~紅龍の夢~

番外編 BLUE MOON (1)

※この番外編は、<巻の三>までのネタバレ要素を含みます。

そのため、<巻の三>の最後まで読んだ後に、こちらをお読み下さい。
ジルやサマエル、タナトスの動向が先に分かってしまうと、つまらないと思いますので(笑)。

それと、この話には、サマエルが女装(魔法で女性に変身)する場面があったりしますので、イメージが崩れて嫌、という方は、ご遠慮頂く方がいいかも(いないかな…笑)。


以上、納得された方は引き続きお楽しみ下さい。


人界では存在が幻とされている、ワルプルギス山の頂上にそびえる巨大な樹木の根元で、サマエルとジルが結婚式を挙げてから、はや六年の歳月が経ち、ジルは二十四歳になっていた。
二人はまだ寝室を共にしておらず、子供は生まれてはいなかった。
それでも、ジルはようやく夫を『お師匠様』ではなく、『サマエル』と名前で呼ぶことに慣れてきており、夫婦水入らずの穏やかで心温まる日々を営んでいた。

しかし、そんな平穏な日常にも、危機は音もなく忍び寄りつつあった。
一月ほど前から、サマエルが常にぼんやりとして、自分の方を見てもくれなくなっていることに、ジルは気づいていた。
それでも、彼がそういった態度を取ることは以前からよくあったので、初め彼女も気に留めていなかったのだが、こうも続くとさすがに心配になる。
彼はもう、自分のことを好きでいてくれなくなっているのかも知れない……。
不安が頭をもたげ、彼女はそれを否定しようと、ついつい首を横に振ってしまうのだった。

その日も、起きてからサマエルはずっとぼんやりとして、食堂に来ても、目の前に並んだ湯気の立つ朝食に手もつけず、ただ視線を宙に彷徨(さまよ)わせていた。
ジルは周囲を見回すが、取り立てて注意を引くような物もなく、感覚を研ぎ澄ませて見ても、何の気配も感じられない。

「ねえ、サマエル、どうしたの? この頃変よ。今も……何を見てるの?」
「……ああ、いや、別に何も見ていないよ、ジル……」
放心状態でサマエルが答える。
「そう、ならいいけど。早く食べないと、ご飯が冷めちゃうわよ」
「……済まないが、今はいいよ。ちょっと食欲がないから、後にする……」
そう言って、サマエルは立ち上がった。
「え? 昨夜もそう言って食べなかったじゃない、大丈夫なの?」

思わず立ち上がりかけるジルを、彼は身振りで制した。
「ああ、大した事はないから、気にしないでおくれ。
まだ眠いだけだ、ちょっと部屋で横になってくるから……」
「気にしないでって言われても……昨夜、遅くまで何かやってたの?
──あ、ねぇ!」
呼び止める彼女の声も耳に入った様子はなく、サマエルはそのまま、ふらりと部屋を出ていった。

昼食にも彼は現れなかった。
“……ね、サマエル、起きてる? もうお昼よ”
心配したジルはそっと念話で話しかけてみたが、返事はない。
もう一度声をかけようかと迷っていた時、サマエルの使い魔タィフィンが、申し訳なさそうに告げてきた。
“ジル様、お館様はまだ眠っておられますので……”
“そう。じゃあ、寝かせてあげといた方がいいわね。起きたら教えて”
“かしこまりました”

手持ち無沙汰にジルは一日を過ごし、やがて日が暮れて夕食時になっても、サマエルはやはり部屋から出て来なかった。
“……ね、サマエル、起きてる?
具合が悪くても、何か食べた方がいいんじゃない? おかゆ作ろうか?
おそるおそるジルは呼びかけてみた。

ほっとしたことに、今度は返事が返ってきた。
“いや、おかゆはいらない。大丈夫だよ、ただ食欲がなくて、ちょっと頭がぼうっとしているだけだから。
疲れがたまっているのかな、今晩ぐっすり眠れば、治ると思う……お休み、ジル”
“……そう。じゃ、無理しないで。お休みなさい”
その晩、夫を心配しつつ、ジルは眠りについた。

翌朝、サマエルは起きてきたものの、やはり食事を摂ろうとはしなかった。
「ね、まだ具合悪い?」
「……ああ、いや……」
問い掛けても、サマエルは茫洋(ぼうよう)とした眼差しのまま、ぼんやり返答をするだけだった。

「熱あるんじゃない?」
ジルは彼の額に手を当ててみるが、いつも通りひんやりとしている。
「ないわねぇ……」
「……ああ、何ともない……」
答えを返したものの、サマエルは心ここにあらずといった様子だった。

そして、その日を境に、彼は四六時中ぼんやりと考え事をし、まるでジルが見えていないかのごとく振舞い始めた。

数週間がその調子で過ぎていき、こらえ切れなくなったジルはある日、夫を正面から見つめ、尋ねた。
「ね、サマエル、答えて。あたしのこと、嫌いになっちゃったの?
……それとも、ひょっとして、他に……?
もしそうなら……それでもいいから、あたしに話して。ね? お願い」

彼女がこれほど真剣に尋ねているというのに、サマエルは上の空で、声をかけられたことにすら気づいていないようだった。
「──ねえってば! 聞いてるの、サマエル! あたしを見て、ちゃんと答えてよ!」
たまりかねたジルが、思わず彼の腕をつかんだその時。

「──うああっー!」
いきなりサマエルが胸を押さえ、椅子から転げ落ちたのだ。
「きゃあ、サマエル! どうしたの!?
胸が痛いの!? しっかりして、ああ、どうしよう!」
ジルは、激しく痙攣(けいれん)する夫の体に取りすがった。

「……う、う……ジ、ジル、大、丈夫だ……タ、タィ、フィン……来て、くれ……は、やく」
「わたくしはここに。いかがなさいました、お館様」
どこからか返事が聞こえた。
「ち、地下に……早く、私を、地下に……連れて、行って、くれ……」
サマエルの使い魔タィフィンは常に透明化しているが、余人には見えないその姿が、魔眼には映っているのだろう、彼は虚空(こくう)に向かって手を伸ばした。

「地下? 地下なら、わたしが連れてってあげるわ、サマエル」
手を貸そうとする妻を、サマエルは振り払った。
「さ、触らないでくれ……キミは来るな……は、早く、タィフィン……地下へ……」
「かしこまりました。ジル様、ご心配なく。わたくしがお連れ致します、お部屋でお待ち下さい」

「ジル、キミは、来ては、いけない……絶対、決して、地下には、来ないでくれ……」
念を押すサマエルを、見えない手が抱き起こしたと見るや、彼の姿は消え失せた。
「──あ、サマエル、タィフィン、待って!」
ジルの叫びが、がらんとした部屋に虚しく響いた。

それからどれほど経ったのだろう、いくら待っても、タィフィンもサマエルも一向に戻っては来なかった。
ジルはじっとしていられなくなり、部屋の中を行ったり来たりし始めた。

「……何があったのかしら、サマエル、どうして倒れたの……」
彼女は、自分が独り言を言っていることにも気づいていなかった。
「最近、サマエルはずっと変だったわ、いつもぼんやりしてて、食欲もなくて……。
まさか、病気……? ううん、サマエルは前に、人族の病気には(かか)らないって……あ、そういえば!」
彼女は掌を打ち合わせた。

免疫力が高い魔族は、人界の病気にはほとんどの場合罹患(りかん)しないが、以前、この地方で、魔族と人族両方が罹る珍しい病気が流行したことがあった。
ワルプルギス山のふもとの村にも病人が出たため、村長に頼み込まれて、サマエルが薬を作った。
それを思い出したのだ。

「そうよ、あの薬、ちょっと残ってたっ!」
ジルは息せき切って、薬部屋に駆け込んだ。
きちんと束ねて積み上げられた乾燥させた薬草や、様々な薬の匂いが交じり合う中を、ジルは棚の一つに突進する。

「そう、たしか、この辺に置いたのよね。
……えっと……これじゃない、これでもない、これも違うわ……!」
ずらりと並んだガラス瓶を、がちゃつかせながら捜すものの、一向に目的の物は見つからない。
「──もう、肝心な時に、どこに行っちゃったの!?」
苛立ちのあまり、ジルは眼に涙を浮かべ、華奢な足を踏み鳴らした。

「……焦っちゃ駄目よ。落ち着かなきゃ、見つかる物も見つからないでしょ。
そう、大きく息を吸って、吐いて……あ──あったわ、これよ!」
気を落ち着かせたお陰か、倒れて他の薬の陰になっていた瓶をようやく見つけ出すことができ、彼女は顔を輝やかせた。
記憶にあった通り、薬瓶には少しだけ、美しい青色の液体が残っている。
「……こんなちょっとで足りるかしら……そっか、とりあえずサマエルに飲ませて、足りなかったら、また作ればいいのよ、調合の仕方はノートに書いておいたはずだし!」

小さな瓶をしっかりと握り締め、ジルは地下に行くため呪文を唱えた。
「──ムーヴ!」
しかし、いつもならすぐに作動するはずの移動魔法は、なぜか反応しなかった。
「……あれ? どうしたのかしら。
──ムーヴ!」
もう一度試してみるが、やはり魔法は働かない。

「まるで、あの時みたい。さらわれて……あの時も一人ぼっちだったっけ。
いくら唱えても、魔法が全然うまく使えなくて……」
彼女が思わず身震いした時、聞き覚えのある念話が聞こえて来た。
“ジル様、申し訳ございません、お館さまのご命令で、結界を張っております。
ただ今、地下への移動はできかねます”

“タィフィンね? サマエルは病気なんでしょ? ほら、前に村で流行ったやつ。
お薬なら、まだ少しあったわ、今見つけて、持って行こうとしてたのよ。
あたしに伝染(うつ)るのが心配なら、魔法でお薬だけ送るから、結界を解いて”
意気込んで言ったのに、使い魔からは、否定の念が戻って来た。
“いえ、お薬は不要です。お館様はご病気ではございません、ご心配は無用でございます”

“……病気じゃないって? じゃあ、どうして倒れたの?
その前から、ずっと様子が変だったのよ”
ジルが食い下がると、タィフィンは口ごもった。
“……それは……お話しますと長くなりますので……”
“え、そうなの? じゃあ、こっちに来て話して……あ、でも、サマエルを一人にしておくのも心配ね”

“いえ、お館様が落ち着かれましたら、もうお一人にして差し上げても大丈夫です。
もう少々お待ち頂ければ、そちらに戻ってご説明を……あ、お、お館様!
──ぎゃあっ!”
悲鳴と共に、突然使い魔の心の声は途切れ、ジルはぎょっとした。
“──タィフィン!? タィフィン、どうしたの!?
ねえ、サマエルは大丈夫なの!? タィフィンってば!”
いくら呼んでも、使い魔からの返事はなかった。

「──ムーヴ!」
もう一度呪文を唱えてみたものの、地下に張られた結界は、思いの外に強力で、やはり移動はできなかった。
体の力が抜け、彼女は床に座り込んでしまった。
「一体どうなっちゃってるの……ねぇ、タィフィン……サマエル……」
手で顔を覆う。
栗色の眼から、ついに大粒の涙がこぼれ落ち始めた。

茫洋(ぼうよう)

広々として限りのないさま。広くて見当のつかないさま。