~紅龍の夢~

番外編 汚けがれなき唇 ~Innocent Lip~ (8)

(……そうだった、二万年以上も前のことだし、すっかり忘れていた。
シンハと、アルブの母親とが取り成してくれなかったら、俺は、まだ魔封じの塔に封じ込められ、眠り続けていたのかもな。
──よし、王位に()いたら、さっそくアルブの命日を祝日にしてやろう。……む、また日にちを忘れてしまったな、まあいい、“焔の眸”なら覚えているだろう)
魔族は、食料が乏しくなると成長を止めて休眠状態になり、飢餓(きが)を乗り越える。
あのまま塔に幽閉されていれば、タナトスは大人にならずに、生涯を閉じていたかも知れなかった。

その時、彼の腕に捕らえられていたジルが、ぽつりと言った。
「タナトス、可哀想……」
「ジル?」
タナトスは我に返って彼女を見た。
体の震えは止まっていたものの、少女は、ぽろぽろと涙をこぼしていた。

「……あ、す、すまん。そんなに泣かないでくれ。もう手荒なことはせんから」
王子は急いで、彼女を解放した。
「違うの。タナトスも、ウサギの女の子も、お母さんも皆、可哀想なの……」
ジルはかぶりを振り、しゃくりあげた。
体が触れていたため意識を共有することとなり、彼女は自分の過去を知ったのだと彼は気づいた。
「……キミは、他人のために泣いているのか」

「お父さんもひどいわ。どうして予言より、自分の子供を信じないの?
タナトスには、ちゃんと心があるわ。だから、泣いたり笑ったりできるんでしょ、なのに!」
王子は、我が事のように憤慨する少女の肩を、優しくたたいた。
「気にするな、ジル。今となってはもう、どうでもいいことだ。
……それより、俺の赤ん坊など、産まなくていいぞ」
「どうして?」
「俺には、すでに子がいるからな」

「──ええーっ!? タナトスって、もうお父さんだったの!?」
予想外の宣言に、ジルは泣きやみ、これ以上ないほど眼と口を大きく開けた。
「ああ。子供の母は、アルブの姉で、フィッダという。
彼女だけが、なかなか俺を許してくれんので、何とか心を解こうと、墓参り以外でもよく会っていたのだが。
ある時、説得するのも面倒になり、黙らせようと唇を奪ったら……彼女の精気はかなりのもので、吸うだけではやめられなくなってな。
……結局、一緒の布団で寝ることになってしまったのだ」
彼は、ジルに分かりやすいように説明した。

「……ふうん」
「強引だったからフィッダは泣いてしまい、それで俺は、子供ができたら妃にしてやると約束した……」
「え、じゃあ、奥さんがいるのに、あたしにプロポーズしたの?」
濡れた頬をこすり、あきれたように少女は言った。
魔族に限らず、王族が側室を持つことは珍しくないものの、ジルには理解できそうもないと思ったタナトスは、否定の身振りをした。

「いや、彼女は、もう死んでしまっているのだ。
魔族は普通十万年ほど生きるが、クニークルスは魔力が弱く、寿命も短く、時には数千年しか生きない。
その代わり、多産系で、赤ん坊はたくさん生まれるが。
フィッダの子供はたった一人で、俺にはまったく似ておらず、クニークルスとして育てた方がいいと、内密に族長が引き取ってくれたのだ」
「……そうだったの」

実は、子供は死産だった。
それでも、彼はフィッダを妃にしようとしたが、父王は王家に弱い血を入れることを認めず、彼女も亡くなってしまった。
そのため、今度こそ、身も心も健康で強い娘を妃にしようと考えたのだったが。
タナトスは、深く息をついた。

「……それに、キミを不幸にはしたくない。
もし、俺のせいで本当に、キミが一人淋しく粗末な小屋に寝起きし、泣き暮らすことになってしまったら……俺は、赤ん坊を見るたび辛くなり、可愛がるどころではなくなってしまうだろう。
子供はいらん、従って、一緒に寝る必要もない。
──さて、もう、この話は終わりだ。お茶にしないか、ジル」
「う、うん……」

彼らはテラスに出、遠くに見える汎魔殿と、眼下に広がる魔界の景色を眺めつつ、ティータイムをとる。
「ここからの眺望(ちょうぼう)は素晴らしいだろう、ジル」
「そうね」
「キミの焼いてくれたケーキはうまいな」
「……うん」

二人を邪魔する者はなく、ゆっくりと時が移っていく。
(……静かだな。そう、これでいいのだ。元々、彼女には何もせず、帰すつもりだったのだから)
タナトスの心は、自分でも驚くほど穏やかになっていた。

やがて日が沈み、徐々に夕闇が迫って来ると、彼は使い魔にシチューを持ってこさせ、魔界の満点の星の下、二人は晩餐(ばんさん)をとった。

食事が済むと、王子はジルに言った。
「キミに見せたいものがある。一緒に来てくれ」
「うん」
彼は、少女を優しく抱き上げ、黒い翼でふわりと空高く飛び上がった。
魔界の二つ月が城の中庭を照らし出し、すべてのものに淡い桃色と水色、二方向からの影を作っている。
その中で、黔龍城は、数え切れないほどの窓の灯りで幻想的に浮かび上がっていた。

「わあっ、タナトスのお城、きれいね!」
ジルは顔を輝かせた。
「そうだろう? やはり、キミには笑顔が似合う」
魔界の藍色をした夜空を鋭く切り裂き、タナトスは最愛の少女を運ぶ。

「さあ、着いたぞ」
「……あれ、ここって、人界のお花畑に似てるわね」
タナトスがジルを連れてきた場所には、一面に色とりどりの魔界の花が咲き誇っていた。
「キミが来てくれたら、と思って作ったのだ」
「あたしのために? あ、ありがとう……」
彼は白い花を一輪摘み、彼女の髪に()してやる。

「ここで、キミと踊ろうと思っていた」
ぱちりと王子は指を鳴らす。ダンスにふさわしい、しっとりとした音楽が流れて来た。
「え、でも、あたし、ダンスなんてしたことないよ」
「俺が教えてやる」
魔族の第一王子は、少女の華奢な手を取った。
兄妹月の下、彼は弟王子の妻を抱き寄せて、ゆるやかな楽曲に合わせて踊る。

「タナトス、寝室に連れてって。あたし、平気だから」
ジルが彼を見上げて言い、タナトスは口を真一文字に引き結んだ。
「怒ってる……の?」
「いらんと言ったろう。キミも、泣いて嫌がっていたではないか」
「違うわ、お師匠様に嫌われたらって思っただけ……」
「もういい。それより、喉が渇かないか?」

彼はぶっきらぼうに話題を変え、魔法でワインのグラスを取り出して、彼女に渡す。
「酔っ払ったら、何されても涙が出ないかな……」
ジルがつぶやくと、王子の眉間に稲妻が走った。
「──しつこいぞ! 俺に身を任せれば、奴にかけた術を解いてもらえるとでも思っているのか!?」
「そんなこと思ってないわ、タナトスが心配なの。
淋しくて悲しくて、だから、あたしをそばに置きたいんでしょ?」
涙に揺らぐ少女の眼差しは、心底彼を案じているように見える。

タナトスは、この場で彼女を押し倒してしまいたい衝動を、ぐっと抑えた。
「魔物の王となる男に、同情などいらん。第一、俺は悲しくも、淋しくもない。
それより、踊ってくれ、今宵は一晩中、キミを寝かさないからな!」
吹っ切るように言ってのける語気の荒さとは裏腹に、彼はそっと彼女の背中に手を回す。
「うん、上手に踊れるように頑張るね」
ジルは懸命に、ダンスのステップを踏み始めた。

翌朝。
タナトスは、客間のベッドで眠る少女の寝顔を見下ろしていた。
昨夜、踊りながら眠りに落ちてしまった彼女を、彼はここに運んだのだ。
「あ……あれ……タナトス?」
そのとき、不意にジルが目覚め、彼と眼を合わせて驚きの声を上げた。

「おはよう、ジル。よく眠れたか?」
「お、おはよう。あたし、いつの間にか寝ちゃったのね」
「遅くまでつき合わせて悪かったな、もうサマエルのところへ帰っていいぞ。
ふっ、心配で心配で気が狂いそうな思いを、夜中味わい続けたことだろうさ、あいつは。
──ふふん、いい気味だ」
第一王子は晴れ晴れとした表情で、彼女が起きるのに手を貸し、指を鳴らして着替えさせる。

「……帰っていいの? じゃ、あたし行くね、さよなら……」
「お、そうだった、ちょっと待ってくれ。キミに餞別(せんべつ)をやらねばいかんのだった」
部屋を出ようとしたジルを、王子は引き止めた。
「餞別?」
少女は不思議そうに振り返る。
「結婚祝、と言ってもいいか。サマエルの魔力を取り戻す方法だ」

「え、本当に!?」
瞳を輝かせて駆け寄ってくる少女を見たタナトスは、眉間に激しくしわを刻んだ。
「この俺が、偽りを言うとでも思うのか!」
「ご、ご免なさい、そんなつもりじゃ……」
栗色の眼にみるみる涙が浮かび、彼は後悔した。
「ああ、泣かなんでくれ、ジル。すまん……。キミに悪気のないのは分かっている」

「タナトス、お願い! あたし、どうなってもいいから……!」
必死に訴えてくる少女に、彼は優しい眼差しを注ぐ。
「もうへそを曲げたりはせん、術を解く方法はちゃんと教えてやるから」
「あ、ありがとう……」
少女は涙をぬぐった。

「ともかく、まずはこの呪文を唱え……」
タナトスは、まだ少し震える彼女の額に二本の指を当て、忘れないよう呪文を記憶を植え付ける。
「そして、呪われた者を心から愛する“乙女(おとめ)”が、口づけてやる。
──つまり、キミがあいつにキスしてやればいい。呪いを解く魔法の初歩だ、簡単だろう? 
だが、この呪文を知らなければ、永遠に解けはせんのさ」
「うん、分かったわ。ありがとう、タナトス。一緒にいてあげられなくてご免なさい」
ジルはぺこりと頭を下げた。

「こちらこそ謝らなくてはいかんな。
信じてくれんかも知れんが、俺は最初から、朝には、こうして魔法の解き方を教え、二人を許すつもりでいた。
サマエルに思い知らせてやりたかっただけで、キミに手を触れるつもりはなかったのだ。
……だが、いざ顔を見た途端、キミが欲しいという気持ちを抑えられなくなってしまった……」

ジルは、慌てて体に触れた。
「じゃあ、やっぱり、あたしが寝ちゃった後……?」
「──いいや、誓って、キミには何もしておらん」
王子はきっぱりと言い切った。
「分からんか? この魔法は、“乙女”……つまり、男と寝ておらん女性にしか解けんのだ。
それゆえ、サマエルに嫌われる心配も不要だ。いらん気苦労をかけたな、ジル、許してくれ」

「……そう。ううん、いいの」
ジルは胸をなで下ろした。
「では、あいつに言っておいてくれないか、キミを不幸にしたら、ただではおかんからなと。
ふっ、余計な世話だろうがな。
ともかく、俺は魔界で王となる。キミとはもはや会うこともあるまい。さらばだ、ジル」
タナトスは、少女の手を取り甲にキスすると、扉に向けて優しく放してやる。

「──あ、ありがとう!」
彼女は礼を言うのももどかしげにドアに駆け寄り、ノブに手を掛けたが、開けずにまた引き返してきた。
「? ……どうした? なぜ戻って……」
問いかけるタナトスに、少女はぎゅっと抱きつき、つま先立ってキスをする。

「……!?」
「──ありがとう、タナトス! あなたのこと、忘れないわ、さよなら!」
そして涙を(たた)えた瞳で一瞬彼を見つめてそう言うと、今度こそドアを開け、走り出ていった。

たった今起きた出来事が信じられずに、しばし呆然としていたタナトスは、やがて、柔らかな感触が残る自分の唇にそっと指を当て、少女が与えてくれたぬくもりを決して忘れまい、と思った。
この先、何万年生きようとも。
「さらば、ジル……」

THE END.