~紅龍の夢~

番外編 BLUE MOON (6)

いよいよ出港日がやって来た。
サマエル達は宿屋の清算を済ませ、港に向かった。
だが、チケットを見せたというのに、受付係は、頑として彼らを船内に通そうとはしなかった。

「なぜ乗船できないのだね、この通りチケットはあるし、旅費はもう前払いしてあるぞ」
サマエルは尋ねた。
「いえ、ですが、ご本人様達であるという確認が出来ませんので……」
接客係は、胡散(うさん)臭そうに、二人をじろじろと眺め回す。

麻のローブで全身を覆い隠し、供の者も連れずに、みずから大きな荷物を下げている。
そんな格好が怪しまれたのだろうか。
揉め事を起こしたくはないと、サマエルは苛立ちを押し殺し、さらに言った。
「三日前、受付にいた女性はどうしたのかな。
名前は分からないが、たしかに彼女がチケットを切ってくれたのだ。領収書もある」

受付係は領収書を見もせずに、首を横に振った。
「残念ながら、本日は体調を崩して休んでおりまして。身分証をご提示願えませんでしょうか」
どうやら、この男は、臨時に案内をしている者のようだった。
「……身分証? そんなもの、今まで誰も見せていなかったではないか」
「はあ……他の方々は皆様、常連のお客様でして」
「ねえ、レシィ、あたし達、お船に乗れないの?」
不安そうに、ジルが問い掛けてくる。

先の見えない押し問答に、サマエル達がうんざりしていたとき、頭上から声が降ってきた。
「どうしたんですか、そろそろ渡り橋を上げないと!
もう出航十分前ですよ!」
見上げると、船員の制服を来た男が一人、船と岸とをつなぐために作られた、取り外しのできる橋を軽快に駆け降りて来るところだった。

あっという間に彼らの側まで来た男は、白い帽子を取り、サマエル達に会釈した。
「お客様、わたしはプルース一等航海士と申します。一体どうなさったのですか?」
「あ、この方々が、身分証の提示をして下さらなくて困っていたのです」
サマエルが答える前に、案内係が口を開いた。
航海士は眉を寄せた。
「……身分証だって? 普段はそんなもの、お客様に見せて頂いてはいないだろう?
チケットをお忘れとか?」

「いや、ここにちゃんとあるのだが、この人が、なぜか乗船させてくれないのだよ」
ようやく話の分かる相手が出てきたと思い、サマエルは航海士に乗船切符を示した。
その途端、男が息を呑んだのに気づき、サマエルは密かに身構えた。
案の定、航海士は彼に向かって言った。
「あ、あの……失礼ですが、もしや、あなたは……賢……」

“私はキミを知らないが、そう呼ぶのはやめてくれないか。
騒ぎが大きくなると面倒だ。出港も遅れるぞ”
間髪入れずサマエルは念話で、ぴしゃりと相手の話をさえぎった。

プルースは眼を丸くしたものの、すぐに念話を返してきた。
“し、失礼致しました、賢者様。
あなた様がわたしをご存じないのも当然です、わたしは単に、女王陛下の戴冠十三周年記念式典の末席に連なっていた者ですから……”

この男も魔法使いなのだろう。
しかもこれほど念話を流暢(りゅうちょう)に扱えるところをみると、謙遜(けんそん)してはいるが、魔力もかなり強いようだった。

サマエルはうなずいた。
“ともかく、今は、賢者の名とは無縁にしていたいのだ。
私のことは、レシフェ・アラディア、そう呼んでくれ。
後で詳しく話そう、もう出航までいくらも時間がないのだろう?”
“かしこまりました”

航海士は同意し、案内係に声をかけた。
「こちらのお方、レシフェ・アラディア様に関しては、何も心配はいらない。
わたしがご案内するから、キミは持ち場に戻っていいよ」
しかし、案内係は食い下がった。
「で、ですが、また強盗だったりしたら……」

「ああ、そうか」
プルースはようやく理由に思い当たり、サマエルに礼をした。
「この者の無礼をお許し下さい、レシフェ様。
実は、先月、ローブ姿の男達が、後で強盗に早変りしたことがありまして。
それで神経質になっているのですよ……幸い、撃退はできたのですが」
「なるほど、それでね……では、これでどうかな」
サマエルは口の中で小さく呪文を唱え、それから、ばさりとローブを脱いだ。

たちまち、夜会服を身にまとった、貴族然とした姿が現れる。
ただし魔法で銀髪を黒くし、瞳の色も、紅からサファイア・ブルーへと変えてあった。
無論、魔族の証である翼や角は封印してあり、額に輝く宝石は緑色をしている。
そうして変装した彼は、かつて“砂漠のオアシス”と(たた)えられた母、アイシスに生き写しだった。

プルースと案内係は眼を丸くし、男性と言うよりはむしろ、男装の麗人と呼んだ方がふさわしいほどの美貌に見とれてしまった。
航海士は思わず、我ながらこれでよく賢者サマエルと見破れたものだと、つぶやいた。
以前会ったことがあり、賢者の気を知っていたからこそ、気づくことができたのだろう。

「こちらはジル、私の妻だ。さ、キミもローブを取って」
「うん」
サマエルの言葉に従って、ジルも麻のローブを脱ぎ、可憐な薄桃色のドレスに身を包んだ姿を現す。
かつて彼女の風貌(ふうぼう)は、貴族どころか、それに仕える侍女と間違われてしまいかねなかった。
しかし、今は、サマエルの言葉と衣装、特徴ある瞳、そして何より、ジル自身の内面からあふれ出す輝きとが、彼女をしっかりと貴族の若妻に見せていた。

「ご覧、この方達が強盗なわけがないだろう。お客様に謝罪なさい」
航海士は案内係を叱った。
「も、申し訳ございません!」
案内係は焦って頭を下げる。
「分かってもらえれば、それでいいさ」
サマエルはようやく愁眉(しゅうび)を開いた。

プルースは、うやうやしく胸に手を当て礼をした。
「わたくしからも重ねてお詫び致します、ジル様、レシフェ様。
そして、改めまして、トルレンス号へようこそお越し下さいました。
特等船室へご案内申し上げます、どうぞこちらへ」

「特等船室? 私は一等船室を頼んでいたのだが」
「いえいえ、やんごとない方々を、粗末な部屋にお通し申し上げるわけには参りません。
ご無礼のお詫びも合わせまして、どうか、特等へお泊り願いたく……」
航海士は、深々と頭を下げた。
「そこまで言うなら、そうさせて頂こうかな」
サマエルは鷹揚(おうよう)に答える。

今の一幕は、甲板で出航風景を見ようとしていたたくさんの乗船客達の耳目(じもく)を惹き、航海士に導かれてゆっくりと渡り橋を上がってゆくサマエルとジルは、好奇の的となってしまった。
サマエルは、心の中で顔をしかめたものの、それを面には出さず、妻の手を引き、にこやかに船内へと向かう。

「こちらのお部屋でございます。お気に召して頂けますかどうか……」
プルースは一つの扉を手で示し、鍵を開けた。
中は、船の内部とは思えないほど豪華な造りになっていた。
「素敵ね、レシィ」
ジルがサマエルに微笑みかける。

「そうだね。
ありがとうプルース、素晴らしいよ。追加料金を……」
財布を出そうとする彼を、航海士は押し留めた。
「いえいえ、料金などとんでもない。
元々この部屋は空室になっておりまして。賢者様にお使い頂ければ幸いと存じます」

「その“賢者”というのはやめてくれないか、今の私は、レシフェ・アラディアだ」
「はい、分かっております。
ただ、やはり船長だけには、事の次第を報告しなければならないと思いますが、よろしいでしょうか」
うやうやしく、航海士は尋ねた。
サマエルは肩をすくめる。
「……仕方ないね」

その後一通り、部屋の説明をしたプルースは、壁に取り付けられた管の先のようなものを指し示した。
「他に何かご用がございましたら、この伝声管をお使い下さい」
それから礼をし、航海士は退室していった。

その後姿を見送り、ジルは夫を振り仰いだ。
「ふう。さっそくバレちゃったわね」
「……すまないね、騒ぎを起こすつもりはなかったのだが……」
サマエルは眼を伏せた。
「ううん、平気よ。それに、知ってるのはあの人と、船長さんだけなんだから、大丈夫でしょ」

「それもそうか。ともかく、ようやく船に乗れたね」
「うん、いよいよね! なんか、ドキドキするわ!」
「そうだね、まずは着替えようか」
気を取り直したサマエルは、ぱちりと指を鳴らし、衣装を普段着に取り替えた。
ジルもそれに(なら)い、二人はソファに座って一息ついた。

そうこうしているうち、出航を知らせる銅鑼(どら)が鳴り響いた。
「あ、船が出るよ、ジル」
「うん」
甲板に出たいところだったが、再び人々の好奇の目にさらされることを考えると、気が重い。
二人はこのまま、船室の丸窓から出航風景を見守ることにした。

「ああ、ファイディーが遠くなってゆくわ……弟も、このお船に乗せてあげたかったなぁ……」
ゆっくりと遠ざかる、生まれ故郷を眼にするジルの口調は、珍しくしんみりとしていた。
「そういえば、まだ教えてもらっていなかったな、キミの弟の名前はなんて言うの?」
サマエルが尋ねると、ジルは可愛らしく小首をかしげた。
「あれ、言ってなかったかしら?
フォンスよ。古い言葉で、泉って意味なんだって。
お母さん、森に水汲みに行って、泉のそばで弟が生まれちゃったの」

「それは大変だったね」
「うん、お母さんの心の声が聞こえたから、急いでお産婆(さんば)さん連れて行ったんだけど、
間に合わなかったのよ。
でもお母さん、そんなに慌ててなくて、産湯(うぶゆ)の代わりに泉で赤ちゃん洗ってたわ。
夏だったし」

「たくましいね、うらやましいよ」
「そう? 近所の村にはお産婆さんがいなかったから、あたしの村からお産婆さんが行く間に、一人で産んじゃう人がいたわよ、結構」
「……そうなのか……ああ、喉が乾いたな、お茶でも飲もう」
サマエルはさりげなく話題を変え、ぱちりと指を鳴らして、ティーセットを出した。

お茶をすすり、二人がくつろいでいるところへ、ノックの音がした。
「どうぞ」
「失礼致します」
きびきびと入室してきたのは、プルース航海士だった。
彼は一礼して言った。
「おくつろぎのところ、お邪魔致しまして申し訳ございません。
実は船長に報告しましたところ、ぜひお二人を晩餐(ばんさん)にご招待したい、とのことでして」

「分かった、喜んでご招待をお受けするよ」
そんなことだろうと思っていたサマエルは、よどみなく返答をした。
「ありがとうございます」
プルースはまた頭を下げ、続けた。

「ご昼食はいかがなさいますか?
食堂もございますが、ルームサービスも致しております。
メニューはこちらに」
航海士は、部屋に備え付けてあった、革に金箔押しの立派なメニューを、サマエルに渡した。
「ああ、決めたら連絡する」
「かしこまりました」
プルースは、退室していった。

「船長さんと、晩ご飯食べるの? どんな人かなぁ、船長さんて」
ジルは首をかしげた。
「さてね、不快な人物でないことを祈るのみだ。
まあ、いいさ。付き合いは今日だけにしてもらうから」
「お山にいたときには全然分かんなかったけど、すごい有名人なのねー、サマエルって」
彼女はくすくす笑った。

「私は大した事はしていないのだが、噂が一人歩きしているのだろう。
そんなことより、ようやく二人きりになれたね、ジル……」
妻を抱き寄せ、サマエルは、そのみずみずしい唇に口づけた。
“昼食は、自分達で出せるからいいと、断ろう……”
“うん……”

やんごとない【止ん事無い】

家柄や身分がひじょうに高い。高貴である。

鷹揚(おうよう)

(たか)が悠然と空を飛ぶように》小さなことにこだわらずゆったりとしているさま。
おっとりとして上品なさま。

愁眉(しゅうび)を開く

心配がなくなって、ほっとした顔つきになる。