~紅龍の夢~

番外編 魔法学院に潜むもの (7)

ひどくゆっくりと時間が過ぎていくように感じられ、セエレが爪を噛み始めた時、ようやくノックの音がし、ばっと彼は顔を上げた。
皆にうなずいて見せ、ネスターが返事をする。
「どうぞ」
「失礼します、学院長」
歯切れのよい声と共に入室してきたのは、教師用が着用する灰色のローブをまとった女性だった。
象牙色の肌と短い黒髪、明るい栗色の瞳をし、生徒とさほど年が変わらないのではないかと思えるほど若い。

「ふーん、まあまあだな」
レグナムがこっそり評したのを耳にしたセエレは顔をしかめ、彼をひじで小突いた。
「バカ、静かにしてろよ」
「へへー」
金髪の少年はぺろりと舌を出す。

「ああ、シンシア先生。手数をおかけして済みませんな。
話の前に、まずは、賢者サマエル殿を紹介しておきましょう。セエレを連れて来て下さったのですよ」
ネスターは彼女に、自分の隣にいる黒衣の男性を引き合わせた。
女教師は眼を丸くした。
「まあ、そちらの方が、かの伝説の賢者、サマエル様なのですか!?」

「左様。
サマエル殿、こちらがシンシア先生。お若いですが、なかなか優秀な方ですぞ」
「そうですか。初めまして、シンシア先生。お手を拝借してよろしいですか?」
サマエルは一歩進み出、軽く会釈(えしゃく)した。
「は、はい……あ、あの、サマエル様、初めまし……て」
優雅な仕草で手を取られた教師は、どぎまぎして頬を赤らめ、賢者が甲にキスする間も、彼の整った顔から眼を離せない様子だった。

それも無理はなかった。
伝説として語り継がれてはいたものの、サマエルは滅多に人前に姿を現さず、存在を疑問視されることすらあったのだ。
その伝説の賢者が、目の前にいるだけでも驚きなのに、相手は年齢にそぐわぬ若さと、さらに、女性と見紛うほどの美貌を兼ね備えていたのだから。

「ところで、シンシア先生。
セーグル先生からお聞き及びのことと思いますが、このセエレを学院に戻してはどうかと思いましてな」
その言葉に、女教師は夢から覚めたような顔でネスターを見た。
「あ……え、ええ……そうでしたわね、はい、聞きましたわ」
「身元保証人には私がなります。身寄りがない彼を冷たく放り出したりせず、手元に置いて反省をさせ、矯正(きょうせい)するのも教育ではないでしょうか」
サマエルは、セーグルに言ったのと同じ話を繰り返した。

「そう……ですわね、賢者様がそう仰るなら……」
女教師は、まだ少しぼうっとしたように同意する。
「では、シンシア先生にもご賛同頂けるということで、よろしいですな」
すかさずネスターが念を押すと、彼女は大きくうなずいた。
「ええ、学院長、わたしに異存はございませんわ」

それから彼女は、セエレに声をかけた。
「セエレ、今度は頑張るのよ。でもあなた、随分やせてしまったわね、大丈夫なの?」
「平気です、一生懸命やります」
彼は話を合わせ、頭を下げた。
「そう。でもあんまり無理しちゃ駄目よ」
女教師は彼の肩をぽんとたたく。
「はい」

「話はこれで終わりですが……」
言いかけてネスターは、ちらりと賢者に視線を走らせた。
サマエルはうなずいた。
「あと一つ、お尋ねしたいことがあるのですが、よろしいですか」
「は、はい、なんでしょう、サマエル様」
シンシアは再び、顔を赤らめた。

「この鏡に映っている女性を、ご存知ないでしょうか?」
サマエルが差し出したのは、“真実の鏡”の贋物だった。
「まあ、これは……ウェリタース!?」
女教師は眼を見張った。

「いえ、違いますが、そっくりでしょう?
これほどの物を創ることができるとなると、相当力がある方とお見受けしますので、ぜひともお会いしたいと探しているのですよ」
「学院の教師なのですか?」
「それは分かりません。いらっしゃればいいとは思っていますが」

シンシアは鏡を受け取り、歪んだ画像に眼を()らしていたが、やがて否定の身振りをした。
「いえ、残念ですが……」
「そうですか。お手間を取らせました。
ああ、それから、この鏡のことと、私が来ているということは、他の先生方にはどうぞご内密に。
皆さんを驚かせたいのでね」
サマエルは片目をつぶって見せた。

彼女の頬にまたも朱が散った。
「わ、分かりましたわ……」
「では、もうお戻りになって結構ですよ、シンシア先生。次の先生に来て頂いて下さい」
「……はい、では失礼致します、サマエル様……学院長」
名残惜しげに一礼して、女教師は出ていく。

ドアが彼女の後ろで閉まった途端、レグナムが口を開いた。
「ありゃ白だな。匂いも違うし、思いっきしサマエルに見とれてたしよ」
「たしかにね。念のため直接触れてみたが、鏡に残っていた“気”とはまったく違っていた。
彼女は犯人ではない」
サマエルも賛意を示す。
ネスターは、ほっとしたように相槌(あいづち)を打った。
「左様ですか。それはよかった」

「お次は、どんなねーちゃんかな。さっきのもなかなかだったけど、もーっとべっぴんだといいなー」
「おい、ふざけるなよ」
呑気に言ってのけるレグナムが、少々セエレは腹立たしかった。
「いーじゃん、なんだって楽しくやった方がいーだろ、石頭」
レグナムは口をとがらせた。

次の教師、その次とも同様のやり取りをし、本人は何も知らぬ間に、潔白と判断されて帰された。
そして四人目。
サマエルは、四度目などとはおくびにも出さず、“真実の鏡”の贋物を取り出し、見せた。
「セレネ先生、実はですね、この女性を探しているのですが、見覚えはないでしょうか?」
「あら、ウェリタースではないですか」
この女教師もやはり、前三人と同じく顔を紅くしていた。

「いえ、そっくりですが、違うのですよ。
これほどの物を創る方となると、相当な力があるとお見受けしますので、ぜひともお会いしたく、ずっと探しているのですが、なかなか……」
「まあ、そうでしたの。でも、よく見えませんわね」
セレネは首をかしげた。

また駄目かと皆が半ば諦めかけたとき、彼女が口を開いた。
「そうですわねぇ……強いて言えば、どことなくアルナ先生に似ているような……」
「なんですと?」
眉間にしわを寄せ、学院長は急ぎ鏡を覗き込んだ。

「おお、では、ようやく探し出せたのかも知れませんね。次は、その先生にいらして頂くことにしましょう。
それから一つ、お願いがあるのですが。この鏡と私のことは、まだ内密にしていて頂きたいのですよ。
驚かせたいので、お呼びした先生方には皆、そうして頂いたのです」
サマエルが、美しい顔に極上の笑みを浮かべると、セレネはまた頬を染めた。
「……道理で、前に呼ばれた先生方が、うきうきしておいでだったわけですのね。
承知しました、アルナ先生にも内緒にしておきますわ」
「よろしくお願いしますよ、セレネ先生」

女教師が去ると、サマエルは真顔になり、学院長に尋ねた。
「アルナというのは、どんな教師なのだね、ネスター?」
「左様ですな……彼女も若いのに優秀で、それにまた、よく遅くまで一人、残っています。
研究熱心なだけかもしれないのですが……」
またも鏡を凝視していたネスターが言った。
「へー、超怪しいじゃん。そいつで決まりだな」
レグナムが、元気よく言った。

セエレは顔色を変えた。
「まさかアルナ先生が? そんなわけない、とってもいい先生なんだ!」
「そーゆーのが、いっちゃん危ねーんだよ」
金髪の少年は首を振った。
「だけど!」

「落ち着きなさい、セエレ。そうムキにならずとも、調べれば分かることだ」
学院長は彼をたしなめた。
「ともかく、念には念を入れよう。
私達は最初隠れていて、教師が来たら、逃げられないよう部屋に結界を張る。
その後で出て来るから、うまくやってくれ、ネスター、セエレ」
サマエルは言い、レグナムと共に姿を消す。

気をもみながらセエレが待っていると、ほどなくドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼します」
落ち着いた声が聞こえ、長い黒髪を後ろで三つ編みにした、若い女性が部屋に入ってきた。
こちらもやはり教師用の灰色のローブを着、さほど美人ではないが、その黒い瞳は大きく、愛嬌(あいきょう)のある顔立ちをしている。

「学院長、お呼びでしょうか?」
「ああ、アルナ先生。お聞き及びの通り、このセエレを学院に戻すことにしたいのですよ。
一年半も経ち、よく反省もしたようですしね。先生はどうお考えですかな?」
ネスターがそう問いかけると、女教師の顔が輝いた。
「もちろん賛成しますわ! よかったわね、セエレ。わたし、ずっと気にかかっていたのよ」
その表情は偽りとは思えない。セエレは安堵し、笑顔になった。
「うん、先生、ありがとう!」

そのときだった。不意に周囲の空気が変化したかと思うと、部屋の中央に黒衣の男が現れたのだ。
「──!?」
アルナは鋭く息をのんだ。
「先生、びっくりした? それもみんな、賢者様のお陰なんだよ」
「え!? この人が……あの、サマエルなの!?」
女教師の顔から血の気が引く。

「ご紹介が遅れましたな。こちら、賢者サマエル殿です。彼を連れて来て下さったのですよ。
賢者殿、こちらはアルナ先生です」
何食わぬ顔で、学院長は二人を引き合わせた。
「初めまして、アルナ先生。ちょっと席を外しておりまして、失礼しました」
サマエルは、にこやかに手を差し出した。
「あ……、どうも、こ、光栄ですわ」
彼の口づけを受けるアルナの手は汗ばんで、かすかに震えていた。

「旅の途中でセエレに会い、口添えをしに来たのですよ。彼は、正直ないい子ですからね」
「ええ、そうですわね」
賢者を見返す黒髪の教師の瞳が、暗く光る。
刺すような視線。その闇色の輝きをどこかで見た気がして、彼は尋ねた。
「……あなたと、前にどこかで会わなかったですか」
「いいえ、お会いするのは初めてですわ」

アルナがそう答えたとき、先ほどから彼女を凝視していたレグナムが、ぽんと手を打った。
「あー、そっか、なんか見覚えあると思ったら、“あいつ”とおんなじ眼をしてるじゃん。
──お前、ヤツの何?」
いきなり指差された女性教師の瞳に、抑え切れない動揺が走る。