「……ジル様? ジル様、しっかりなさって下さいませ」
その声にジルが眼を開けると、灰色のローブに身を包んだ小柄な人物が、体を揺さぶっていた。
フードを目深にかぶっているため、その顔は見えない。
「あれ? ……あたし?」
いつの間にか、彼女は、床に倒れて気を失っていたのだった。
「ジル様、どこかお悪いのですか? あなた様に何かございましたら、お館様に申し訳が立ちません」
彼女はその声に、聞き覚えがあるような気がした。
「……あ、そっか、あなた、タィフィンね!
そうだ、サマエルはどうしたの!?」
ジルは跳ね起きた。
「……お館様は……」
タィフィンは、顔をさらにうつむかせた。
「どうしたの──きゃっ!?」
使い魔の肩をつかんだジルは、ぬるりとした感触に驚き、手を見た。
それは紅く染まっていた。
ぷんと血なまぐさい臭いが漂う。
「タィフィン……!? あなた、ケガしてるのね!?」
「……い、いえ、大、した、ことは……」
使い魔は否定の身振りをするものの、着ているローブは、肩から背中にかけてぐっしょりと血で濡れ、痛みに耐えているのか、動作はぎこちなく、呼吸も荒かった。
「嘘。たくさん血が出てるわ、ひどいケガなんでしょ、痛そうよ。待ってて、治してあげる!
──フィックス!」
彼女の唱えた治癒魔法によって、すぐに傷はふさがり、出血も止まった。
「ありがとうございます、ジル様」
うやうやしく頭を下げた使い魔の姿は、次の瞬間、いきなり消えた。
「ま、待ってよ、タィフィン、どこに行くの!?
さっき、戻ったら説明してくれるって言ったじゃない!」
うろたえる彼女のすぐ隣、使い魔が消えたその場所から、応えが返って来た。
「ご心配なく、どこにも参ってはおりません。これから詳しくお話致しますので……」
「ねえ、どうしてまた透明になっちゃうの……っていうか、なんであなた、いつも姿を消してるわけ?」
ジルは当惑して尋ねた。
「先ほどは、動転致しておりまして、姿を消すことを忘れていたのでございます……」
「そんなに見られたくないの?」
「はい、……お許し下さい」
使い魔の声は心底済まなそうだったが、彼女は食い下がった。
「見えないと話しにくいわ。出てきてよ」
「……ですが……」
「だって、サマエルには見えてるんでしょ?」
ジルは首をかしげる。
「使い魔の契約をした際、お館様は、ローブの中は決して見ないとお約束して下さいました……。
わたくしは……どうしようもなく醜いのです……ジル様も、ご気分を害されると思います……。
ですから……」
「そんなに……? でも、あたしだったら平気よ。どんな姿でも、全然気にしないわ」
「……わたくしは、気になります……」
消え入りそうな声だった。
「……そう。分かったわ。じゃあ、さっきみたいに顔を隠してていいから、出てきてくれない?
それならいいでしょ?」
皆が皆、自分のように考えるとは限らないということを、徐々に理解して来ていたジルは、譲歩した。
「かしこまりました……」
灰色のローブを着込んだ小柄な使い魔は、渋々と言った感じで、再び彼女の目の前に現れた。
「ご免ね、タィフィン、わがまま言って」
使い魔はかぶりを振った。
「いえ、わたくしの方こそ……」
「それはもういいから、教えて。サマエルは一体どうなったの?
あたし、心配で心配で……」
一刻も早く理由を知りたいジルは、タィフィンをさえぎり、勢い込んで尋ねた。
「はい。先ほども申し上げました通り、お館様はご病気ではございません。
それゆえ、一週間ほどもあれば目覚められ、お元気になられて、こちらにお戻りなさると思います」
「……本当に? だって、じゃあ、どうして倒れたりしたの?」
「それは……」
タィフィンは言いよどんだ。
「やっぱり、病気じゃないなんて嘘ね。本当のことを言って。お願いよ、タィフィン。
あたし、心配で死んじゃいそうなの。
奥さんなのに、サマエルのこと知らないなんて、悲しい……」
ジルは眼を潤ませた。
それでもまだ、使い魔はためらっていたが、彼女が鼻をすすり始めると、ハンカチを空中から取り出して渡した。
「どうぞ、お使い下さい」
「あ、ありがと。ねぇ、タィフィン……お願い……」
再び栗色の眼から、涙がこぼれ始める。
使い魔は、根負けしたように口を開いた。
「では、お話致しますが……その前に、ジル様、お約束をして頂けないでしょうか?
真実を知っても、お館様を愛し続けて下さると」
腫れぼったくなった眼を丸くし、ジルは意外そうに言った。
「えっ、もちろんよ、当たり前じゃない。何があっても、あたし、サマエルのことが大好きよ」
それから急に表情が曇る。
「サマエルが、あたしのことを嫌いになったんじゃなければ、ね……。
ううん、嫌われても、あたしは大好きなままだけど……」
「それは大丈夫でございます、わたくしごときが申し上げるのも
魔族、人族の
使い魔はきっぱりと言い切る。
「そう、よかった。じゃあ、教えて。何があったの?」
ハンカチをぎゅっと握り締め、ジルは改めて尋ねた。
「はい……あの、お館様は……」
タィフィンが、ようやく重い口を開きかけた、その刹那だった。
突如、屋敷が何度か大きく揺れたのは。
「な、何? 地震? でも……どっか違うような?
ずしん、ずしんって、地下で何か、大きなものが暴れてるみたい……」
「あれは……お館様でございます」
「え? どういうこと?」
ジルは眼を見開いた。
「お館様は……その、今……」
言いかけてまた、使い魔は口ごもる。
「ねえ、何なの?
じれったげに彼女が問うと、タィフィンは、意を決したように言った。
「は、はい、ジル様。
お、お館様は、今、“脱皮”をなさっておいでなのです……!」
意外な言葉に、ジルは口をあんぐりと開けた。
「だ、だっぴ……!?
──って、あの、蛇とかが皮を脱ぐ、あれのこと……?」
「そ、その通りでございます。
お館様は、ジル様には黙っているようにとご命じになりました……ですが、ご心痛のあまり、ジル様がお体を壊されてはと、わたくしの独断で……」
使い魔の言い訳も耳に入った様子もなく、彼女は心から安堵の笑みを浮かべた。
「なーんだ、脱皮してただけなのね!
よかったぁ、そんなことなら、早く言ってよ、タィフィン。
てっきり、治らないくらいひどい病気かと思っちゃったじゃない!」
「……は? あ、あの、ジル様……?」
思いがけない相手の反応に、使い魔の方が驚きを隠せなかった。
ジルは、可愛らしく小首をかしげた。
「……タィフィンってば、どうしてそんなにびっくりしてるの?
だってサマエルは、おっきい白い蛇の姿を持ってるでしょ。
どうやったらあんなに大きくなれるのかな、ってずっと思ってたのよ。
そっかぁ、蛇は脱皮して成長するんだもんね。
この頃、よくぼんやりしてたり、食欲がなかったのもそのせいだったんでしょ?」
使い魔は、ともかくも主人の奥方が取り乱さなかったことに胸をなで下ろしし、急ぎ説明を始めた。
「はい。お館様は千三百年に一度、脱皮をなさり、その前にはいつも、そのようなご様子になります。
ただ、今回は、いつもより百年ほども早く、その時期が来てしまいまして。
お館様も、想定外だとびっくりなさっておいででした。
こんなに急でなければ、前もってジル様にお話することも出来たのに、そう仰って……」
「そっか、時期がずれて、急に始まっちゃったの。それなら仕方ないわね。
えっと、一週間……だったっけ、そしたら戻って来られるんでしょ?」
「はい。脱皮自体は一日程度で終わりますが、ウロコが固くなるまで二日ほど、さらに人型に戻られるのにも数日かかりますので、いつもそれくらいの期間は、地下でお一人で過ごされるのです」
「そう、分かったわ。
あ、ところで、さっきのケガはどうしたの? まさか、サマエルが……?」
「……ええ。ですが、もちろん故意にではございません。
たまたま振り回した尾が、不運にも自分に当たってしまっただけのことでございます。
ですが、毎度、脱皮が始まると神経が苛立たれるようですし、元々白蛇のときには、理性はなくなってしまわれますから……それもあって、ジル様に、地下へは来ないで欲しいと仰られたのでございます。
万が一にも、ジル様を傷つけてしまうようなことがあれば、お館様は、ひどい自責の念に襲われてしまわれるでしょうから」
「そうね、サマエルは優しいもの。
でも、あたしだけ、何も知らないのね……奥さんなのに……」
ジルはうつむいた。
「大丈夫でございますよ。ご夫婦なのですから、これから様々なことを、お話し合いなさればよいのです。
お時間はたっぷりとございます。
ジル様がお尋ねになれば、お館様は包み隠さず、どんなことでもお答えなさると思いますし」
慰めるように使い魔は言った。
「そうね……うん、頑張ってみるわ。ありがとう、タィフィン」
心の重石が取れて、ジルはにっこりした。
安堵したのは、タィフィンも同様だった。
地下にいたときから、この事態を、どう主人の奥方に説明すべきか、自分の傷をふさぐのも忘れるくらい、思い悩んでいたのだから。
主人が彼女を選んで本当によかったと、使い魔は心から思った。
一週間が経った。
朝早く目覚めたジルは、今日こそはという期待を胸に、念話でサマエルに呼びかけてみた。
“サマエル、おはよう。調子はどう? 今日は戻って来れる?”
しかし、残念ながら答えはなかった。
(七日ちょうどだけど、朝とは限らないものね。今日の夜か、それとも、まだちょっとかかるのかも……)
彼女はつぶやき、身支度を済ませた。
サマエルと一緒にいられなくなってから、空腹は感じなくなっていたが、せっかく彼が戻ってくるというのに、やつれた顔は見せられない。
少しでも食事を摂って、元気を出そう。
暗い顔で夫を迎えれば、またサマエルは、自分自身を責めてしまうに決まっていた。
「それにサマエルだって、お腹すいてるに決まってるわね。
そうだわ、何か、美味しくって、力のつく物、作ってあげようっと!」
食堂に向かう途中で思いつき、ジルの足取りは弾む。
「何がいいかな、うんとご馳走作らなきゃね!」
元気よく、彼女はキッチンで料理にかかった。
鼻歌交じりに得意のシチューを鍋一杯作り、かき混ぜるのはタィフィンにまかせて、他にも様々な料理やデザートに腕を
けれど、すべてのごちそうが出来上がり、夜の
「あ、あの、ジル様。その年によって、きっかり七日とは限らないときもございます……。
それですから、まだ数日、かかるかもしれません。
ですが、お館様は、必ずお戻りになりますから……」
使い魔が申し訳なそうに言う。
「そう、仕方ないわ……そんな顔しないで、ね、先に食べましょ。タィフィン」
ジルは無理に笑顔を作り、料理を皿に盛り付ける。
タィフィンが付き合ってくれたものの、七日続いた夫のいない淋しい食事が終わり、眠る時間になると、ジルは胸が締め付けられるような気持ちになるのを抑えられなかった。
「明日かな……うん、きっと明日は会えるわ……」
自分に言い聞かせるようにつぶやき、涙で湿った頬をこすりながら、彼女はベッドに入った。