船がファイディーのカミーニを出港して、十日が過ぎた。
本来なら今日、目的地であるメリーディエスに着いているはずだったが、途中で積み込むはずの荷が遅れたため、到着が一日伸びることとなったのだ。
しかし、天候に左右されがちな船旅では、予定が遅れることなど、珍しくもない。
また、渡航日程等や規約が書かれた小冊子にも、天候その他のため、多少の遅延が出る場合があると明記してある。
そして、トルレンス号の乗客達は誰一人、旅を急いでいる者はいなかったから、文句を言うどころか、優雅な旅が長引くのを喜んでいるくらいだった。
それはサマエルとジルにも言えることで、明日で終わってしまう船旅を、二人は惜しむ気持ちにすらなっていた。
「もうすぐ、お船から降りなくちゃいけないのね、もっと乗っていたかったなー」
テーブルに頬杖をつき、ジルはいかにも名残惜しげに言う。
サマエルは微笑んだ。
「大丈夫だよ、帰るときに、もう一度乗れるから」
途端にジルは顔を輝かせ、手を打ち合わせた。
「あ、そっか! 帰りもこのお船?」
「さあ、別な船に乗るのもいいかも知れないね」
「うん。でも、もうすぐメリーディアスに着くのよね。
どんなとこなのかしら、すっごい楽しみだわー」
切り替えの早いジルは、早くも未知の国に思いを
「きっと、とてもいいところだよ」
うきうきした妻を見るサマエルの胸に、喜びがじわじわと寄せてくる。
その晩。
明日でトルレンス号での旅も終わるというので、彼らは再びスミス船長から、晩餐に招かれた。
「いよいよ最後ですね。お名残惜しいですよ、船長」
船長室に入るなり、サマエルは言った。
「わたしもです。レシフェ殿、奥方様。
今宵は特別料理を用意させました、さ、どうぞ、おかけになってご
「ありがとうございます」
二人は席に着き、船長とプルースとの会話と、豪華な食事を楽しんだ。
やがて、自室に引き取った二人は、いつも通り別々のベッドに入った。
ジルはすぐに眠りに落ちたが、サマエルは眼を閉じたものの、眠り込みはしなかった。
しばらく待ち、妻が安らかな寝息を立て始めたのを確かめてから起き上がり、そっと部屋を抜け出す。
かなり夜も更けて、見張り以外は皆寝静まり、波音だけが響いている。
ワルプルギスでは見られない星達で一杯の夜空には、三日月も顔を出していた。
漆黒のローブに身を包んだサマエルは、
小声で呪文を唱え、部屋に侵入する。
滑るようにベッドに近づき、手をかざした、そのとき。
「誰だ!」
眠っているとばかり思っていたスミスが、素早く跳ね起き、彼の手を捕らえた。
弾みでフードが脱げ、月明かりが、サマエルの白い顔と紅い唇を照らし出す。
「……さすがですね、船長。強盗もこうやって捕らえたのですか?
あなたが眠っている間に、事を済ませてしまいたかったのですけれどね」
「──サ、サマエル殿っ!?
い、いや、わ、わたしは、だ、男性に興味はありませんよっ!?
だ、第一、あなたには、お、奥方がおいででしょう……!」
真夜中の
サマエルは苦笑した。
「いえ、勘違いなさらずに。残念ながら私は、あなたと
「で、では、何を? 金目の物なら、ここよりも、あなたの部屋の方が……」
スミスは、空いている方の手で部屋を示した。
彼の意向なのだろう、船長室だというのに、ここは装飾も少なく質素だった。
サマエルは、否定の身振りをしかけて、やめた。
「私は……いや、そうかも知れないですね、それも、普通の盗人よりも始末が悪い。
なぜなら私は、あなたの記憶を盗みに来たのですから……」
「な、何ですと!?」
スミスはまたも面食らって叫び、まじまじと彼を見つめたが、ふと我に返ったように息をつき、彼を解放した。
「……何か、深い
そちらにどうぞ。ともかく、落ち着いて話しましょう」
スミスは椅子を指差す。
「はい」
相手の冷静さに感服しつつ、サマエルは一礼して、腰掛けた。
「わたしの記憶を盗みに来た、そう仰ったが……」
一息ついて、船長は尋ねた。
「はい。正確には、私とジルに関することだけ、記憶を入れ替えると言った方がいいでしょう。
あなたが会ったのはサマエルではなく、小太りの商人、レシフェ・アラディアとその妻だった、と……」
スミスは首をかしげた。
「それはまた、なぜに」
「……それは……」
一瞬サマエルは目線を下げたが、すぐに相手の眼を見つめ、答えた。
「あなたを守るためです」
「わたしを……守るため?」
「はい。私には強大な敵がいるのです。
あなたが私に関わったと知ったなら、敵はあなたを捕らえ、拷問にかけてでも、私に関することを引き出そうとするでしょう。
しかしあなたの性格からすると、たとえ殺されようとも、決して口を割らない……違いますか?」
「ええ、わたしは、友人を売るつもりはありませんよ」
スミスは
「……やはり。
ですが、偶然船に乗り合わせた一介の客のために、勇敢で有能な方を死なせたくはありません。
そのためには、記憶を消すのが一番と思いました。
勝手なことを……と、お腹立ちかも知れませんが、連中は敵対する者には容赦しません。
過去、私の同胞達は悲惨な目に遭わされて来ました……無関係な方を巻き込むのは心苦しい……」
サマエルは眼を伏せた。
船長は、眉を上げた。
「……同胞? あなたはひょっとして、魔族なのでは?」
「さすがですね、お察しの通りです。
それゆえ敵とは、神族……遥かなる太古、我々を襲い、故郷を奪った憎き宿敵……。
連中は神を
人族はそれを知らず、奴らをまともな神と思い込んで、
「ふむう。初めて聞く話だ」
スミスは
サマエルは肩をすくめた。
「連中は巧妙ですからね。人族の女性をさらい、それを我らのせいにしていた時期もありました。
……奴らは種としての限界に来ているようで、子が産まれにくくなっているのですよ。
しかし人族との混血は成功率が低く、最近はもっぱら、魔族を拉致するようになっていますが」
「ど、どうして、声を大にして言わないのです? 人々は騙されていると」
「国王陛下はご存知ですよ。ただ、一般には公表していません。
それはあなた方、人族を守るためです」
スミスは眼を見開いた。
「……また、守るためと仰る……?」
「はい。魔界は、強力な結界で守備を固めています。
人界に残っている魔族は、相当の覚悟を決めており、自力で防御もできます。
ですが人族では、魔法使いは少数派……自分の身も守れないのに真実を教えても、かえってパニックを起こし、人界が滅茶苦茶になってしまうかも知れません。
しかし、とりあえず我らが悪者になっていれば、そうしたことは起きませんから……」
「なぜ、そうまでして我々を……?」
「詳しく話している暇はありませんが、魔族は人族に対し、
真実を知れば、あなた方は、我々を敵とみなすことでしょう。
──さあ、これで私の話は終わりです。
力ずくでも、記憶は書き換えさせて頂きます、野蛮な魔物とさげすんで頂いて結構です。
たとえ一時でも、私を友人と呼んで下さったあなたの身を守るためなら、私は、鬼にでも悪魔にでもなりますよ」
サマエルの眼には、決然とした光が宿っていた。
それから彼は、船長に向けて手を広げた。
「他の人達の記憶もすべて、置き換えます。
ただ、あなたの記憶は、念入りに処置しようと思い、忍んで来たのです」
「……記憶を置き換える」
スミスはつぶやいたが、騒ぎ立てることはなく、穏やかに問い掛けた。
「記憶障害が残ったりはしないのですな?」
「ご心配なく、私は夢魔の王子、夢を完全に制御できます」
サマエルは請合った。
「……ほう、あなたは王子なのですか」
「ええ。私の兄は魔界の王ですから」
「なるほど。道理で、あなたの面差しは高貴だと思いましたよ。
しかし、夢魔は悪夢を見せ続け、死ぬまで人間の精気を絞り取ると聞きますが……?」
それに答えるサマエルの瞳は、悲しげだった。
「嘆かわしいことに、そういう
ですが、私は王子、魔界王家の誇りにかけて、決してそのようなことは致しません。
ごく少量の精気と引き換えに、二度と目覚めたくないと思うほどの、極上の夢を差し上げますよ。
……何か、お望みの夢はありますか?」
「望み……?」
スミスはしばし考えた。
「特にありませんね、わたしは
いや……たった一つ、見たいものがある……かも知れません」
「何ですか? 遠慮なさらず、仰ってみて下さい」
「あなたと奥方の、真実幸せそうにしていらっしゃるところ……ですかな。
できることならお二人のお子様も、見てみたいものです。
記憶を消されるのでは、覚えていられないのでしょうが、それでも……」
意外な答えに、魔族の王子は息を呑んだ。
「なぜ?」
スミスは、遠くを見るような目つきをした。
「わたしにも、かつて妻と子がおりました。が、私が航海に出ている間に、病気で死にましてね。
それに懲りて、再婚する気はありません……ただ、遠く離れていて、どうしようもなかったわたしと違い、あなた方はいつも一緒においでだ。
ですから……その、わたしの代わりと申し上げては失礼ですが、幸せになって頂ければと……」
少し照れたような船長の言葉に心を打たれ、サマエルは声もなくうなだれてしまう。
ややあって、彼は気を取り直した。
「……では、ご希望通りに致しましょう。
ですが、それには真の姿に戻る必要があります。
スミス船長、驚かないで下さい、これが私の
──ディス・イリュージョン!」
彼は呪文を唱え、
窓から差し込む月の光に浮かび上がる、魔族の王子の姿。
人によっては、恐れ、逃げ惑うだろうと思われる、一匹の魔物がそこにはいた。
闇色をしていた髪は、一筋、紫に輝く部分がある、銀粉を振り撒いたような白となって長く伸びていき、額に飾られていた緑の宝石は紫へと色を変え、その下には、鋭く闇を切り裂く純白の角が一本、背には、コウモリに酷似した漆黒の翼がマントのように広がっていた。
しかし、そんな彼をじっくりと眺めたスミスは、しみじみと言った。
「ふうむ、古代の神殿に刻まれた浮き彫りのような、風雅な
サマエルは、緩やかに首を横に振った。
「見かけに騙されてはいけませんよ」
「いや、わたしは、人を外見では判断致しませんが、相手が悪人かどうか見分ける自信はあります。
あなたが、わたし達に危害を加えることはあり得ないでしょう」
スミスが断言すると、魔族の王子の紅い瞳に、微妙な影が差した。
「何を
私が害を与える気はなくとも、あなた方が被害をこうむることもあり得るのですよ。
たとえば……海は悪意など持っていませんが、激しい
相手が害する意思を持っていることと、実害を受けるかどうかは、無関係かもしれません」
スミスは額に手を当てた。
「ふむ、たしかにそうですが……」
「あなたは何もご存知ない、そしてその方が幸せです。
さようなら、スミス船長。お眠り下さい、そしてよい夢を……。
明朝、目覚めたときには、私とジルは、あなたにとって存在しない者となっていることでしょう。
しかし私達は、決してあなたを忘れません……ありがとうございました」
サマエルは深々と頭を下げた。
「では、サマエル殿、さようなら、お幸せに……」
返礼し、ベッドに戻った船長は、一瞬で眠りに落ちた。
サマエルは、彼に向かって念入りに呪文を唱え、安らかな寝顔をしばし見つめた。
それから、再度礼をし、船長室を後にした。
どうきん【同衾】
一つの夜具に一緒に寝ること。男女関係についていうことが多い。ともね。