やがて日が落ち、プルースが迎えに来て、二人は船長室へ向かった。
「船長、お客様をお連れ致しました」
航海士がノックし、返事を待って、船長室の扉を開ける。
「ようこそおいで下さいました。
お初にお目にかかります、トルレンス号の船長、フォルティス・スミスと申します」
立ち上がって二人を出迎えたスミス船長は、想像以上に好人物だった。
年の頃は四十半ば、漆黒の髪に同じく黒い眼をし、海の男らしく肌は日に焼けて、たくましい体つきをしているのが、船長の白い制服の上からでも分かる。
「初めまして、サマエルです。こちらは妻のジル」
サマエルは船長と握手を交わし、妻を紹介した。
「ジルです、初めまして。どうぞよろしく」
「こちらこそ、よろしく」
差し出されたジルの手にキスした後、スミスは深々と頭を下げた。
「本日は、我が船の乗務員が、たいへん失礼を致しました。
わたくしの監督不行き届きです、まことに申し訳ございません」
「いや、済んだことです、どうぞ、もうお気になさらず」
「ありがとうございます」
スミスは顔を上げた。
「そう言って頂くと、わたくしも肩の荷が下ります。
名高い賢者様を本船にお迎えできるとは、まったくもって望外の幸運……ですのに、あのようなことで、ご気分を害されるようなことがあっては……」
「いや、彼から聞いていると思いますが、私のことは内密にして頂きたいのですよ。
せっかくの船旅、無用に騒がれたくないのでね」
プルースに椅子を引いてもらい、ジル共々席に着きながら、サマエルは念を押した。
「おお、無論、それは心得ております。レシフェ・アラディア……様でしたな。
さて、堅苦しいあいさつはここまでにして、晩餐を始めましょう。
プルース」
船長の合図を受けた第一航海士は、隣室へつながるドアを開ける。
二人の給仕達が現れて、泡立つ透明な
「では、お二人の末永いお幸せを祈って」
船長がグラスを手に取り、掲げる。
サマエルが言葉を継いだ。
「航海の安全を願って」
「乾杯!」
皆がグラスを干し、プルースも船長の側の席に着いたところで、海の幸をふんだんに使った豪華な料理が、テーブルに並べられた。
「お口に合うか分かりませんが、どうぞお召し上がり下さい」
「では、頂きます」
サマエルはスミスに軽く会釈し、食事を始めた。
「美味しそうですね。頂きます」
ジルもしとやかに、それに
「いかがですか、アラディア様方が普段お食べになっているものよりは落ちるとは思いますが、本船の料理長が腕をふるったものです」
スミスがにこやかに言った。
「十分美味しいですよ。
私も今は、以前ほど贅沢はできておりませんし、かしこまって頂かなくとも結構ですから。
何しろ私は、身分違いの恋に身を焦がし、あげく国を
料理を運んで来た給仕達に、わざと聞かせるようにサマエルは答えた。
これはある意味において真実であったし、あまり嘘がうまくないジルでも、抵抗なく夫について話せるだろうと、出発前にあらかじめ打ち合わせていたのだ。
それに出航時の騒ぎで、自分達のことは、いいゴシップのねたにされるだろう。
そのこと自体は構わないが、何かの拍子でサマエルが“賢者”であるなどと判明したが最後、二人きりの静かな旅が台無しになってしまいかねない。
しかし、真実よりも信じ込みやすい嘘の情報を、先につかませることができれば、人はそれ以上詮索はしないものだ、ということを彼はよく知っていた。
「レシフェ様、そのようにご
たとえどんな身分の方であろうと、大切なお客様には違いありません。
では、わたくしのことも、フォルティスとお呼び下さい」
スミスは答えた。
さすがは人の上に立つ船長、一瞬でサマエルの意図を見抜いたのだろう、何も訊き返さずに話を合わせた。
こうしてサマエル達は、スミス船長と打ち解けて、まるで旧友と食事をしているような、楽しい時間を過ごした。
夜も
「素敵な船長さんだったわね」
「そうだね……私とどっちが素敵かな?」
少々不安げに、サマエルが問いかける。
「そんなの言うまでもないじゃない! あなたよ!」
ジルは夫に飛びついた。
二人はお休みのキスを交わし、別々のベッドで眠りについた。
翌日。
船長との会食に力を得たサマエルは、思い切って、夜毎船内のホールで催されている舞踏会へ、ジルを連れて出かけてみた。
初日の出来事、そして狙い通り、給仕達から流された噂によって、乗客達の好奇心は高まっていたから、二人は大いに歓迎された。
特に女性達の関心は、元貴族という触れ込みのサマエルに集中し、ダンスに誘われることもしばしばで、四、五回に一度は断り切れずに、相手をする羽目になった。
しかし、踊っている最中も彼の視線は妻から離れず、話し掛けてもどこか上の空で、女性達を落胆させた。
それでも、一度は彼と踊ってみたいと願い出る女性は、引きも切らない。
そこでサマエルは一計を案じ、ダンスの相手から少々精気を頂くことにした。
無論、命に関わるほどではなく、少し体がだるくなったり、眠くなったりするくらいの量である。
それはすぐに功を奏した。
興奮し過ぎたか、それとも、ワインをいつもより飲み過ぎたのかもしれない……などと首をかしげながら、部屋に引き上げる女性が徐々に出始め、彼の周囲に群がる女性達の数は、確実に減っていく。
それに比例して、ジルの方も、なかなか人気を博するようになっていった。
彼女と話すうち、男女の別なく、その飾り気のない性格に皆魅せられていき、いつの間にか人々の輪の中心にいることとなっていた。
サマエルのことは信頼し切っていたので、彼が誰と話し、踊っていようと気にする素振りは見せず、ただ彼が踊りながらでも自分を見ていることに気づくと、手を振って微笑んで見せるのだった。
彼女の心配は、夫が人ごみで気分が悪くならないか、それだけだったが、今のところそれもなさそうで、やはり旅行に来てよかったと改めて思っていた。
忙しく頭を働かせ、刻々変化する状況に対処すること、それが夫の憂鬱を吹き飛ばす最良の方法なのだと。
だが、サマエルの正体に気づいた者は、プルースの他にもう一人いたのだ。
しかも、そちらの方が、より正確に。
三日目の晩、舞踏会にて。
「わたくしと踊って下さいませ、レシフェ……様」
その声に顔を上げたサマエルが息を飲んだのは、その女性の美しさのためだけではなかった。
目の前に立っていたのは、魔族の女性だったのだ。
長い金髪、海の青の瞳、それに映えるドレスをまとい、真珠のアクセサリーをふんだんにつけている。
「よろこんで……」
サマエルは驚きを顔には出さず、手を差し出した。
彼女の手が、湿り気を帯びてひんやりとしている他は、ほぼ人間そっくりで、この女性が魔族であることに気づいた者は、彼の他にはいないようだった。
この頃、魔界へとつながる次元回廊はすでに封鎖されていたが、中には人界に残ることを選択した者もいたから、どこかで魔族に出くわすことがあっても、何ら不思議ではなかった。
ただ、自分が魔族の第二王子であるということが、この女性の口から漏れてしまっては、“賢者”であることが露見するよりも、一層困ったことになってしまう。
しかし、サマエルは人族との混血であり、今は外見に手を加え、魔力もかなり抑えている。
そのため、気づかれていないのではと思ったが、それはやはり甘かった。
美女は、軽快にステップを踏みながらも彼を見据え、念話を送り付けて来たのだ。
“やっとお会いできました、サマエル殿下。お
“……怨むとは、穏やかではないね。私が何か、キミに悪いことでもしたのかな?
覚えがないが”
サマエルは首をかしげた。
事実、この女性に、まったく見覚えはなかったのだ。
すると女性は、マリンブルーの瞳で彼を睨んだ。
“わたくしにではございません。
ですが、あなた様はひどいお方です……わたくしの主人にした仕打ちを思えば”
“……キミの主人? 誰のことだね?”
“わたくしは、ヴェパル様配下の者。そう申せば、お分かりになりますでしょう”
“……!”
一瞬、サマエルは言葉を失った。
驚きを隠し切れずにいる彼に、畳み掛けるように彼女は言い続けた。
“主人は……ヴェパル様は、こともあろうに、殿下が人族の娘と婚儀を
それがまことのことなのか、何度も確かめに行こうとしては、主人に止められ……それでもついに、ワルプルギス山まで参りましたが、あの特殊な結界には、わたくし達は触れることも叶わず……。
それでも諦め切れずに、使い魔に見張らせておいた甲斐がありました。
先日、あなた様が結界をお出になったと、知らせが……それでようやく今日、探し当てたのです、この船に、あなた様がいらっしゃることを……”
“……そうだったのか。
本当のことだよ、ご覧の通りね”
気を取り直したサマエルは、最愛の妻の方へ視線を向けた。
彼の眼差しに気づいたジルは、微笑んで手を振って来る。
それを眼にした美女の瞳に、怒りが燃え上がった。
“殿下は、本当に、本当にひどいお方です。
ヴェパル様はすべてを投げ打って、魔界を
それもこれも、あなた様を信じておられたからですわ、なのに殿下は、以前は神族の女……さらに今度は、あんな人族の小娘などに心をお移しになり、あげく婚姻とは……!
一度ならず二度までも、ヴェパル様をないがしろに……”
“ちょっと待ってくれないか。
それではまるで、ヴェパルと私との間に、何か約束事でもあったかのようだ”
この美女は、勘違いをしている。そう思った彼は、相手の言葉をさえぎった。
“この
サマエルは、念話に苛立たしげな響きを持たせた。
“そう、たしかに私と彼女とは長い付き合いだ。
だが、魔界にいたときから、私達はお前が考えているような間柄ではなかったのだ、帰ってヴェパルに確認してみるがいい。
……それに、恨み言を私に言う権利があるのは彼女だ、お前ではないよ”
それを聞いた美女は、
“慎み深いあのお方が、恨み言など口に出せないのは、ご存知でしょうに!
そんな不人情なことを仰るのでしたら、わたくし、あなたの正体を、今、この場で……人間達の前で暴露致しますわよ!
この方はサマエル、賢者……とは名ばかり、その正体は魔物……それも魔界で幾多の罪を犯し、追放された罪人であると!”
しかしその刹那、サマエルの紅い瞳に闇の炎が燃え上がった。
それを眼にした彼女は、思わず息を呑み、それ以上続けられなくなった。
“言いたければ、言ってみるがいいさ。どうなるだろうね……”
王子の声は
女性の手を持ち、支える腕には力はこもっておらず、踊りにもまったく乱れがない。
表情さえも優しげなままなのが、かえって彼女の恐怖心を
“く、口封じに、わたくしを……こ、殺す、おつもりですのね。
ですが、たとえ、わたくしを殺しても、あ、あなた様の罪は消えませんわ……。
また一つ……罪を重ねると仰るのですか、でも、わ、わたくしは、ヴェパル様のためなら、この命に代えても……”
気丈に言い返す美女の、顔色は蒼白で、体は小刻みに震えていた。