~紅龍の夢~

番外編 BLUE MOON (5)

翌日。元気よく目覚めたジルだったが、外は雨が降りしきっていた。
それも半端な降りではなく、嵐と呼べるくらいひどかった。
「……あーあ、すごい雨。出かける日に限って……これじゃ、無理ね」
恨めしそうに窓から空を眺め、がっかりしている妻に向けるサマエルの眼差しは優しい。
「大丈夫、砂漠に出てしまえば、必ず晴れているよ」

「あ、そっか! 今日はピクニックじゃなかったわ、遠くに行くのよね!」
ジルの顔は輝いたが、サマエルは妻に気づかれないよう、ため息をついていた。
昨夜、ジルが寝てから、旅の前途をカードで占ってみたのだが、なんと、“女難の相”と出たのだ。
しかし、今回の旅行を楽しみにしている妻には、水を差すようなことは告げられない。
また、それ以外の安全は確保されていると占いには出たから、サマエルは懸念を自分一人の胸にしまい込むことにしたのだった。

朝食を手早く済ませ、二人は魔法で山を降りた。
下界でも小雨が降っていたが、それもすぐに止んだ。
「あ、晴れたわ。山の上とはやっぱり天気が違うのね」
ジルは言った。
「そうだね。では、次は砂漠だ。
──ムーヴ!」
サマエルは再び呪文を唱え、彼らは刻の砂漠に到着した。

「わあ、広~い! 砂ぱっかり~! あたし、初めてよ、砂漠に来たの!」
一面に広がる砂の海を見にしたジルは、両手を大きく振り回した。
「そういえば、キミが屋敷に来た後は、ここまで出て来たことはなかったね」
「うん。村の砂浜は白かったから、紅い砂って初めて見るわ……」
ジルは、不思議な赤みを帯びた砂漠に手を差し入れる。
「熱いのね、それにさらさら……」
彼女は砂を両手ですくい上げては、何度も落とした。

二人は、生成りのローブを着て深々とフードをかぶっていたものの、強烈な砂漠の太陽は容赦なく、じりじりと照りつけて来る。
ルビーの欠片のような砂に乱反射する日差しを眩しげに手でさえぎりながら、サマエルは妻を促した。
「ここは帰って来てからも見られるよ。さ、次の街へ飛ぼう」
「うん。次はどこに行くの?」
「港湾都市のカミーニだ。気候が温暖な観光の名所で、人が多いのが難点だけれど。
そこから、メリーディエス国行きの船に乗ろうと思っているのだよ」

「外国行くの? すごいすごい!」
彼女は子供のように飛び上がり、はしゃぐ。
サマエルは微笑んだ。
「ファイディーの国内を回るよりも、いっそ、外国へ行ってみようかと思ってね。
たまには、気分を変えるのもいいだろう? 客船も、国内便より大きいしね」
「メリーディエスって、南の島でしょう? あたし、島に行くのも初めてよ、うれしいな!」
「では行くよ──ヴェラウエハ!」
サマエルは遠距離移動の魔法を唱えた。

次の瞬間、閑散とした海辺に二人は着いた。
「あ、海! ここがカミーニなの?」
ジルは周囲を見回した。
「いや、その近くだよ。いきなり町中に出るのは、賢明ではないからね」
「そうね。じゃ、あとはゆっくり、街まで歩きましょ」

雲一つない空の下、潮騒(しおさい)だけが聞こえてくる海沿いの道を、景色を眺めながら二人きりで歩いていく。
そんな彼らのローブを潮風はなぶり、カモメが一羽、鳴き声を響かせて頭上をよぎった。
「なんか、波の音と潮の香りが、すっごーく懐かしいわ……。
あたし、泳ぎたくなっちゃった」
「待って」
波打ち際に向かおうとする妻を、サマエルは引き止めた。

「ここは駄目だよ。
来る前に調べたのだが、浜辺からは分からない複雑な海流があって、よく溺れる者がいるそうだ。
だから、こんなに空いているのだよ……ほら、注意書きがあるだろう?」
サマエルは、ひと気がない砂浜に、ぽつんぽつんと立っている看板の一つを指差した。

「なーんだ。残念」
いかにもがっかりした様子の妻に、彼は慰めの言葉をかけた。
「大丈夫。ちゃんと安全な砂浜もあるから、後で泳ぎに行こう。
それよりも、まずは、乗る船を決めなくてはね」
「そうね、お船もどっちも楽しみ!」
すぐにジルは元気になり、足取りも軽くなる。

カミーニに近づくに連れ、徐々に人が増え、街の喧騒(けんそう)に波音も磯の香りもかき消され始めた。
「具合悪くない? レシィ……」
夫が、人ごみが苦手だと知っているジルは、心配そうに尋ねる。
「ああ、キミがいれば平気だよ」
サマエルは彼女に笑みを向けた。

旅立つにあたり、彼は、賢者として広く知られている名、“サマエル”を避け、“レシフェ”と名乗ることにしていた。
彼の真の名に似た名前を選んだのだが、ジルは発音しにくいらしく、レシィと短く呼ぶことが多かった。
対するジルは、よくある名前でもあり、本名をそのまま使うこととした。

街の中に入ると、二人は、サマエルがあらかじめ調べておいた大型船の乗り場へ出向いた。
「これが今日乗るお船?」
目の前に浮かぶ大きな客船を指差し、ジルが尋ねる。
船体は白く塗られ、金の縁取りに黒の文字で“トルレンス号”と船名が記されていた。
「定員があるからね、これに乗れるとは限らないが、とにかく訊いてみよう」
「うん」

どっしりした立派な扉を開け、船着場のそばにある建物に、彼らは足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ、お客様。こちらへどうぞ」
受付係の女性が立ち上がって、うやうやしくお辞儀をし、二人をソファに導いた。
ジル共々それに腰掛け、サマエルは訊いた。
「今日出港する、メリーディエス国行きの船便はあるだろうか」
「少々お待ち下さいませ」
女性はデスクに戻り、帳簿を調べ始めた。

ややあって顔を上げ、受付の女性は答えた。
「……申し訳ございません、本日の便は満席でございます。
明後日の便でしたら、ご用意できますが」
「急ぐ旅でもない、それで構わないが……どんな船かな? なるべく大型の客船に乗りたいのだが」

サマエルが念のため尋ねると、女性は胸を張った。
「ご安心下さい、明後日出港の便はファイディーでも一、二を争う、我がアステール船会社、自慢の豪華客船でございます。
優雅な船旅を満喫して頂けること、請け合いでございますよ。
ちょうど今、隣の船着場に停泊致しております、ご覧になりますか?」

「えっ、さっきのお船に乗れるの、素敵!」
ジルの声が弾む。
「つい今しがた見てきたよ。妻も気に入ったようだ。では、一等船室のツインを頼もう」
上客と知った受付係の態度は一層ていねいになり、うやうやしいお辞儀をした。
「はい、かしこまりました。
メリーディエス国までの渡航日数は、途中寄港も入れまして十日間でございます。
料金はお二人様で金貨二十枚となります。前払いでお支払い頂くようになっておりますが」
女性は、羊皮紙に金で縁取りされた料金表を差し出した。

「ああ、そう」
サマエルは、それを見もせずに懐から小袋を取り出す。
「ありがとうございます。こちらをどうぞ」
金貨と引き換えに、女性はチケットと領収書、渡航日程等が書かれた小冊子を彼に渡した。
「それから、乗船名簿にサインをお願いします」
さらに女性は、引出しから革表紙の帳簿を出して広げ、ペンを差し出す。

サマエルはすらすらと、二人分の名前を書いた。
「ジル・アラディア様と、レシフェ・アラディア様でございますね」
「ああ、新婚旅行で、南の島への船旅を楽しもうと思っているのさ」
サマエルが、とっておきの笑みを浮かべると、女性はみるみる耳まで紅くなった。
「そ、それは、おめでとう……ございます。チ、チケットを……なくされませんよう……」

「ありがとう。そうだ、出港は何時かな?」
「こ、こちらの冊子にあります通り、み、明後日の十時でございます。
ご注意下さい、連絡なく遅刻なさいますと、お客様がいらっしゃらなくても出港致します。
その際は、返金も致しかねますので……」
「分かった、気をつけよう。では、明後日にまた」
「はい……お待ち申し上げております……」
女性は頬を赤らめたまま、深く頭を下げた。

建物から出ると、くすくす笑いながら、ジルが言った。
「なんかあの人、サマエルがにっこりした途端に、真っ赤になっちゃったわね」
「……そうだったかな」
「絶対そうよ。サマエルの笑顔って、効果絶大なんだから。誰でも、幸せな気分にしちゃうのよ」
無邪気にジルは言ってのける。

サマエルは複雑な顔をした。
それは、自分が女性の精気を吸うインキュバスだから、というのが真相なのだが、純粋無垢(むく)な妻には分からないのだろう。
しかし、幸福な誤解を解く気は、彼にはなかった。

「これでともかく、船は決まった。後は宿を探して、それから泳ぎに行こうか」
「うん! 海で泳ぐのって久しぶり!
あ、そういえば、あたし、宿屋に泊まるのも初めてかも!」
水晶球の占いはさて置き、楽しそうな妻を見るたびサマエルは、旅に出てよかったと思うのだった。

様々な宿があったが、彼らはカミーニで一番大きな宿屋に泊まることにした。
さすがに、サマエルの屋敷とは比べものにはならなかったが、建物や内装は、なかなか贅を凝らしてある。
一階の食堂で昼食を摂ると、二人は宿屋を後にした。

途中で流行の水着を買い、他にもドレスや衣装をいくつか選んで、宿まで配達してもらう手はずにし、二人は浜辺に向かった。
服は無論、買うまでもなく魔法で作り出すことができたのだが、資金は潤沢(じゅんたく)な上に、現在の流行を彼らは知らなかったから、たまには買い物もいいだろうということになったのだ。

安全な海辺の方は、さすがに観光地だけあって、結構込み合っていた。
サマエルは、ジルと一緒に砂浜に下りていくことはせず、浜に面したカフェで日差しを避けながら、彼女が水遊びに興じているのを眺めていることにした。

一頻(ひとしき)り泳いだ後、ジルは引き返して来た。
「レシィ! こっち来て一緒に砂遊びしない?」
「いや、遠慮しておくよ。楽しんでおいで、私はここで待っているから」
「うん!」
栗色のお下げを揺らし、再びジルは、砂浜目がけて駆け出していく。

「可愛い方ね。妹さん?」
そのとき、隣のテーブルにいた女性が声をかけてきた。
サマエルは、ちらりと相手に視線を向け、美人と見て取ると、フードを深くかぶり直した。
「いえ、妻ですよ。私達は新婚旅行に来たところでね」
「まあ、奥様!? 随分とお若いこと……」
驚いたように女性は眼を見張る。

「彼女は若く見られるようでね。あれでも、もうすぐ二十五なのですが」
「……そうでしたの、わたし、てっきりまだ十代かと……。
でも、奥様がうらやましいわ、色んな意味で……」
美女が、悩ましげに髪をかき上げ身を乗り出すと、扇情(せんじょう)的な水着の間から覗く、水蜜桃(すいみつとう)のような胸が男の視線を奪おうと揺れる。
長いまつげの下からの、(つや)っぽい流し目を眼にしたサマエルは、露骨にため息をついた。
そのとき。

「ねー、レシィ! やっぱり一緒に来て!」
ジルがまたも走ってきて、サマエルの腕をぐいと引いた。
「ああ、そうだね……では」
天の助けとばかり彼は立ち上がり、女性に軽く会釈(えしゃく)して歩き出す。
いかにも残念そうな美女の視線を、背中で受け流しながら、彼らは海に向かった。

「ありがとう、ジル。助かったよ」
心底ほっとして、サマエルは言った。
「うん、サマ……じゃなかった、レシィ、困ってたでしょ。
だから急いで助けに行ったの」
ジルはいつもの通り、天真爛漫(てんしんらんまん)な笑みを彼に向けてくる。

「よく分かったね」
「だって、あたし、あなたの奥さんだもの……あ」
自分の腕に身をすり寄せてくる妻を抱き寄せ、その唇を、カフェの女性に当てつけるように思い切りサマエルは奪った。
この幸せなひとときを何者にも邪魔などさせるものかと、彼は決心していた。