ひどくゆっくりと時間が過ぎていくように感じられ、セエレが爪を噛み始めた時、ようやくノックの音がし、ばっと彼は顔を上げた。
皆にうなずいて見せ、ネスターが返事をする。
「どうぞ」
「失礼します、学院長」
歯切れのよい声と共に入室してきたのは、教師用が着用する灰色のローブをまとった女性だった。
象牙色の肌と短い黒髪、明るい栗色の瞳をし、生徒とさほど年が変わらないのではないかと思えるほど若い。
「ふーん、まあまあだな」
レグナムがこっそり評したのを耳にしたセエレは顔をしかめ、彼をひじで小突いた。
「バカ、静かにしてろよ」
「へへー」
金髪の少年はぺろりと舌を出す。
「ああ、シンシア先生。手数をおかけして済みませんな。
話の前に、まずは、賢者サマエル殿を紹介しておきましょう。セエレを連れて来て下さったのですよ」
ネスターは彼女に、自分の隣にいる黒衣の男性を引き合わせた。
女教師は眼を丸くした。
「まあ、そちらの方が、かの伝説の賢者、サマエル様なのですか!?」
「左様。
サマエル殿、こちらがシンシア先生。お若いですが、なかなか優秀な方ですぞ」
「そうですか。初めまして、シンシア先生。お手を拝借してよろしいですか?」
サマエルは一歩進み出、軽く
「は、はい……あ、あの、サマエル様、初めまし……て」
優雅な仕草で手を取られた教師は、どぎまぎして頬を赤らめ、賢者が甲にキスする間も、彼の整った顔から眼を離せない様子だった。
それも無理はなかった。
伝説として語り継がれてはいたものの、サマエルは滅多に人前に姿を現さず、存在を疑問視されることすらあったのだ。
その伝説の賢者が、目の前にいるだけでも驚きなのに、相手は年齢にそぐわぬ若さと、さらに、女性と見紛うほどの美貌を兼ね備えていたのだから。
「ところで、シンシア先生。
セーグル先生からお聞き及びのことと思いますが、このセエレを学院に戻してはどうかと思いましてな」
その言葉に、女教師は夢から覚めたような顔でネスターを見た。
「あ……え、ええ……そうでしたわね、はい、聞きましたわ」
「身元保証人には私がなります。身寄りがない彼を冷たく放り出したりせず、手元に置いて反省をさせ、
サマエルは、セーグルに言ったのと同じ話を繰り返した。
「そう……ですわね、賢者様がそう仰るなら……」
女教師は、まだ少しぼうっとしたように同意する。
「では、シンシア先生にもご賛同頂けるということで、よろしいですな」
すかさずネスターが念を押すと、彼女は大きくうなずいた。
「ええ、学院長、わたしに異存はございませんわ」
それから彼女は、セエレに声をかけた。
「セエレ、今度は頑張るのよ。でもあなた、随分やせてしまったわね、大丈夫なの?」
「平気です、一生懸命やります」
彼は話を合わせ、頭を下げた。
「そう。でもあんまり無理しちゃ駄目よ」
女教師は彼の肩をぽんとたたく。
「はい」
「話はこれで終わりですが……」
言いかけてネスターは、ちらりと賢者に視線を走らせた。
サマエルはうなずいた。
「あと一つ、お尋ねしたいことがあるのですが、よろしいですか」
「は、はい、なんでしょう、サマエル様」
シンシアは再び、顔を赤らめた。
「この鏡に映っている女性を、ご存知ないでしょうか?」
サマエルが差し出したのは、“真実の鏡”の贋物だった。
「まあ、これは……ウェリタース!?」
女教師は眼を見張った。
「いえ、違いますが、そっくりでしょう?
これほどの物を創ることができるとなると、相当力がある方とお見受けしますので、ぜひともお会いしたいと探しているのですよ」
「学院の教師なのですか?」
「それは分かりません。いらっしゃればいいとは思っていますが」
シンシアは鏡を受け取り、歪んだ画像に眼を
「いえ、残念ですが……」
「そうですか。お手間を取らせました。
ああ、それから、この鏡のことと、私が来ているということは、他の先生方にはどうぞご内密に。
皆さんを驚かせたいのでね」
サマエルは片目をつぶって見せた。
彼女の頬にまたも朱が散った。
「わ、分かりましたわ……」
「では、もうお戻りになって結構ですよ、シンシア先生。次の先生に来て頂いて下さい」
「……はい、では失礼致します、サマエル様……学院長」
名残惜しげに一礼して、女教師は出ていく。
ドアが彼女の後ろで閉まった途端、レグナムが口を開いた。
「ありゃ白だな。匂いも違うし、思いっきしサマエルに見とれてたしよ」
「たしかにね。念のため直接触れてみたが、鏡に残っていた“気”とはまったく違っていた。
彼女は犯人ではない」
サマエルも賛意を示す。
ネスターは、ほっとしたように
「左様ですか。それはよかった」
「お次は、どんなねーちゃんかな。さっきのもなかなかだったけど、もーっとべっぴんだといいなー」
「おい、ふざけるなよ」
呑気に言ってのけるレグナムが、少々セエレは腹立たしかった。
「いーじゃん、なんだって楽しくやった方がいーだろ、石頭」
レグナムは口をとがらせた。
次の教師、その次とも同様のやり取りをし、本人は何も知らぬ間に、潔白と判断されて帰された。
そして四人目。
サマエルは、四度目などとはおくびにも出さず、“真実の鏡”の贋物を取り出し、見せた。
「セレネ先生、実はですね、この女性を探しているのですが、見覚えはないでしょうか?」
「あら、ウェリタースではないですか」
この女教師もやはり、前三人と同じく顔を紅くしていた。
「いえ、そっくりですが、違うのですよ。
これほどの物を創る方となると、相当な力があるとお見受けしますので、ぜひともお会いしたく、ずっと探しているのですが、なかなか……」
「まあ、そうでしたの。でも、よく見えませんわね」
セレネは首をかしげた。
また駄目かと皆が半ば諦めかけたとき、彼女が口を開いた。
「そうですわねぇ……強いて言えば、どことなくアルナ先生に似ているような……」
「なんですと?」
眉間にしわを寄せ、学院長は急ぎ鏡を覗き込んだ。
「おお、では、ようやく探し出せたのかも知れませんね。次は、その先生にいらして頂くことにしましょう。
それから一つ、お願いがあるのですが。この鏡と私のことは、まだ内密にしていて頂きたいのですよ。
驚かせたいので、お呼びした先生方には皆、そうして頂いたのです」
サマエルが、美しい顔に極上の笑みを浮かべると、セレネはまた頬を染めた。
「……道理で、前に呼ばれた先生方が、うきうきしておいでだったわけですのね。
承知しました、アルナ先生にも内緒にしておきますわ」
「よろしくお願いしますよ、セレネ先生」
女教師が去ると、サマエルは真顔になり、学院長に尋ねた。
「アルナというのは、どんな教師なのだね、ネスター?」
「左様ですな……彼女も若いのに優秀で、それにまた、よく遅くまで一人、残っています。
研究熱心なだけかもしれないのですが……」
またも鏡を凝視していたネスターが言った。
「へー、超怪しいじゃん。そいつで決まりだな」
レグナムが、元気よく言った。
セエレは顔色を変えた。
「まさかアルナ先生が? そんなわけない、とってもいい先生なんだ!」
「そーゆーのが、いっちゃん危ねーんだよ」
金髪の少年は首を振った。
「だけど!」
「落ち着きなさい、セエレ。そうムキにならずとも、調べれば分かることだ」
学院長は彼をたしなめた。
「ともかく、念には念を入れよう。
私達は最初隠れていて、教師が来たら、逃げられないよう部屋に結界を張る。
その後で出て来るから、うまくやってくれ、ネスター、セエレ」
サマエルは言い、レグナムと共に姿を消す。
気をもみながらセエレが待っていると、ほどなくドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼します」
落ち着いた声が聞こえ、長い黒髪を後ろで三つ編みにした、若い女性が部屋に入ってきた。
こちらもやはり教師用の灰色のローブを着、さほど美人ではないが、その黒い瞳は大きく、
「学院長、お呼びでしょうか?」
「ああ、アルナ先生。お聞き及びの通り、このセエレを学院に戻すことにしたいのですよ。
一年半も経ち、よく反省もしたようですしね。先生はどうお考えですかな?」
ネスターがそう問いかけると、女教師の顔が輝いた。
「もちろん賛成しますわ! よかったわね、セエレ。わたし、ずっと気にかかっていたのよ」
その表情は偽りとは思えない。セエレは安堵し、笑顔になった。
「うん、先生、ありがとう!」
そのときだった。不意に周囲の空気が変化したかと思うと、部屋の中央に黒衣の男が現れたのだ。
「──!?」
アルナは鋭く息をのんだ。
「先生、びっくりした? それもみんな、賢者様のお陰なんだよ」
「え!? この人が……あの、サマエルなの!?」
女教師の顔から血の気が引く。
「ご紹介が遅れましたな。こちら、賢者サマエル殿です。彼を連れて来て下さったのですよ。
賢者殿、こちらはアルナ先生です」
何食わぬ顔で、学院長は二人を引き合わせた。
「初めまして、アルナ先生。ちょっと席を外しておりまして、失礼しました」
サマエルは、にこやかに手を差し出した。
「あ……、どうも、こ、光栄ですわ」
彼の口づけを受けるアルナの手は汗ばんで、かすかに震えていた。
「旅の途中でセエレに会い、口添えをしに来たのですよ。彼は、正直ないい子ですからね」
「ええ、そうですわね」
賢者を見返す黒髪の教師の瞳が、暗く光る。
刺すような視線。その闇色の輝きをどこかで見た気がして、彼は尋ねた。
「……あなたと、前にどこかで会わなかったですか」
「いいえ、お会いするのは初めてですわ」
アルナがそう答えたとき、先ほどから彼女を凝視していたレグナムが、ぽんと手を打った。
「あー、そっか、なんか見覚えあると思ったら、“あいつ”とおんなじ眼をしてるじゃん。
──お前、ヤツの何?」
いきなり指差された女性教師の瞳に、抑え切れない動揺が走る。