すると、サマエルは眼を細め、紅い唇には酷薄な笑みが浮かんだ。
そういう表情をすると、彼は魔界の王である、兄タナトスに生き写しになる。
“そう、私はたしかに罪人だ。だがお前、私が夢魔だということを忘れていないか?
お前を殺す必要などない……私の正体を知った者達を、一晩、夢の世界で眠らせればいいだけだ。
……翌朝には、何一つ覚えてはいないだろうさ”
サマエルは、冷ややかに言ってのけた。
“──ひどい!”
かっとした美女は、彼をたたこうとした。
サマエルはその手を捕らえ、女性の青い瞳を覗き込んだ。
王子の紅い瞳の奥に揺らぐ黒い炎が、さらに
“──お眠り。そして、今の私との会話は、すべて忘れなさい。
お前が追ってきたレシフェ・アラディアという男は、サマエルではなかった。
妻を
眼が覚めたら、人間達に気づかれないよう船を下り、ヴェパルの元へ還りなさい。
もう二度と、私につきまとい、怨みつらみを言い立てようなどと思わないこと。
それよりも、落ち込んでいる主人を慰め、元気づける方に力を注ぐのだ、いいな”
“はい……”
暗示を掛けられた美女の体から力が抜けて、ぐったりと彼にもたれかかる。
人々のざわめきの中、サマエルは彼女を優しく抱き上げて椅子まで運び、給仕係に声をかけた。
「キミ、こちらのご婦人がご気分を悪くされた、休ませてあげてくれないか」
「はい、かしこまりました」
この航海が始まってから、サマエルと踊って具合を悪くした女性は一人や二人ではなかったので、給仕係も大して驚きもせず、てきぱきと救護室に運ぶ手はずを整える。
少しざわついた周囲の人々も、すぐに平静に戻った。
そうしておいて、彼は一人、甲板へと出てきた。
潮風が、熱くなった頭を冷やしてくれ、手すりにもたれかかって彼はつぶやいた。
(……ヴェパル、か……。
そういえば、彼女には結婚のことは言っていなかったな。
『わたしは、あなたに何も求めません』と、言ってくれてはいたのだが……。
“自分の好意に付け込み、利用するだけ利用して捨てた、ひどい男”、そう思われても仕方ない……)
うなだれて過去の女性に思いを馳せる彼に、近づいていく影があった。
「……サマエル」
その声に顔を上げると、ジルが立っていた。
「ああ、ジル、……」
“さっきの人と、何かあったの?”
甲板には、酔いを醒ます人影がちらほら見受けられたので、彼女は念話で尋ねた。
サマエルは一瞬ぎくりとしたものの、答えた。
“……鋭いね。
彼女は魔族の女性で、私の正体を暴露するなどと脅迫めいたことを言うものだから、暗示を掛けて私のことを忘れさせたのだよ”
“そう……”
ジルは眼を伏せた。
妻の声には、疑念が含まれていた。
それを感じた彼は、真実を話す決心をした。
いくら隠したところで、ジルはそれを敏感に察知し、かえって傷つくだろうと思ったのだ。
“正直に言おう。私は昔、彼女の主人……ヴェパルという女性から、精気をもらっていたのだよ。
魔界にいたときもだが、人界に来てからもね……。
普段は普通の食事をしていても、やはり私はインキュバス、女性の精気なしには生きられないから、何年かに一度はどうしても……。
以前、キミを置いて出かけて、タナトスと留守番をさせたことがあっただろう?
あのとき、彼女の元に行ったのだよ……キミはまだ子供だったし、それに魔族の女性の精気は強力で、人間の女性のものをもらうよりも長期間、我慢できるから……。
だが、結婚してからはもう、彼女とは何もないよ。信じてもらえるかどうか、分からないが……”
夫が最近その女性に会っていない、というのは本当だと、ジルには分かった。
結婚直後、サマエルは、決して嘘をつかないと約束してくれていたし、寝るとき以外は彼女の側をほとんど離れた事もない。
たとえ彼が、夜こっそり出て行ったとしても、自分は確実に気づいただろうと。
それでも、ジルは訊かずにはいられなかった。
“サマエルは……その女の人と、一緒の……お布団に寝てたのね?”
“ああ”
サマエルは、彼女を見ないまま、肯定した。
“じゃ……じゃあ、サマエルもタナトスみたいに、もうお父さんなの……?”
ジルは、恐る恐る尋ねた。
彼にもすでに子供がいて、それでもう赤ん坊はいらないと思っているのではないかと、考えたのだ。
しかし、サマエルはかぶりを振った。
“いや、彼女との間だけでなく、私には子供はいないよ。
できなかった……というより、作らないようにしてきたのだ……ずっと”
意外な言葉に、ジルは栗色の眼を見開いた。
“えっ、どうして?”
“キミも知っている通り、母は私を産んだせいで死んだ。
そして、イシュタル叔母上も流産し、命が危ぶまれたこともあった。
だから、私は……女性が身ごもることに、恐怖すら感じてしまうようになって……。
それに……こんな自分の血を引く子供を、作っていいものかという思いもあったし……”
ジルは小首をかしげた。
“女の人が妊娠したら、死んじゃいそうな気がする、ってこと?”
“そうだね”
サマエルはうなずき、それから眼を伏せた。
“……この際だから言ってしまうが、魔界の後宮には、私に精気をくれる、ヴェパルのような女性はたくさんいたよ。
しかし、彼女達との間に子供を作る気には、どうしてもなれなかったのだ……”
“で、でも、妊婦さんが皆、死んじゃうわけじゃないわ。
普通は赤ちゃんを産んでも死なないし、何人産んでも、全然元気なお母さんもいるんだから”
“人界ではそうだね。魔界では子供の出生率は低く、妊婦の死亡率は高いけれど……。
それにね、私も、頭では分かってはいるのだ……でも……”
サマエルは首を横に振った。闇に同化した髪が揺れる。
“それであたしと、一緒のベッドで寝てくれないのね。
赤ちゃんの話が出ると、話を逸らしちゃうのもそのせい?”
ジルは、弟のことを話したときのサマエルの様子を思い出していた。
“……気づいていたのだね。
すまない、ジル。私は夫として失格かもしれない……妻であるキミに、赤ん坊を抱かせてあげられる自信がない……情けない男だ、私は……”
サマエルはうなだれた。
“大丈夫よ、あたし、すごい元気だもん。それにね、あたし、一度死んじゃってるでしょ。
赤ちゃんが出来て、それでもし死にそうになることがあっても、きっと、アイシスさん……じゃなかった、お義母さんが助けてくれるわ”
ジルは励ますように言い、彼の顔を覗き込んだ。
“そう……だろうか”
“うん。きっと大丈夫よ”
彼女はにっこりしたが、サマエルは顔を上げられず、かすれた声で答えるのがやっとだった。
“……すまない。もう少し、時間をもらえないだろうか……”
“うん、あたし、待ってる。だから、離れて行かないでね、サマエル。一人にしないで”
ジルは、ぎゅっと彼の手を握った。
そうしないと、夫がこのまま、姿を消してしまうような気がしたのだ。
“ああ、ずっと一緒にいるとも。約束するよ、どこにも行ったりしないから……”
そう答えるサマエルは青ざめ、その手は、氷のように冷え切って、小刻みに震えていた。
何かを始めようとするたびに、ひどい抵抗感が彼を支配する。
どこかから、自分を
サマエルは歯を食いしばり、その声に耳を傾けないよう努めた。
ジルと一緒になる前、そして夫婦となってからも、様々な障害を克服してきたではないか。
彼はそう自分に言い聞かせ、今回も何とかして乗り越えようと思った。
自分のためというより、妻のために。
もう無理だから、屋敷に帰ろうと告げることも出来た。
そう言ったところで、心優しい妻は、決して自分を責めないと知っていた。
しかし、今逃げ出してしまったら、ジルは途中で終わってしまった船旅の続きを思うだろう。
夢と消えた、南の島の明るい陽射しの下、砂浜で波と戯れたり、涼しい木陰のハンモックで揺られながら、夫と語らう……そんなささやかな楽しみを。
巨大樹に吊り下げられた月のブランコに乗りながら、あるいは山の花畑で花を摘みながら、屋敷の窓辺で空を見上げるたびに。
それでも彼女は、そんな思いを心の奥に隠し、楽しげに振舞い続けることだろう。
一人でいるときはどんなに悲しい顔をしていても、それを他人には見せず、いつも笑顔を絶やさずにいる、ジルはそんな女性だった。
今にして思えば、彼女は、夫のいない一人ぼっちの寝室で、淋しさをかこつ夜もあったのではないだろうか。
弟子と師匠の関係だったときは、当然寝室も別だったが、今は条件が違う。
結婚後もそうしているのは、言うまでもなく不自然なことだった。
赤ん坊をあやす夢を見ながら眠る夜や、淋しさに枕を濡らす長い夜を、妻に過ごさせてしまっていたことに、自分は、気づかずにいたのではないだろうか……。
そう考えると、サマエルは、自分の体を切り刻んでしまいたい衝動に駆られた。
彼はその日を境に、暗い顔をして考え込む事が多くなった。
これではいけないと、ジルは、努めて夫を外へ連れ出すことにした。
誰かに会えば考え事は中断されるし、明るい日の光や潮風が、彼を
すると期待通り、徐々にではあったがサマエルの表情は明るさを取り戻し、ジルは安堵した。
航海が始まって九日目、甲板に出て行った二人は、船長がマストに登っていることに気づいた。
ジルは両手を口に当て、遥か上方のスミスに声を掛けた。
「船長さーん、何をしているんですかー!?」
船長は片手を離し、彼女に向かって手を振って見せた。
「帆の張り具合を確認しているんですよ!」
それから、スミスはもう片方の手も緩ませて、一気に下まで滑り降りて来た。
「わあ、すごい!」
眼を丸くするジルの側で、サマエルも驚きを口にした。
「ほう、見事なものだ、さすがは海の男、慣れていらっしゃる。
しかし、なぜ船長ご自身が、マストにまでお登りになるのですか?」
するとスミスは、少し照れたように頭をかいた。
「いや、時々は体を動かしませんと、なまってしまいますからな。
それに、荒っぽい海の男達を束ねるためには、座って命令を出しているだけでは駄目なのですよ。
やはり、みずから行動して見せなくては」
「なるほど、……」
サマエルは額に手を当て、眩しげにマストを見上げた。
こうしている間にも、風を一杯に
そんな彼に、スミスは声をかけた。
「レシフェ殿、わたしごときが、あなたにこんなことを申し上げるのは、
「そんなことはありませんよ、どうぞ、何でも仰って下さい」
サマエルは微笑んだ。
その顔は、ここ数日間における
これほどの美貌の持ち主が、実は男性だということに、スミスは改めて驚かされていた。
「──いや、こほん」
船長は軽く咳払いをし、その思いを振り払って話し始めた。
「レシフェ殿。
嵐の時には、たしかに船は、岩陰に避難などして、嵐が過ぎ去るのを大人しく待たねばなりません。
しかし、
みずから
「スミス船長……?」
サマエルがはっとすると、スミスは、日に焼けた顔をほころばせた。
「いや、何にせよ、奥方に暗い顔をさせるのはどうかと思いましてね」
「そうですね……ご助言、痛み入ります」
彼の
せんえつ【僭越】
自分の地位や立場を越えて出過ぎたことをすること。また、そのさま。
けいがん【慧眼】
物事の本質を鋭く見抜く力。炯眼(けいがん)。