眠りこけた船員が転げ落ちそうになっていることに気づいた。
「……おや、いけない。
──デー・ス・ペル!」
魔法で静かに下まで降ろし、甲板に寝かせる。夜気は暖かく、風邪を引く心配もなさそうだった。
それから、熟睡している男の耳元にそっとささやく。
「よい夢を」

サマエルは今度こそ、ほっと息をついた。
夜が明けたらジルを起こし、下船しようと考えていたが、それにはまだ間がある。
少し横になろうと思い、彼は嘲笑する月に背を向けた。

波音だけが聞こえる船内を忍び足で歩き、部屋まで戻って来たとき、彼はぎくりと足を止めた。
扉の前の暗がりに、白い影が立っていたのだ。
まさか幽霊か、それともまたヴェパルの部下がやって来たのかと身構えた瞬間、相手はいきなり、彼にしがみついて来た。

「サマエル! もう戻って来ないかと思ったわ!」
「──ジル!? 眠っていたのでは……」
「急に眼が覚めたの!
そしたら、あなたがいなかったから、置いていかれちゃったかと思って……」
ジルはしゃくりあげた。
「そんなわけはない、約束したろう? 私はずっとキミといるよ」
サマエルは、優しく妻を抱きしめた。

「でも、どこに行ってたの、こんな時間に?」
涙に濡れた顔を上げ、ジルは問い掛けた。
「皆の記憶を消しに行っていたのだよ」
間髪いれず、サマエルは答えた。
どの道、朝起こした後、その話をしようと思っていたのだ。

「えっ、どうし……」
彼女は一瞬眼を見張ったが、すぐにうなずいた。
「あ、そっか、ミカエルやなんかのせい?」
「そう。天界との争いに、スミス船長を始め、無関係の人達を巻き込みたくなかったからね」
「うん。いい人だものね、彼」
涙を振り払い、ジルは笑みを浮かべたが、サマエルは暗い顔をした。

「キミはやはり、ああいうタイプが好みなのか……」
「え?」
「日に焼けてたくましいものね、彼は。
きびきびしていて、決断力もあるし、私とは対極にあるような人だ……」
眼を伏せて、彼はつぶやく。

ジルは、きょとんとした。
「何言ってるの? 船長は何となく、あたしのお父さんに感じが似てるの。それだけよ」
「そう……」
本心から言っていると知りつつも、サマエルは心が騒ぐ。
彼女はにっこりした。
「ねぇ、それってひょっとして、焼きもち?」
「え、い、いや、……」
図星を刺されたサマエルは、どぎまぎした。

「あ、紅くなった、やっぱりね!
大丈夫よ、あたし、サマエルの方が好き。世界で一番大好きだから、心配しないで!」
輝くような笑顔で保証されては、彼の疑惑も霧のように消えてしまうしかなかった。
「分かったよ、ジル。
さ、もう一眠りしよう、夜明け前に起こすから。
その頃には、メリーディエスに着いているだろう」
「うん!」
おてんばな少女のように、元気よくジルはドアを開ける。

「お休み」
「お休みなさーい」
布団に入ったものの眠れず、落ち着きなく身じろいでいたジルは、大きく息を吸い込むと、夫に声をかけた。
「あ、あのね、サマエル……」
「なんだい?」
「そっちに行っていい?」

「えっ!?」
サマエルは眼を見開いた。
窓から差し込む月明かりで、思い詰めたような妻の表情が見て取れる。
しかし彼は、その思いを受け止めることができなかった。
「……す、済まない、ジル、私は……」

「いいの。無理言ってごめんなさい」
くるりと彼女は背を向けた。
夫婦となって何年も経つのに、妻としては扱ってもらえない。
再び涙がこみ上げてきたが、彼女は夫に気づかれまいと、嗚咽(おえつ)を噛み殺した。

それでもサマエルは、妻の背中が、かすかに震えていることに気づいた。
(過去にこだわって、愛する人をこれ以上泣かせていいのか、しっかりしろ)
彼は自分を叱咤(しった)し、それから口を開いた。
「ジル。では私が、そちらへ行くよ」
「えっ!?」
慌てて涙をぬぐうジルの隣に、彼は体を横たえる。

彼女は、大喜びで夫に身をすり寄せた。
「よかった。サマエル、大好き」
「ああ、私もだよ」
彼の手を握ったジルは、それだけで安心し、一瞬で眠りに落ちた。
「……ジル? おやおや……」

寝息を立て始めた妻に、サマエルは拍子抜けした。
このままでもいい、今すぐ真の夫婦になってしまおうかとも思った。
しかし、やはり起きているときの方が、愛を確かめ合えていいだろう、そう思い直す。
まだ時間はある。
それに正直なところ、彼の心には、彼女を抱かなくて済む事に対する安堵の感情も、少なからずあったのだ。

(……なぜ自分は、ジルと結ばれることを躊躇(ちゅうちょ)してしまうのだろう。
一緒にいると、こんなにも幸せだというのに……)
妻の安らかな寝顔を見つめ、サマエルはつぶやく。

魔界の王家という特殊な環境のせいもあり、彼の家庭は、到底温かいものとは言いがたかった。
そのため彼は、ジルと本当の家族になってしまったら、せっかく今まで築き上げた彼女との生活が崩壊し、冷たく刺々しいものになってしまうのではないかと、無意識に怖れていたのかもしれない。
家庭や家族というものに対する、彼の不信と絶望は、それほどまでに深かったのだ。

「愛しているよ、ジル」
サマエルはそっと、妻に口づけた。
「うーん、サマエル……」
眠ったまま、ジルは微笑んだ。

数時間後、月が西に沈み、水平線が明るみ始めた。
サマエルは、妻を揺さぶった。
「ジル、ジル? もう夜明けだよ。甲板に出よう、綺麗な朝日が見られるよ」
「う~~~ん」
寝起きの悪い彼女は、もぞもぞ動いたものの、また眠りに戻っていこうとする。

「ほら、起きて。メリーディエスに着いたよ」
再び彼が揺らすと、今度こそジルはぱちりと眼を開けた。
「えっ、着いたの!?」
「ああ、荷物をまとめて外に出よう」
「うん!」
彼女は飛び起き、さっと魔法で着替え、荷物を持って階段を駆け上がる。

「危ないよ、夜明けにはまだ間があるから」
「平気よ!」
ジルは叫び返し、甲板に飛び出していった。
サマエルは微笑み、名残惜しげに室内を見回す。
それから呪文を唱え、人がいた形跡を消すと、彼は階段を上って行った。

甲板ではジルが、床で眠る男を不思議そうに見ていた。
「サマエル、こんなところで寝てる人がいるわよ」
「ああ、昨夜、見張り台から落ちそうだったので、私がここに降ろしたのだよ。
だが、もう間もなく“夢”も消える。元に戻そう。
──スプラー!」
サマエルは呪文を唱え、船員を見張り台に運んだ。

それが済むと、ジルは手すりに駆け寄り、暗い海に身を乗り出した。
「ね、メリーディエスはどこ?」
「すぐそこだよ。……ああ、まだ暗いから、キミには見えないか」
「ふーん、お日様、早く出ないかな~」
「もうそろそろだと思うけれどね」

空と海との境目が、ほのかに明るみを帯び始めていて、黎明(れいめい)も近いと思われた。
太陽の光が当たれば、彼が船の周囲に張った結界は淡雪のごとく消えて、同時に夢魔の世界もまた、もろくも崩れ去り、ごく普通の夢へと置き換わる。
そして辺りがすっかり明るくなり、目覚めたとき人々は、彼とジルについては何一つ覚えていない
だろう……ただ、とてもいい夢を見たような気がするという、あいまいな記憶が残るのみで。

「そうだ、ジル。
島影が近づくのをゆっくり見物していたいところだけれど、姿を見られてはまずいし、どうせなら今すぐ向こうに上陸して、日の出を見たらどうだろう」
サマエルが提案すると、ジルは眼を輝かせた。
「それがいいわ、行きましょ!」

「──ムーヴ!」
すぐさま移動呪文を唱えた二人は、念願叶って、ついに南の島に降り立った。
「……ふう。これでようやく、メリーディエスに着いたねぇ」
サマエルは、肩の荷を下ろしたように息をつく。
「ホント。でも、素敵なところよね……」
ジルはうっとりと、周囲を見回す。
「本当に、別天地だ……」
サマエルもつぶやく。

辺りは徐々に明るくなり始めていたが、さすがに夜明け前のこんな時間には、浜辺にまったく人影はない。
足元には広がる白い砂、海岸沿いにヤシの木がずらりと並び、浜風にざわざわと緑の葉を揺らしている。
同じ海のそばでも、ファイディーのカミーニとは、景色は無論、消えゆく星座や夜明け前の空の色、そして吹き付けてくる潮風の匂いまでもが異なっていて、彼らは別の国に来たことを実感していた。

その後は二人共無言のまま、待つことしばし、紺碧(こんぺき)の水平線から、ついに黄金の煌きが顔を出した。
「キレイ……」
感無量な様子で、ジルはそれに見とれる。
「ああ、本当だ……」
そう言いながら、サマエルは朝日よりも、妻の横顔を眩しく感じていた。

砕ける波に黄金の姿を映し、力強く昇っていく太陽を見ながら、彼らはどちらからともなく手を取り合い、寄り添って、しばらく二人だけの世界に浸り込んでいた。

そうして、すっかり夜が明け切ってしまうと、急に気温が上がり始め、人影もちらほらと目に付くようになって来る。
「……あまり暑くならないうちに宿を探して、朝食にしようか……」
「うん……」
名残惜しげに彼らは浜辺を後にし、繁華街の方へ足を向けた。

「さて、今度はどんな宿に泊まりたいかな、ジル」
気を取り直して、サマエルは尋ねた。
「えっと……そうね、ずっと豪華な感じで来たから、今度は普通な感じのところに泊まってみましょ」
「それはいいが、窮屈だったのかい、船は」
「ううん。でも、今度は普通がいいの」
「では、そうしよう」

話をしているうちに、活気あふれる通りへと二人は出た。
たくさんの人がひしめき、物売りの声や、客引き達の呼び声が、にぎやかにこだましている。
「……カミーニ以上のにぎわいだな。離れ離れにならないように、手をつなごう」
「ホント、すごい人ね」
ジルは、サマエルの腕にすがりついた。

「お客さん、今夜の宿はお決まりで?」
さほど歩かないうちに、目ざとく客引きが寄って来た。
男は、こざっぱりとした身なりをしており、人がよさそうな顔つきをしていたが、サマエルは一応警戒しつつ、答えた。
「いや、まだだが、あまり高くない宿を探していてね」

洗いざらしの木綿のローブを着て、日差しよけにフードをかぶった二人は、さほど金を持っている
ようには見えなかったのだろう、男はうなずいた。
「じゃあ、ちょうどいいですよ、ウチはお値段手頃で、景色もいいし、食事も美味い。
お客さん達にはぴったりだ」
「遠いのかい?」
サマエルは訊いてみた。

「いえ、すぐそこです。
それにちょうど今朝早く、団体さんが出立したばかりなんで、今ならお好きな部屋を選べますよ。
……えっと、ご兄妹でしたら、部屋は別で?」
「まあ、あたし達、夫婦よ。新婚旅行に来たところなのに」
ジルが、ぷうっと頬を膨らませる。

男は頭を下げた。
「こ、こりゃあ、失礼しました。お詫びに、一番景色のいい部屋をご用意しますよ」
「それはありがたいが、宿を見てから決めたいね」
サマエルは言った。
「じゃ、ご案内します、どうぞ」
客引きは、先に立って歩き出した。

れいめい【黎明】

夜が明けて朝になろうとする頃。明け方。よあけ。