しかし。
「これこれ、くすぐったいよ、イムザク」
「よ~しよし、そんなにうれしいか。分かった分かった、落ち着けって、イムザク」
セエレの耳に聞こえてきたのは、引き裂かれ、食われていく魔法使い達の断末魔の叫びなどではなく、笑いを含んだ楽しげな声だった。
「え……?」
急いで顔を上げた少年は、自分の眼を疑った。
怪物は二人を襲うどころか、まるで久しぶりに主人と会った飼い犬でもあるかのように、彼らを猛烈に歓迎していたのだ。
そしてロティオンとレグナムは、ペットが全身で表す喜びに苦笑しながらも、付き合ってやっている飼い主、といった
「あ──あれ? なん──で?
そいつにはもう、かなりの数の泥棒が食われちまってるって聞かされてたのに!
……まさか、生徒が遅くまで居残らないようにって、先生達が口裏合わせてでっち上げた、作り話だったのか……?」
彼が頭をひねっている間にも、魔法使い達はまったく恐れる様子もなく、怪物と親しげにたわむれていた。
「では、そろそろ私達は行くからね、イムザク」
「んじゃー、まったなー、元気でいろよー」
束の間、飼い犬ならぬ飼いモンスターとの触れ合いを楽しんだ後、彼らは優しく魔物の頭をなでて、別れを告げた。
イムザクと呼ばれた魔物は、名残惜しげに二人の後をついて来る。
「──こら、ついて来るんじゃねー、イムザク! てめーは、ここで大人しく番してなきゃダメだろ!」
レグナムがたしなめる。
しかし巨大な怪物は身もだえし、悲しげに声なき叫びを上げた。
「また来るよ、これが約束の印」
ロティオンが触手の一本に軽く口づける。
途端にイムザクは動きを止め、その場にうずくまった。
小山のような魔物を見上げ、ぽかんと開けた口を閉じることもできないまま、セエレは思った。
(……よく、こんなのにキスできるよな……でも、こいつ、なんかうっとりしてるみたい……?)
無数の触手が、さざなみのように細かく揺れ、眠りを誘うように息づいている。
「──セエレ! どうしたのだね、早くおいで、行くよ!」
遠くから響くいてくるロティオンの声に、少年は我に返った。
いつの間にか魔法使い達は、かなり先まで進んでいた。
「──あっ、お、置いてかないでくれよぉー!」
(入学当初から先生達は、あいつのことを、“決して人には馴れない怪物”って言ってた。
食われたくなかったら、絶対、夜は学院に残ってちゃいけないって。
なのに彼らは、それをどうやって手なずけたんだ……?
……いや、それより、なんで名前まで知ってるんだろう、俺ら生徒だって知らないのに……?)
疑問は頭の中で山のようにふくらんでいくものの、それを尋ねるヒマもなく、彼はひたすら、謎の二人に追いすがった。
そのまま魔法使い達は、まったく迷うそぶりも見せず、風のように魔法学院の奥へと歩み入って行く。
長い廊下をいくつも抜け、数々の角を曲がり、さらにたくさんの階段をも昇り降りし、迷路のような学院内を巡って、ようやく彼らは目的地に着いた。
「すごい、もう学院長室だ。生徒だって、迷うヤツがいっぱいいるのに!
……なぁ、どうして、こんなに色々知ってるんだ? まるで来たことが──わ、ヤバイ!」
「む、お前達、何者だ! 名乗れ!」
やっと一息つけると思った
とっさにセエレは、ロティオンの後ろに隠れた。
「不法侵入者か、何が目的だ!」
杖を向ける教師に、ロティオンは無言のまま、懐から何かを取り出して見せた。
キラリと光る、メダルのようなものをセエレの眼が捕らえた瞬間、教師は杖を取り落とした。
「た、大変失礼致しました!
が、学院長は中におります、どうぞお入りくださいませ!」
教師は落とした杖には目もくれず、片膝をつくとうやうやしく頭を下げた。
またもやセエレは、あっけに取られた。
魔法使いにとって、杖は命の次に大切な物のはずだった。
杖という、魔力の焦点となるものがなければ、魔法を使うのが極端に難しくなるのだから。
そのため、生徒達は『自分の杖は絶対手放すな』と厳しく教え込まれていた。
なのに、目の前の教師は……。
「あ、あんたら、一体何者なんだよ!?」
彼がたまりかねて叫んだとき、目前のドアが開き、男が一人、顔を出した。
「……何の騒ぎだね、これは?」
深緑色のローブを着込み、白髪交じりの頭髪は短く、眉間にはくっきりと二本、深い縦じわが刻み込まれている。
セエレは、はっと息を呑んだ。
それは間違いなく、ファイディー国立魔法学院の学院長、ネスターだった。
「は、学院長、実は、こちら……」
話しかける教師の声が耳に入った様子もなく、ネスターの眼は、黒いローブを身にまとったロティオンに吸いつけられ、叫んだ。
「……こ、この“気”……もしやあなたは、“賢者”サマエル殿では!?」
(け、賢者サマエルだって……この人が!?)
セエレはぽかんとし、学院長とロティオンを見比べた。
「久しいね、ネスター」
サマエルはフードをはねのけ、微笑んだ。
その下から現れた顔は、賢者という称号からは想像もつかないほど若々しく、かつ整っていた。
長い髪は白銀で、一部分はファッションなのか紫に染められ、両眼は鮮やかな紅色をしている。
「は、お、お久しぶりです……」
学院長ネスターは、驚きも覚めやらぬ様子でサマエルと握手を交わした。
ロティオンとは仮の名、彼の正体は、この国では誰一人知らぬ者もない“伝説の賢者”だったのだ。
びっくり仰天しながらも、セエレの頭の一部分は妙に冷静で、おそらくこの人は生まれつき色素がない、“
「ささ、こんなところで立ち話も何です、どうぞ中へ、レグナム殿も……むむ?」
一行を部屋へ通して初めて、ネスターはセエレに気づき、眼を
「お、お前……セエレではないか!? どうしてここへ……!?」
しかしセエレは自分のことよりも、伝説の賢者の存在に心を奪われていた。
「学院長先生、この人、本当に、あの…何千年も生きてるっていう賢者様なんですか!?」
「おや、お前は、そんなことも知らないで一緒にいたのかね?」
「だ……だって、賢者なんて……てっきり、杖なしじゃ歩けもしないヨボヨボのジジイだって……。
あ、す、すいません!」
セエレは真っ赤になり、頭を下げた。
サマエルは、顔はもちろん声や動作も、とても老人のようには感じられず、彼が賢者だと言うこと以上に彼を戸惑わせていた。
賢者の微笑みが深くなる。
「気にしなくていい、セエレ。賢者などと呼ばれているが、私は大したことはしていない。
舌先三寸で人を丸め込むことと、長生きだけが取り柄なのだよ。
……それはさておき、さっそく本題に入ろう。
ネスター、“
「例の……とおっしゃいますと、“禁呪の書”の件ですか?
しかし……濡れ衣? お言葉ですが、あれはもう決定ずみで……」
ネスターは横目で、かつての教え子を見た。
「俺はやってません、学院長先生。無実です」
セエレは、胸を張ってネスターの眼を見返した。
賢者達の励ましが自尊心を取り戻させ、今彼の心には、断固とした自信があふれていた。
ネスターはどこか
「……あの時もそう言っておったな、セエレ……」
「ともかく、彼と話をしているうちに、いくつか疑問点が出てきてね。
確認のために、ぜひとも鏡を見たいのだ」
「はあ、それほどおっしゃるのでしたら……しばしお待ちを」
渋々といった感じで背後の壁の絵に向かい、ネスターは小声で何事か唱えた。
直後、絵がぽかりと二つに割れて、学院長は、中から古びた木箱を取り出した。
うやうやしく蓋を開ける。そこには、人の顔とほぼ同じ大きさの、楕円形をした鏡が収められていた。
周囲の木枠には細やかな装飾が施され、はめ込まれたいくつもの宝石が、
「これです、どうぞ」
「ありがとう。
……ふむ、なかなかだな、これは……」
サマエルはとっくりと鏡を観察し、それからおもむろに口を開いた。
「……鏡よ、真実を示せ。一年半前、“禁呪の書”を盗み出したる者は誰か?」
すると、即座に鏡面が波立つように乱れ、セエレが書庫に忍び込み、書物を盗み出す場面が映し出された。
「ウソだ! 俺は盗っちゃいない!」
叫ぶ少年を、サマエルは穏やかに制した。
「分かっているよ、セエレ。よくできているが、これは
「に、贋物ですと!?」
学院長が泡を食ったように叫ぶ。
「そうだよ、ネスター。……さてと、これからが本番だ。
──鏡よ、“カオスの貴公子”サマエルの名に
──ユーケイズ!」
賢者は杖をかざして呪文を唱えた。
刹那、画像は乱れて消滅し、かわって何者かの姿が浮かび上がった。
「……よし、出たぞ……!」
彼は、鏡の像に神経を集中させる。
しかし、その画像は常に歪み、ねじれ続けて、細かいところまでは識別できない。
ただ、体つきや髪型から、辛うじて女性ではないかと思われた。
「これが真犯人だ。敵も、かなりの力の持ち主らしいな。
妨害されていて、はっきりとは見えない……」
ネスターの眼が大きく見開かれた。
「し、真犯人ですと!?
お、お貸し下され、サマエル殿!」
彼は鏡を受け取り、慎重に調べ始めた。
アルビノ
先天性白皮症・白子症などともいう。
先天的に皮膚や髪のメラニン色素が無い、あるいはほとんど無い症状、またその症状を持つ人や動物のこと。
動物の場合、目が赤い(虹彩の色素が無いので、眼底の血管の赤い色が透けて見えるため)のが特徴。