~紅龍の夢~

番外編 BLUE MOON (4)

ジルは驚いて立ち上がり、夫に駆け寄った。
「どうしたの、サマエル! また具合が悪くなったの!?」
「ち、違う……」
手で顔を覆ったまま、サマエルは首を横に振る。
「だったら、何?」

「なんて幸せなのだろう……そう思ったら、出ないはずの涙があふれそうになって……。
私の眼は、もう涙を流すことはできないのに……」
「え? サマエルって、泣けないの?」
面食らうジルの声も耳に届いた様子はなく、彼は身悶えた。
「ああ……こんな風に、明るい日の光の下でジルと微笑み合いながら食事をしているなんて、これは絶対夢だ、幻覚に違いない。
本当の私はまだ魔界にいて、目覚めたら彼女は消え……一人ぼっちで私は暗い牢獄にいるのだ……」

「夢じゃないわ、ほら、あたしはここにいるでしょ、見て、本物よ!」
ジルは夫の肩をつかみ、揺さぶった。
サマエルはびくりとし、それから顔を上げて妻を見、おずおずとその頬に触れた。
「……温かい。本当だ、キミはここにいる、ちゃんと実体がある。夢ではない、幻覚でもない……。
けれど、こんな私が……誰かと眼を見交わして微笑んだり、幸せな気持ちで食事を摂ることが、許されていいのだろうか……」

あまりにも(さち)の薄い魔界の王子は、ささやかな幸福を感じることにさえ慣れていないのだった。
それは、心の傷の深さにも関係があったのかもしれない。
サマエルのトラウマは彼の内部に深く根を下ろし、不幸で傷つくのは無論だが、幸福に過ごすことでも心は痛むのだ。

「どんな人も、幸せになるために生まれて来るのよ。
もちろん、サマエルも、あたしもね。
だから幸せになることに、後ろめたさなんか感じなくていいの」
ジルは優しく夫を抱きしめ、幼子に言い聞かせるように、ささやいた。

「そう……なのかな。でも、幸福になる前に、死んでしまう者もいるよ……」
「もし間に合わなかったら、そのときは生まれ変わるのよ。今度こそ幸せになるために、ね」
ジルは大きな栗色の瞳で、サマエルの魔眼を見つめる。

(何という至福……この私が、光の女神を独り占めにしているとは……)
さんさんと降り注ぐ朝日の中、癒しを感じさせる不思議な眼差しと、天女のごとき笑みを持つ女性は、自分の妻なのだ。

しかし、幼少の頃から、悲惨な目に遭い続けていたサマエルにとって、その幸運を現実として受け入れることはかなり難しかった。
幸せだなと感じた瞬間、それが粉々に打ち砕かれ、さらに不幸が追い討ちをかける恐怖。
それに怯えた彼は徐々に、わずかな幸福であっても避けるようになり、しまいには常に不幸せでいる方が気が楽だとさえ、考えるようになってしまっていたのだ。

だが、改めて考えてみると、どう転んでもこれ以上、悪くなりようがないことに彼は気づいた。
(そう、どうせ私は、寿命を(まっと)うすることもできず、生け贄として死ぬ身。
今だけでも、最愛の人と共にいられる贅沢(ぜいたく)を自分に許してもいいだろう……)

ジルの存在に救われて、王子が開き直ると共に、心の痛みも霧散(むさん)していく。
「キミの言う通りだね、ありがとう、ジル。もう大丈夫だから……」
彼がやっとおのれを取り戻すと、ジルもまた、安堵して席に着いた。

「ごちそう様、とてもおいしかったよ。
食事が楽しみになるなんて、昔の私からは想像もつかないことだ……」
そうして、ようやく朝食を終えたサマエルは、しみじみと言った。
ジルはにっこりした。
「そう、よかったわ。これからもおいしいもの、たっくさんつくるわね」

「それは楽しみだな。ああ、お茶は私が()れよう」
サマエルは手の一振りで、ポットとカップを二つ出し、手馴れた仕草で薄茶色の液体を注ぐ。
湯気の立つカップを受け取り、ジルは言った。
「ありがと。ねえ、昨日のブランコに、また乗ってもいい?」
彼は微笑み、答えた。
「もちろんだとも。今日はいい天気だし、気持ちよく過ごせると思うよ」

「じゃ、一緒に行きましょ、サマエル。もし用事がなかったら」
サマエルはかぶりを振る。
「キミと過ごせるに勝る用などないよ。
……そうだ、また飛んで行くかい?」
「え、いいの?」
ジルは栗色の瞳を輝かせた。

朝日の中、魔族の王子は黒い翼で風を切り、妻を頂上まで運ぶ。
ジルは昨日に引き続いて感激し、サマエルの腕の中で、はしゃいだ。
「素敵、素敵! もっと早く、こんな風に運んでもらえばよかったわ!」
「では、これからは毎日飛ぼうか」
「ホント!? あ、でも、大変なら無理しないでね」
「いや、大丈夫だよ」
サマエルは微笑んだ。
ジルは小柄で、さほど重くもなく、彼の翼の負担にはまったくならない。

木の根元に舞い降りると、月型のブランコは、日光を反射して銀色に輝いていた。
「お日様の光で見ても素敵ね、このブランコ!」
「そう、気に入ってくれてよかった」
「さ、サマエルも一緒よ」
夫の腕をつかみ、ジルはブランコに乗り込む。

ひとしきり遊んだ後で、彼女はつぶやいた。
「……これも素敵だけど……あたし、本物のお船で旅に出てみたいな」
「え?」
「昨夜も思ったんだけど。どこかに旅行してみたいなって」
「そういえば、このままどこか遠くに行けたらいいなと言っていたね。
こんな辺ぴな山の中で、話し相手は私だけというのも飽きただろうし、このブランコも、ただ前後に動くだけだしね。
……行っておいで、ジル。キミと離れるのは辛いが、たまには気晴らしも必要だ」

ジルは眼を見開いた。
「──え!? 嫌よ、あたし、サマエルから離れたくない!
そうじゃなくて、二人一緒に行くの。あたし、サマエルと旅がしたいのよ!」
彼女は夫にすがりつく。
「えっ、わ、私と……だって!?」
妻の提案に、サマエルは驚愕した。

「そうよ。あたしと一緒の旅行なんて、嫌?」
「……そ、そんなことはないよ。キミとなら、きっとどこへ行っても楽しいだろう……。
い、いや、やはり駄目だ、私は……人目を惹いてはまずいから……」
サマエルは口ごもった。
“賢者”としても魔族の王子としても、大っぴらに出歩くことは、彼にはあまり得策とは思えなかった。

夫のためらいを見て取ったジルは、ここぞとばかり熱弁を振るった。
「それは分かるけど、同じところでずっとこもってるのって、よくないように感じるの。
あ、もちろん、二人きりで暮らしているのも、あたしは大好きよ。
でも……静かなのはいいけど、毎日、同じことの繰り返しだし、特にしなくちゃいけないってこともないでしょう?
暇だから、暗いことばっかり考えちゃうんじゃないかしら。
だから時々は、別な場所に行って、色々考えたり感じたりした方がいいのよ、きっと。
──ね、そう思わない?」

「……そうかも知れないが……」
サマエルは眼を伏せた。
彼女は夫の手を取り、その端正な顔を覗き込んだ。
「ね、お願い、サマエル。あたし、海に行きたいの。大きなお船に乗ってみたいのよ。
村の近くには海があってよく泳いでたけど、港がなかったから。
いつか、おっきなお船で遠くに行ってみたいなって、ずっと思ってたの。
──ね、お願いよ、一回でいいの。一度海に行けたら、もう、我がまま言わないから!」

それはジル自身の望みというより、心から夫の身を案じてのことだった。
以前から彼女は、薄々とは感じていた。
あまりにも平穏過ぎる生活が長く続くことは、夫にとって、あまり好ましくないのではないかと。
そして、その懸念が、先ほどの会話で明確な形となって現れたことにより、彼女は本気で危惧(きぐ)の念を抱いたのだった。

しかし、ジルの懸命の努力にも関わらず、サマエルはうなだれ、しばらく黙りこくっていた。

やはり駄目かと彼女が諦めかけたとき、魔族の王子はようやく顔を上げた。
瞳には、先ほどまでとは別人のように、力強い光が宿っている。
「分かったよ、行こう。今までキミには、何の楽しい思いもさせてあげたことがなかったものね。
ローブで顔を隠せば、私の正体が知られて、騒ぎになることもないだろう……」
「ほ、ほんと!?」
ジルは、身を乗り出した。

「そう、よく考えたら私の……“賢者”としての顔を知っている者は、人界では数えるほどで、ほとんどいないと言っていい。
考慮に入れる必要もないくらいだ。
天界も、しばらくは静観すると言っていたし、もし何か仕掛けてこようとしても、人の多いところでは、かえって手出しできにくいだろう。
──そうだ、どうせなら、魔法で完全に姿を変えてしまうというのも一つの手かな。
別人になって天界を(あざむ)き、旅をする、というのも面白いかも知れないね」
そして、魔界の王子は、見る者を惹きつける、魅惑的な笑みを浮かべた。

いつになく積極的な夫の様子に、ジルの眼も輝いた。
「あたしは変える必要ないけど、サマエルは有名人だもん、それがいいかもねっ!」
「いや、キミも天界には眼をつけられている、少し外見を変えてみてはどうかな」
「え、あたしも?」
「まあ、髪や眼の色を、多少いじるくらいだけれどね……」
「ふうん、面白そう!」

「では、善は急げだ、今すぐ変身して出発……いや、それでは(あわただ)し過ぎるかな。
特に急ぐ理由もないしね。
せっかくキミが作ってくれたシチューもあることだし、ディナーまでは旅行の準備に当てて、明日の朝、出発することにしようか」
「うん!」
ジルは飛び立つような気持ちで同意し、それを見たサマエルの心も、いつになく浮き立つ。

楽しい気分のまま、彼は使い魔に念話で告げた。
“タィフィン、明日からしばらく、ジルと二人で屋敷を空けることにしたよ。留守を頼む”
“かしこまりました。お任せ下さい、お館様。旅のご無事を祈っております”
驚く様子もない答えが遅延なく返って来る。
使い魔の声もまた、心なしか弾んでいるようだった。
おそらく、いきさつを聞いていたのだろうが、サマエルはそれを(とが)めるつもりはなかった。
この優秀な使い魔が、自分と妻との間に立ち、色々と心を砕いていたのを、彼はちゃんと知っていた。
今回も、自分のこと以上に気をもんで、はらはらしていたに違いなかった。

“そうだ、タィフィン、私達はかなり長期間、旅行することになると思う、だから、お前も休暇を取って、羽を伸ばしておいで”
“……よろしいのですか?”
遠慮がちな使い魔に、彼は言った。
“館のことなら心配いらない、結界もあるし、ケルベロスに毎日巡回させる。
たまには魔界に還っておいで。帰る一週間前くらいに連絡するから”
“はい、では、お言葉に甘えさせて頂きます”

こうしてサマエルとジルは、初めて二人きりの旅……遅まきながらのハネムーン……に出ることになったのだった。