「──オルゴン!」
強力な賢者の力が注ぎ込まれると、セエレの心臓は再び鼓動を始め、蒼白だった頬にも、みるみる血の気が戻っていく。
「危ないところだったが、どうにか間に合ったな。
魔力を封じられ、しかもこんな弱った体で私の術を解くとは。
……素晴らしい潜在能力だが、無理し過ぎだぞ、セエレ」
意識のない少年にささやきかけ、サマエルは乱れた髪を優しく整えてやる。
「彼を頼む。もう少し魔力の補給が必要だ」
「おお……ありがとうございます、お任せを」
ネスターは安堵の息を吐く。セエレの呼吸は、徐々に落ち着いてきていた。
それからサマエルは、つかつかとアルナに歩み寄っていった。
「な……なによ!」
黒髪の女性は、憎々しげに賢者を見上げた。
「落ち着きなさい、アルナ。そして、あの子をよくご覧」
サマエルは、ぐったりとしているセエレの方に、ゆっくりと手を振って見せた。
「ひどくやつれているだろう? 体重も、十五、六歳とはとても思えない軽さだよ。
彼はこの一年半、スリなどをして、どうにか生き延びてきたのだ。
いけないことと知りつつも、人間不信に陥った彼は誰にも頼らず、独りで生きていく気だったらしい。
それほど彼の、大人に対する不信感はひどいものだったのだな。
しかしだ、『学院で泥棒扱いされるまでは、盗みなど、したこともない』と断言していたよ。
そのときのセエレの澄んだ瞳は、彼が無実であることを雄弁に物語っていた……。
“禁呪の書”の件がなくとも、濡れ衣を晴らしてやりたいと思わせるには十分過ぎるほどに」
「………!」
狂気に覆われたアルナの暗い瞳が、一瞬ひるんだ。
賢者は淡々と続けた。
「そして、こういう境遇に陥ったのはキミのせいだと知った今、キミを憎んだとしても何の不思議もない。
なのに、セエレはキミを助け、自分は危うく命を落とすところだったのだ。
……こういう子を見ても、まだ復讐にこだわるのかな?」
闇色の瞳が揺らぐ。
それでも、彼女は過去の思いにしがみつくように叫んだ。
「セ、セエレなんか関係ないわ! 助けて欲しいなんて、頼んでない!
何で、そんなに他人のこと、気にかけるのよ! バカじゃないの、あんたら!」
そこでサマエルは畳みかけた。
「ならば、もし彼らを倒さなければ、どうなっていたと思う?
人間はすべて奴隷にされるか、殺されるか……あるいは、生きたまま食われていたかも知れないのだよ。
魔物の中には、好んで人間を食料とする者もいるからね」
アルナは激しく首を振った。
「──違う! 父様は優しかったわ!」
「自分の妻と娘には優しかったのだろう。
しかし、王宮の人々はほとんどが殺され、人質となった王姉殿下も負傷した」
「ち、違うわ、父様がそんなことするわけ……」
彼女は唇を震わせたが、賢者は強い口調になった。
「ライラ殿下はシャックスに傷つけられ、殺されかけたのだ! この私の目の前で!
今は女王となられたあの方に会えば、私の言葉が嘘でないとわかるだろう!」
「……う……」
反論できなくなり、彼女がうつむくと、サマエルは言い方を和らげた。
「キミはもしや、魔物の血を引くことを恥じているのではないかな?」
「ち、違うわ! わ、わたし……」
「アンドラス王の一件以降、ファイディーのみならず人界では、魔物は完全に“悪”とされてしまった。
キミはその劣等感を、復讐という感情で必死に覆い隠してきたのだろう?」
「だって……だって、」
アルナの口調が幼い少女のようになり、漆黒の瞳が涙でうるむ。
「独りぼっちのわたしには、それしかなかったのよ……仇討ちしか!」
そんな彼女に注がれる、賢者の眼差しは優しかった。
「よく分かるよ、アルナ。だが、恥じたりしてはいけないな。
魔物は怪物などではなく、“魔族”という、人間とは別の種族なのだ。
それゆえ、すべてが悪とは限らないし、人族とも共存していける、このダイアデムのようにね。
その上、憎しみは憎しみを呼ぶだけだ。復讐を果たしても、死んだ者は帰って来ない、父上も喜ばないよ。
……本当はもう、自分でも分かっているのだろう?」
「やめるわ、もうやめる……やめればいいんでしょっ!」
賢者の語りは心に染み入るようで、黒い瞳から大粒の涙があふれ、アルナはついに顔を覆った。
その
「……ふう、さーすがサマエル。女の扱いにゃ慣れてんなー。
おい、ネスター、ぼけっとしてねーで医者呼べよ」
「そ、そうでしたな」
学院長は、急ぎ魔法医を呼び出す。
「セエレ、ご免なさい。許して」
気を失ったまま医務室へ運ばれていく少年を眼で追い、アルナは震え声で謝った。
「大丈夫だよ。少し養生すれば元気になる。
ところで、キミの処遇だが」
サマエルが声をかけると、一瞬身を震わせたが、彼女は気丈に答えた。
「わたし、愚かでした。どんな罰でも受ける覚悟でおります」
「賢者殿、女王陛下に彼女の罪の減免を……」
言いかけるネスターをサマエルは制した。
「いや、陛下は、もうあの件は思い出したくないだろう。
彼女のことは私に任せて欲しい」
「おお、そうして頂けるなら、ありがたい限りです」
学院長は、心からほっとしたように言った。
サマエルはアルナに向き直った。
「というわけで、私がキミの身柄を引き受ける、いいね」
「はい、賢者様。よろしくお願いします」
アルナは深々と頭を下げた。
サマエルは使い魔に、彼女を自分の屋敷に転移させた。
すべてが済むと、ネスターは賢者と連れに椅子を勧め、自分も、どっかりと座り込んだ。
指を鳴らして使い魔を呼び、飲み物を振舞わせる。
グラスを一息にあおって、彼は深く息をついた。
「考えてみますと、アルナもまた、あの事件の被害者とも言えますな。
立ち直ってくれればいいのですが……」
賢者はうなずいた。
「そうだな。彼女には、私の屋敷近くにある小さな村で、教師をやらせてみようと思っている。
村人は皆、穏やかで、しかも、彼女と同じ……人族と魔族の混血児も何人かいるのだよ。
そこなら素性を隠す必要はないし、生きる目標ができれば、心の傷も癒えるだろう」
「おお、それは願ってもない。
彼女は、セエレ以外の生徒達にも慕われておりました。きっと、いい教師になれるはずです。
よろしくお計らい、お願い致します」
学院長は明るい顔になり、こうべを垂れた。
「彼女はまだ若いから、やり直しはいくらでもきく。
それからセエレには、キミの力は素晴らしい、これにめげず頑張れと伝えてくれないか」
「はい。賢者殿にそう言っていただければ、励みになることでしょう。
今回のことでは、幾度お礼を申し上げても足りません。
あなたとセエレが、もし会わなかったらと思いますと、ぞっとします……」
「そう、彼なら、いずれ自力で封印を解いていただろうな。
だが、それにはリスクが伴う。
力を使い果たして死ぬか、廃人……もっともまずいのは、命を取り留め、しかも魔力を失わずにいた場合だ。
そうなったら、彼は……アルナ同様、復讐鬼と化し、お前や学院の教師の命を奪おうとしたかも知れない。
ネスター、他人の人生を左右するような決定は、くれぐれも慎重にすることだ」
そう話すサマエルの紅い瞳には、何とも形容しがたい揺らめきが宿っていた。
学院長は青い顔でうなずく。
「……はい、肝に銘じます」
その時、それまで暇そうに足をぶらぶらさせていたダイアデムが、不意につぶやいた。
「ホント、ヤツって見かけに寄らず、執念深そーだもんな。誰かに似て」
「は?」
ネスターが面食らったような顔をすると、紅毛の少年は慌てて首を横に振った。
「あ、いや、こっちの話だ。
それよかセエレに、オレが謝ってたって言っといてくれよ。
とばっちり食わせて悪かったなって。一発だけなら、殴らせてやるからって……。
アルナにゃ、も一回ちゃんと謝って、気がすむまで殴ってくれって言うつもりなんだけどさ」
ネスターは、思わず紅毛の少年を見つめた。
この小柄な魔物が、ファイディー国を救ってくれた、真の救世主だったとは。
彼は紅い瞳を覗き込み、その中に踊る、禍々しいと同時に不思議と優しい金色の炎に、外見にはそぐわぬ深い
以前は、賢者が、魔物を対等に扱う理由が理解できなかった。
怪物や化け物など、使い魔として使役する以外に何の価値があるのかと。
今日、ネスターは眼からウロコが落ちた気がして、自分を恥じていた。
「ええ……ダイアデム殿でしたな、いや、あなたは何も悪くありませんよ。
すべてわたしの失態なのですから。
しかし、あなたこそ真の救国の英雄だったのですな。
今までのご無礼をお許し下さい、そして、改めてありがとうございました」
学院長に深々と頭を下げられて、ダイアデムは、居心地が悪そうに手を振り回した。
「や、やめろよ、背中が
オレはただ、むっか~し、ファイディー王家の先祖のコとした約束、守っただけなんだからよ。
なぁ、サマエル」
「そうは言っても、私が英雄扱いされるのは心苦しいよ。
この際、他の人達にも、本当のことを教えておくべきだと思うのだが……」
「いらねーって。人間にやたらペコペコされんのって、うぜーんだよ。
ま、色々あって面白かったぜ、気がすんだし、もー帰ろー、ウチに」
「そう……。では、帰るとしようか」
紅毛の少年を見つめる賢者の眼は、なぜか、ひどく悲しげだった。
「ぜひまた、おそろいでお越し下さい、お待ち申し上げております」
ネスターは、またもや深く礼をした。
「ああ、来てやるよ、じゃーな」
「さらばだ、ネスター。
──ムーヴ!」
学院長が顔を上げたときには、賢者サマエルと魔界の貴族、ダイアデムの姿は、もうどこにもなかった。
THE END.