何度も寝返りを打つうち、ようやく眠りに落ちたジルは、ふと目覚めた。
まだ辺りは真っ暗だった。
「……なんで、眼が覚めたのかしら」
首をかしげて起き上がるのと、待ち焦がれていた懐かしい気配を、彼女が感知するのとは同時だった。
地下ではなく、間違いなく屋敷の中に。
「──サマエルだわ、サマエルが帰って来た!」
ジルはベッドを飛び出し、夫の部屋に向かって駆けて行った。
「サマエル!」
力一杯ドアを開けると、感知した通り彼がいて、驚いたように彼女を見た。
「あ、ジル……」
「戻ったんなら、起こしてよ!」
飛び込んできた愛しい妻を、サマエルは優しく抱きしめた。
「すまない。朝になれば会えると思ってね……」
「心配したのよ、いきなり倒れて、地下に行っちゃって……もう、二度と会えないかと思った!」
彼の胸の中で、ジルはしゃくりあげた。
「本当にすまななかった……もうどこにも行かないよ。
こんな、化け物のような醜い男を、キミがまだ夫と思ってくれるなら……」
「サマエルは、化け物なんかじゃないわ」
ジルは夫の顔をなでる。
「ほら、お肌も赤ちゃんみたいにすべすべで、うらやましいくらいよ。
ますます綺麗になっちゃってる」
サマエルは眼を伏せた。
「……男が綺麗と言われてもね……」
「どうして? サマエルは顔だけじゃなくて、心だって綺麗よ」
「そう……だろうか。私は、キミを縛っている気がして仕方がない。
いっそのこと、この機会に、キミの前から消えようかと思ったくらいだ……地下で巨大な抜け殻を見て、自分が化け物であることを実感して……」
彼は身を震わせる。
ジルは顔色を変えた。
「そんな! あたし、もう死んじゃわなきゃいけないの? アイシスさんとも約束したのに!
まだ、赤ちゃん一人も産んでないのに!」
「そんな意味ではないよ、ただ……キミを妻にする資格が、自分にあるのだろうかと思って……」
サマエルはうなだれた。
「あたしはサマエルが好き。だから一緒にいるのよ。それじゃいけないの?
それとも、あたしのことが嫌いになった? だから、離れたいなんて言うの?」
「まさか。世界中の誰より一緒にいたいと思っているよ、私も。
愛しているからこそ、キミを不幸にしたくはないのだ……」
「それじゃあ、心配いらないわ。あたし、サマエルといるときが、一番幸せなんだもの」
ジルは夫を見上げ、微笑んだ。
「ありがとう、ジル」
妻を抱き上げ、サマエルは口づけた。
長い長いキスの後、そっとサマエルは唇を放す。
「サマエル……」
身をすり寄せてくる妻を、いとおしそうに彼は抱きしめた。
「本当はね、キミが寝入ったばかりの頃に、地上へは戻っていたのだよ。
朝になる前に、ぜひとも済ませたい用事があったのでね」
「用事って、どんな?」
うっとりとジルは、夫を見上げる。
「まだ暗いが……その方がいいかも知れない。
ちょっと外に出掛けないか、キミに見せたいものがあるから」
「いいけど。見せたいものって、なあに?」
小首をかしげる妻を焦らすように、サマエルは微笑む。
「それは、見てのお楽しみ。
朝になってからと思っていたのだけれど、キミに会ったら、すぐに見せたくなってしまってね」
「えー、何? 教えて」
「すぐ分かるさ……ああ、せっかくの機会です、夜間飛行などいかがですか、奥方様?」
極上の笑みを浮かべた魔族の王子は、胸に手を当ててお辞儀をし、それから誘うように窓を差し示す。
「ええ、連れてって下さる?」
レディのたしなみとして、最近礼儀作法を夫に習い始めていたジルもまた、優雅に礼を返した。
妻の同意を得たサマエルは、軽々と彼女を抱き上げて窓を開け放つと、大きく翼を広げ、ベランダから夜空へ向けて力強く羽ばたきを開始した。
ふわりと体が宙に浮くと、ジルは栗色の瞳を輝かせた。
「──わあっ、すごい! 空を飛ぶのってやっぱり素敵ね、サマエル!」
以前にも、異界で結界球に包まれて移動したり、タナトスに夜景を見せてもらったことはあるが、愛する夫に抱かれて満天の星空を飛翔する喜びはまた、段違いに大きかった。
「寒くないかい?」
「平気よ。気分もいいし、お月様も綺麗だわ!」
ジルが腕を伸ばす先には、青く輝く大きな月がかかっており、
「そうだね。今夜の月はまた格別に美しい。魔界で育つ、青真珠のようだ……」
「ふうん、魔界の真珠って青いの?」
「ああ。魔界の海は濁って赤黒いが、真珠は、なぜか皆、美しいブルーでね。
魔族の故郷、ウィリディスの海の色を映しているとも言われているけれど」
「ふうん。見てみたいな、真珠も、海も。魔族が早く、ふるさとに帰れるといいわね。
──あ、あの木! おもちゃみたいにちっちゃいわ!」
月明かりに浮かび上がる、山頂にそびえ立つ巨大な樹は、今、片手でつかめそうなほど小さく見えた。
「あそこに降りるよ」
「うん」
みるみる近づく巨木に向けて、ゆっくりと二人は下降していった。
「この木のてっぺんに乗ったのなんて初めて! すごーい!
──あ、お家も見えるわ、ほら、あそこ!」
頭頂部近くの太い枝に着くと、ジルは歓喜の声と共に、光を指差した。
すべてが闇に沈む山中で、窓に灯りがともされたサマエルの屋敷だけが唯一、文明の輝きを誇っていた。
「綺麗ねー。見せたいものって、この景色のことだったの?」
妻の問いに、サマエルは否定の仕草をした。
「いや、残念ながら。
キミが山の景色以上に気に入ってくれるかどうかは分からないが、悲しませたお詫びにと思ってね」
「お詫びなんて、あたし、もう気にしてないのに」
「私の気が済まないだけさ。おいで、ジル」
サマエルは再び彼女を抱き上げ、黒い翼を広げて、地面に舞い降りた。
「見せたかったものは、これなのだが……」
「え、これ……?」
ジルは眼を真ん丸くし、燐光を放ちながら風に揺れるものを見つめた。
木の枝から、銀の細い鎖が二本、下がっている。
その先に据えつけられていたのは、三日月形をした純白のブランコだった。
「どうだろうか、……」
「これを作ってくれたの? あたしのために? すごい! 素敵!」
満面の笑みで、ジルは夫を振り仰いだ。
「そうだよ。気に入ったかい?」
「うん、とっても! 乗ってみてもいい?」
「もちろんだとも」
大喜びで、彼女はブランコに飛び乗る。
「一緒に乗りましょ、サマエル。ほら、椅子が広いから平気よ」
「……ああ、何人かで乗れるように、大きめに作ったからね」
サマエルは、彼女と向かい合わせに座る。
指をぱちりと鳴らすと、静かにブランコは揺れ始めた。
「──わあ、素敵! まるで本物のお月様に乗って、お空を旅してるみたいー。
今日は、ホントに、素敵なことばっかりあるわ……!」
ジルははしゃぎ、栗色の髪をなびかせて、しばしブランコを楽しんだ。
サマエルもまた、そんな妻の姿を、この上ない喜びと共に眺めていた。
「お船に乗ってるみたい……このまま、どこか遠くに行けたらいいな……」
そのつぶやきにサマエルが答えようとした時には、ジルは手すりにもたれかかり、安らかな寝息を立てていた。
彼は、我知らず微笑んだ。
(おやおや、乗り心地がよかったのかな……いや、夜中に起してしまったからだろう。
少し冷えてきたな、風邪を引いてはいけない)
起こさないように小声で呪文を唱えて、サマエルは妻を屋敷へ連れ帰った。
翌朝、ジルは自分のベッドで目覚めた。
「……あれ? 夢だったのかしら?
──あ、違うわ、やっぱり!」
夫の気配は、屋敷の中にちゃんとある。
それをたどり、ジルはキッチンに向かって全速力で走った。
「おはよう、ジル。よく眠れたかな?」
湯気の立つカップをテーブルに置き、サマエルは彼女に微笑みかけた。
「サマエル!」
昨夜と同じく彼女は夫の胸に飛び込み、二人は長い口づけをかわす。
やがて、サマエルはそっと唇を放し、妻の顔を見つめた。
「改めて、すまなかったね、ジル……」
「ううん、帰って来てくれたから、もういいの……」
ジルがキスの
「きゃ……こんなときに、どうして鳴るのぉ、お腹のバカ!」
サマエルはくすくす笑った。
「さ、キミのお腹のリクエストだ、朝ご飯にしようか」
「ホント、嫌ねぇ。ものすごく恥ずかしいわ。
……せっかく、いいムードだったのに……」
「仕方がないさ。いや、かえってほっとした……本当に、キミの元へ帰ってこれたのだなと実感できたよ」
彼は、しょげる妻を慰めた。
ジルは頬を赤らめたまま、あたふたとエプロンをつける。
「は、早く食べましょ。何がいい? シチューもあるけど」
「いや、シチューはディナーにしよう。
朝はいつものメニューでいいよ。キミのオムレツは絶品だ……生きていてよかったと思えるほどにね」
「大げさね。じゃあ、すぐ作るから待ってて」
ジルは気を取り直して手早く卵を焼き、サマエルの向かいに座った。
「さあ、召し上がれ」
「頂きます」
一切れオムレツを口にしたサマエルは、しみじみと言った。
「ああ……なんて美味しいのだろう。体中に染み込んでいくようだ……」
「そう? よかった」
ジルは心から幸せそうに答え、自分も食べ始めた。
時折二人は眼を見合わせて微笑を交わし、なごやかに朝食は進んだ。
試練の後の、至福の時。
二人だけの幸せな時間が過ぎてゆく。
だが、ほぼ食べ終えた頃だった。
「あああ──!」
突如サマエルが、フォークを取り落として叫び声を上げ、顔を覆ったのは。