一瞬の後、三人は、狭く簡素な部屋に移動していた。
「こ……ここはどこだ、俺をどうしようってんだ!」
どうやらすぐに憲兵に突き出される恐れはなさそうだったものの、自分を捕まえた相手の意図が分からず、スリの少年、セエレは面食らっていた。
ここはファイディー王国の南端に位置する、カミーニという港湾都市である。
四方を砂漠で囲まれたこの国にあっては、随一の風光
セエレがこのカミーニに住み着いているのも、気候が温暖で、しかも辺りの景色に見とれて注意が散漫な連中を、カモにできるからだった。
家具といっても、粗雑な作りのベッドが二つと、同様のテーブルと椅子が一対置いてあるだけ。
歪んだ、節だらけの壁板からは隙間風が入り込み、同じく粗末な板張りの床は、さほど体重が多いとは思えないレグナムが歩くだけで、みしみしと嫌な音を立てる。
そんな安宿の一室を眺めるうち、セエレはある可能性に思い当たって顔をこわばらせた。
「そ、そうか、お前ら、人買いだな! 俺を売り飛ばすつもりなんだろう!
大人はいつもそうだ、ガキ相手なら何をしてもいいと思ってやがる、だけどな、俺はドレイなんてごめんだ、死んだ方がマシだ!
ムチ打たれてこき使われてたまるもんか、殺せよ、さあ、今すぐ殺せっ!」
レグナムは小首をかしげ、息巻くスリの様子を不思議そうに眺めた。
「……なに言ってやがんだ、こいつ? 頭おかしいのか?」
セエレは顔を紅潮させ、レグナムを怒鳴りつける。
「だ、誰が頭おかしいんだよっ、この、人さらいめ! 」
「人さらい……?
どうしてオレ達が、わざわざこんな小汚ねーガキを、さらわなきゃなんねーんだ?
やっぱおかしいぞ、こいつ」
金髪の少年は眼を
「なにぃ!」
「レグナム、彼は誤解しているのだよ。
まあ、落ち着きなさい、セエレ。私達は人買いなどではない。言ったろう、話を聞きたいだけだ」
ロティオンになだめられても、いきり立つスリの少年は、魔法使いの腕を振りほどこうともがくばかりだった。
「放せよっ、俺には話なんかない!
くそぉっ、大体、お前ら何者なんだよ!?」
「……ああ、私達はただの観光客だよ。
この宿を拠点にして、周辺の観光名所をあちこち巡っているのだが、今日もカルメット湖を見物に出かけた帰り、もう少しで宿に着くという時に、レグナムがかんしゃくを起こしてしまったのさ。
……でも、カルメット湖畔からの眺めは素晴らしいねぇ。噂に
しっかりとセエレを抱えたまま、世間話でもするような口調でロティオンは答えた。
「だ、だあってよ、超うっとーしーじゃんか、あ~んな、びらびらして長ったらしいヤツ~!」
きしむベッドに腰掛けた
「……今さら何を言っているのだね、レグナム。
出発するときに約束しただろう、人前ではローブを脱がないと」
「んー。そりゃあ、したけどさぁ。初めて着たんだしぃ、慣れてねーんだから仕方ねーじゃんかよ。
それに脱いだのも、ホンのちょいの間だけだったしぃ、いーだろ?」
幼い子供めいた仕草で、レグナムは下唇を引っ張る。
ロティオンは黒いフードの奥で、かすかに眉をひそめた。
「私は、お前を心配して……」
「あー、わかったわかった。
……たく、心配性だなぁ、ロティオン。今度からちゃんと着てるって。
それでいーだろーがよ?」
紫の瞳の少年はやる気がなさそうに片手を振って見せ、ロティオンはため息をついた。
「困ったものだ。……まあ、お前の気持ちも、分からないでもないけれどね……」
「なぁ、うだうだ話は、ここらで終わりにしよーぜ。こいつの話、聞くんじゃなかったのか?」
レグナムはスリの少年を指差し、黒衣の男はうなずいた。
「ああ、そうだったね。
さて、セエレ、詳しく聞かせてくれないか。……いや、単刀直入に
学院から盗まれた大事な物とは、“禁呪の書”のことではないのだろうか」
「ちっ、こっちは三日も食ってねぇってのに、お気楽に観光かよ!」
彼の問いには答えず、スリは吐き捨てた。
「……三日も食事抜きか。気の毒に。
それでは、空腹で話す気力が出ないのも無理はない、話は食事の後にしよう。
──カンジュア!」
相手の態度に気を悪くした風もなく、ロティオンは魔法で食事を出すと、少年を解放した。
「あー痛え」
セエレは大げさに肩や腕をさすり、湯気の立つ皿を横目で見た。
「ふん……食い物で釣ろうってのか?」
「いいや。単に、話に耳を傾けてもらえやすくしたまでさ」
「そんな言葉に騙されるもんか!」
スリの少年は勢いよくそっぽを向いた。
しかし、やせ我慢もそこまでだった。
なみなみと
それはどうしようもなくセエレを誘惑し、いくら見まいとしても、気づけば視線が器に吸い付けられ、どんなに抑えつけても口の中には大量の唾が湧いて、腹の虫は部屋中に響きそうに大きく鳴り、飢え切った体中が食物を求め、震え出していたのだ。
それでも手を出そうとしない少年に、微笑を含んだ声で魔法使いは言った。
「……やれやれ、まだ疑っているのかい? セエレ。
もし私達が奴隷商人なら、食物など与えずさっさと檻に放り込んでいるさ、手足を鎖につないでね。
違うかな?」
「う……た、たしかにな。じゃ……じゃあ、遠慮なくいただくぜっ!」
粗末な椅子に勢いよく腰をかけ、彼は粥の皿にものすごい勢いでスプーンを突っ込み、口に放り込んだ。
「あちちちっ!」
「そんなに急ぐと火傷するよ、ほら、水だ」
ロティオンはコップを差し出す。
「お、おう!」
ひったくるようにして水を受け取り、セエレは舌を冷やす。
それから今度は粥に息を吹きかけて冷まし、慎重に頬張り始めた。
「そう、ゆっくりと食べた方がいい、胃がびっくりしてしまうよ。
慌てなくても、誰も横取りはしないから。欲しければ、お代わりも出すしね」
微笑みながら、魔法使いは言う。
トウモロコシ色の髪を振り乱し、一心に食べ続ける少年を、レグナムは眼を丸くして見ていた。
「すげー食いっぷりだなー、入れもんまで食いそうじゃん」
「お代わり!」
あっという間に食物を胃に収め、セエレは、勢いよく皿を突き出す。
「──カンジュア!」
ロティオンは呪文を唱え、皿を満たした。
「いただきっ!」
食事を再開した少年に向けて、魔法使いは話を続けた。
「では、セエレ、食べながら聞いてくれ。
もし、盗まれたのが“禁呪の書”だとしたら、キミが思っている以上に事態は深刻なのだよ。
キミは知っているか? あの書物には、邪悪な古代魔法が封印されているのだ。
全百巻とも二百巻とも言われている“書”の封印をすべて解くことができた者は、この世を支配できるとさえ言い伝えられている……ただし大部分は失われ、現存するものは極めて少ないけれどね」
「……ああ、知ってる……って言っても、……学院長とか教師の連中が、……血相変えて俺に詰め寄って来ながら、……そうわめいてて、……それで俺は、……初めて知ったんだけど……」
少年は食事の手を止めず、口をもぐつかせて答えた。
「そうか。ところで問題は、これらの書を読み解き、使いこなせるのは、魔物か、あるいは魔物に
だから、今回のことにも、魔物が絡んでいるかもしれない。
前王の二の舞だけは避けたい、そう思わないか?」
「……ふうん、あん時みたいになるかもって?
……ま、俺には、あんまり関係ないけどな……」
そう言いつつも多少は気を
前王とは、十年前にファイディー国の王として即位した、アンドラス・ルドウィック・メイラ・ファイディーズ・レックス十三世のことである。
セエレは当時、まだ五歳だった。
しかし幼な心にも、その頃まだ存命だった両親が、乱れた世情と近づく戦争の足音に怯えていたことは、鮮烈な記憶として残っていた。