(……そうだった、二万年以上も前のことだし、すっかり忘れていた。
シンハと、アルブの母親とが取り成してくれなかったら、俺は、まだ魔封じの塔に封じ込められ、眠り続けていたのかもな。
──よし、王位に
魔族は、食料が乏しくなると成長を止めて休眠状態になり、
あのまま塔に幽閉されていれば、タナトスは大人にならずに、生涯を閉じていたかも知れなかった。
その時、彼の腕に捕らえられていたジルが、ぽつりと言った。
「タナトス、可哀想……」
「ジル?」
タナトスは我に返って彼女を見た。
体の震えは止まっていたものの、少女は、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「……あ、す、すまん。そんなに泣かないでくれ。もう手荒なことはせんから」
王子は急いで、彼女を解放した。
「違うの。タナトスも、ウサギの女の子も、お母さんも皆、可哀想なの……」
ジルはかぶりを振り、しゃくりあげた。
体が触れていたため意識を共有することとなり、彼女は自分の過去を知ったのだと彼は気づいた。
「……キミは、他人のために泣いているのか」
「お父さんもひどいわ。どうして予言より、自分の子供を信じないの?
タナトスには、ちゃんと心があるわ。だから、泣いたり笑ったりできるんでしょ、なのに!」
王子は、我が事のように憤慨する少女の肩を、優しくたたいた。
「気にするな、ジル。今となってはもう、どうでもいいことだ。
……それより、俺の赤ん坊など、産まなくていいぞ」
「どうして?」
「俺には、すでに子がいるからな」
「──ええーっ!? タナトスって、もうお父さんだったの!?」
予想外の宣言に、ジルは泣きやみ、これ以上ないほど眼と口を大きく開けた。
「ああ。子供の母は、アルブの姉で、フィッダという。
彼女だけが、なかなか俺を許してくれんので、何とか心を解こうと、墓参り以外でもよく会っていたのだが。
ある時、説得するのも面倒になり、黙らせようと唇を奪ったら……彼女の精気はかなりのもので、吸うだけではやめられなくなってな。
……結局、一緒の布団で寝ることになってしまったのだ」
彼は、ジルに分かりやすいように説明した。
「……ふうん」
「強引だったからフィッダは泣いてしまい、それで俺は、子供ができたら妃にしてやると約束した……」
「え、じゃあ、奥さんがいるのに、あたしにプロポーズしたの?」
濡れた頬をこすり、あきれたように少女は言った。
魔族に限らず、王族が側室を持つことは珍しくないものの、ジルには理解できそうもないと思ったタナトスは、否定の身振りをした。
「いや、彼女は、もう死んでしまっているのだ。
魔族は普通十万年ほど生きるが、クニークルスは魔力が弱く、寿命も短く、時には数千年しか生きない。
その代わり、多産系で、赤ん坊はたくさん生まれるが。
フィッダの子供はたった一人で、俺にはまったく似ておらず、クニークルスとして育てた方がいいと、内密に族長が引き取ってくれたのだ」
「……そうだったの」
実は、子供は死産だった。
それでも、彼はフィッダを妃にしようとしたが、父王は王家に弱い血を入れることを認めず、彼女も亡くなってしまった。
そのため、今度こそ、身も心も健康で強い娘を妃にしようと考えたのだったが。
タナトスは、深く息をついた。
「……それに、キミを不幸にはしたくない。
もし、俺のせいで本当に、キミが一人淋しく粗末な小屋に寝起きし、泣き暮らすことになってしまったら……俺は、赤ん坊を見るたび辛くなり、可愛がるどころではなくなってしまうだろう。
子供はいらん、従って、一緒に寝る必要もない。
──さて、もう、この話は終わりだ。お茶にしないか、ジル」
「う、うん……」
彼らはテラスに出、遠くに見える汎魔殿と、眼下に広がる魔界の景色を眺めつつ、ティータイムをとる。
「ここからの
「そうね」
「キミの焼いてくれたケーキはうまいな」
「……うん」
二人を邪魔する者はなく、ゆっくりと時が移っていく。
(……静かだな。そう、これでいいのだ。元々、彼女には何もせず、帰すつもりだったのだから)
タナトスの心は、自分でも驚くほど穏やかになっていた。
やがて日が沈み、徐々に夕闇が迫って来ると、彼は使い魔にシチューを持ってこさせ、魔界の満点の星の下、二人は
食事が済むと、王子はジルに言った。
「キミに見せたいものがある。一緒に来てくれ」
「うん」
彼は、少女を優しく抱き上げ、黒い翼でふわりと空高く飛び上がった。
魔界の二つ月が城の中庭を照らし出し、すべてのものに淡い桃色と水色、二方向からの影を作っている。
その中で、黔龍城は、数え切れないほどの窓の灯りで幻想的に浮かび上がっていた。
「わあっ、タナトスのお城、きれいね!」
ジルは顔を輝かせた。
「そうだろう? やはり、キミには笑顔が似合う」
魔界の藍色をした夜空を鋭く切り裂き、タナトスは最愛の少女を運ぶ。
「さあ、着いたぞ」
「……あれ、ここって、人界のお花畑に似てるわね」
タナトスがジルを連れてきた場所には、一面に色とりどりの魔界の花が咲き誇っていた。
「キミが来てくれたら、と思って作ったのだ」
「あたしのために? あ、ありがとう……」
彼は白い花を一輪摘み、彼女の髪に
「ここで、キミと踊ろうと思っていた」
ぱちりと王子は指を鳴らす。ダンスにふさわしい、しっとりとした音楽が流れて来た。
「え、でも、あたし、ダンスなんてしたことないよ」
「俺が教えてやる」
魔族の第一王子は、少女の華奢な手を取った。
兄妹月の下、彼は弟王子の妻を抱き寄せて、ゆるやかな楽曲に合わせて踊る。
「タナトス、寝室に連れてって。あたし、平気だから」
ジルが彼を見上げて言い、タナトスは口を真一文字に引き結んだ。
「怒ってる……の?」
「いらんと言ったろう。キミも、泣いて嫌がっていたではないか」
「違うわ、お師匠様に嫌われたらって思っただけ……」
「もういい。それより、喉が渇かないか?」
彼はぶっきらぼうに話題を変え、魔法でワインのグラスを取り出して、彼女に渡す。
「酔っ払ったら、何されても涙が出ないかな……」
ジルがつぶやくと、王子の眉間に稲妻が走った。
「──しつこいぞ! 俺に身を任せれば、奴にかけた術を解いてもらえるとでも思っているのか!?」
「そんなこと思ってないわ、タナトスが心配なの。
淋しくて悲しくて、だから、あたしをそばに置きたいんでしょ?」
涙に揺らぐ少女の眼差しは、心底彼を案じているように見える。
タナトスは、この場で彼女を押し倒してしまいたい衝動を、ぐっと抑えた。
「魔物の王となる男に、同情などいらん。第一、俺は悲しくも、淋しくもない。
それより、踊ってくれ、今宵は一晩中、キミを寝かさないからな!」
吹っ切るように言ってのける語気の荒さとは裏腹に、彼はそっと彼女の背中に手を回す。
「うん、上手に踊れるように頑張るね」
ジルは懸命に、ダンスのステップを踏み始めた。
翌朝。
タナトスは、客間のベッドで眠る少女の寝顔を見下ろしていた。
昨夜、踊りながら眠りに落ちてしまった彼女を、彼はここに運んだのだ。
「あ……あれ……タナトス?」
そのとき、不意にジルが目覚め、彼と眼を合わせて驚きの声を上げた。
「おはよう、ジル。よく眠れたか?」
「お、おはよう。あたし、いつの間にか寝ちゃったのね」
「遅くまでつき合わせて悪かったな、もうサマエルのところへ帰っていいぞ。
ふっ、心配で心配で気が狂いそうな思いを、夜中味わい続けたことだろうさ、あいつは。
──ふふん、いい気味だ」
第一王子は晴れ晴れとした表情で、彼女が起きるのに手を貸し、指を鳴らして着替えさせる。
「……帰っていいの? じゃ、あたし行くね、さよなら……」
「お、そうだった、ちょっと待ってくれ。キミに
部屋を出ようとしたジルを、王子は引き止めた。
「餞別?」
少女は不思議そうに振り返る。
「結婚祝、と言ってもいいか。サマエルの魔力を取り戻す方法だ」
「え、本当に!?」
瞳を輝かせて駆け寄ってくる少女を見たタナトスは、眉間に激しくしわを刻んだ。
「この俺が、偽りを言うとでも思うのか!」
「ご、ご免なさい、そんなつもりじゃ……」
栗色の眼にみるみる涙が浮かび、彼は後悔した。
「ああ、泣かなんでくれ、ジル。すまん……。キミに悪気のないのは分かっている」
「タナトス、お願い! あたし、どうなってもいいから……!」
必死に訴えてくる少女に、彼は優しい眼差しを注ぐ。
「もうへそを曲げたりはせん、術を解く方法はちゃんと教えてやるから」
「あ、ありがとう……」
少女は涙をぬぐった。
「ともかく、まずはこの呪文を唱え……」
タナトスは、まだ少し震える彼女の額に二本の指を当て、忘れないよう呪文を記憶を植え付ける。
「そして、呪われた者を心から愛する“
──つまり、キミがあいつにキスしてやればいい。呪いを解く魔法の初歩だ、簡単だろう?
だが、この呪文を知らなければ、永遠に解けはせんのさ」
「うん、分かったわ。ありがとう、タナトス。一緒にいてあげられなくてご免なさい」
ジルはぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ謝らなくてはいかんな。
信じてくれんかも知れんが、俺は最初から、朝には、こうして魔法の解き方を教え、二人を許すつもりでいた。
サマエルに思い知らせてやりたかっただけで、キミに手を触れるつもりはなかったのだ。
……だが、いざ顔を見た途端、キミが欲しいという気持ちを抑えられなくなってしまった……」
ジルは、慌てて体に触れた。
「じゃあ、やっぱり、あたしが寝ちゃった後……?」
「──いいや、誓って、キミには何もしておらん」
王子はきっぱりと言い切った。
「分からんか? この魔法は、“乙女”……つまり、男と寝ておらん女性にしか解けんのだ。
それゆえ、サマエルに嫌われる心配も不要だ。いらん気苦労をかけたな、ジル、許してくれ」
「……そう。ううん、いいの」
ジルは胸をなで下ろした。
「では、あいつに言っておいてくれないか、キミを不幸にしたら、ただではおかんからなと。
ふっ、余計な世話だろうがな。
ともかく、俺は魔界で王となる。キミとはもはや会うこともあるまい。さらばだ、ジル」
タナトスは、少女の手を取り甲にキスすると、扉に向けて優しく放してやる。
「──あ、ありがとう!」
彼女は礼を言うのももどかしげにドアに駆け寄り、ノブに手を掛けたが、開けずにまた引き返してきた。
「? ……どうした? なぜ戻って……」
問いかけるタナトスに、少女はぎゅっと抱きつき、つま先立ってキスをする。
「……!?」
「──ありがとう、タナトス! あなたのこと、忘れないわ、さよなら!」
そして涙を
たった今起きた出来事が信じられずに、しばし呆然としていたタナトスは、やがて、柔らかな感触が残る自分の唇にそっと指を当て、少女が与えてくれたぬくもりを決して忘れまい、と思った。
この先、何万年生きようとも。
「さらば、ジル……」
THE END.