『何者か、汝は』
魔界の獅子の
「ご、ご無礼をお許し下さい、シンハ様。
わたしは、この墓に眠る娘、アルブの母親でございます」
「……は、母親……?」
タナトスはぎくりとし、その女の顔を直視できなかった。
「そうです、王子様、理由をお聞かせ下さいませ、娘をお手打ちにされたそのわけを!
一体、どんな罪を、この子が犯したというのですか!」
彼は首を左右に振り、もぐもぐと言った。
「……罪なんてないよ。その子は、何にも悪いことしてない」
「え? 今、何と仰いました?」
女が聞き返すと、タナトスは頭をかきむしった。
「悪いのは俺……ああ……やっぱり、俺は、人殺しの王様にしか、なれないんだ……!」
『人殺しの王とは、何ぞや?
申してみよ、いかなるものが、汝の小さき心を苦しめておるのか?』
シンハは、彼の顔を覗き込む。
「うん……」
第一王子は小さくうなずき、うつむいたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あの日……アルブを殺しちゃった日、俺、父上が、叔母上に話してるの、聞いちゃったんだ……。
俺……俺は、“同族殺しを楽しむ、ひどい王様”に、なっちゃうんだって……アナテ女神様がそう予言したから、もう、どうしようもないって……。
だから……だから、俺、どうせ大人になったら、そうなっちゃうんだって思ったら──うわーんっ!」
いきなり、王子は、ライオンの美しい毛並みに顔を埋めて泣き出した。
「……王子様……」
クルークルスの女が、哀れみとも憎しみともつかぬ眼差しを、彼に注ぐ。
『何たる失態。かような幼子に、かくも無慈悲な宣告を聞かせてしもうたとは』
シンハもまた、輝く瞳で王子を
『……亡くなりし娘の母よ。こたびの件、責めらるるべきは王子に
今は、我が、王に代わって詫びよう、許せ』
女は首を振り、小声で答えた。
「……そんな、もったいないお言葉でございます。
けれど、アナテ女神様も、むごいご
「……だって、うらやましかったんだよぉ。皆、母上がいるのに、俺だけ……。
父上にも嫌われちゃったぁ……俺なんか、死んじゃった方がいいんだぁ、えーん、シンハ……!」
魔界の獅子は、泣きじゃくる王子の頬を、ざらざらした大きな舌でなめた。
『サタナエルよ、左様に泣かずともよい。
神託と申せども、
女神は、最も
我が瞳には、今一つ、異なる道が見えておる』
「……えっ、別の道があるの?」
タナトスは驚いて泣き止み、ライオンの揺らぐ瞳を覗き込んだ。
『左様。されど、
よほど汝が、
“道を
「……ええっと、……」
宝石の化身が使う古めかしい言い回しのために、幼い王子には、話が飲み込めない様子だった。
彼はごしごしと顔をこすって涙をぬぐい、言った。
「なんか……難しくてよく分かんないけど、お前は、大変だけど別な道がある、って言ってるんだよな?
気休めなんか言ったら、許さないぞ!」
シンハは、ぶるんと体を揺すった。
『我は偽りは申さぬ。仮に汝が、困難なる道を行くこと叶えば、汝は天界との宿命の戦に勝利したとして、長く魔界の歴史に語り継がれる偉大な王となろうよ』
「……天界と戦って勝てる、偉い王様になれる……って?」
『
魔界のライオンは重々しくうなずいた。
「わーい、すごいや!」
王子は喜びを満面に表し、拳を突き上げたが、それを抑えるようにシンハは続けた。
『さりとても、汝の犯した
「うん……やっぱりもう遅いのかな。
俺……この子や、クニークルス達に、ひどいことしちゃった……」
タナトスはうなだれた。
『未だ間に合おう。心から悔い、詫びればクニークルスも許そうぞ』
「うん」
ライオンに支えられて立ち上がり、彼はアルブの母親に向かって深々と頭を下げた。
「ご免なさい。もうこんなことはしない。約束するよ。許してくれる?」
しかし、彼女は悲しげに答えた。
「……申し訳ありませんが、今すぐには、王子様を許す気持ちにはなれません……」
途方に暮れた彼は、涙でぬれた瞳で女を見上げた。
「じゃあ、どうすればいい?
教えてくれよ、俺、本当に、どうしていいか分からないんだ。
やっぱり、俺なんか、いない方がいいのかな……?
お前は、俺をどうしたい? ……死ぬまで、塔にずっといろって言うんなら、そうする。
それとも、俺を殺したいか? なら……」
彼は、腰に
クニークルスはぎょっとし、急いで否定の身振りをした。
「お、おやめ下さい、たとえ王子様のお命を
……では……そうですね、娘の墓に、毎日、お花を供えてやって下さいますか」
タナトスは、ぽかんとした。
「えっ、そんなことでいいのか」
「毎日ですよ、それもご自分の手で。使い魔や家来などにやらせてはいけませんよ。
そして、心から、娘に謝って下さい。
……それを一年続けて頂けたら、許せる気持ちになれるかも知れません……」
王子はこっくりとうなずく。
「うん、分かった。やる」
「そのお花も、勝手に取ってはいけません。
花畑の番人に話しておきますから、もらってきて下さい。
野の花でも結構ですが、むしり取ったようなものは駄目ですよ、優しく摘んできて下さいね」
「うん、そうする。……そうすれば、許してくれるんだな?」
すがるような彼の眼差しを避けるようにして、女はつぶやく。
「……ええ、多分……」
その日から、タナトスは、花を抱え、毎日墓に
貴人の気まぐれがいつまで続くかと、初めは冷ややかに見ていたクニークルス族も、どんな悪天候の日でも、真剣に王子が墓参りを続ける姿に、少しずつ態度を和らげていった。
一年近くが経ったある日、いつものように、タナトスが大きな花束を手に森の奥に来てみると、アルブの墓の周りには、たくさんのクニークルス達が集まっていた。
「タナトス殿下がいらっしゃったぞ!」
「王子様だ!」
「今日もちゃんといらして下さった!」
彼らは口々に叫びながら、彼目がけて押し寄せてきた。
王子は顔をしかめ、叫んだ。
「なんだ、お前達は! 邪魔するな、俺は墓参りしなくちゃいけないんだから!」
その時、群がるクニークルスの中から、一人の女が出てきた。
アルブの母親だった。
「あ、お前、一体、どうなってるんだ? こいつらのせいで、約束が守れないじゃないか」
「いえ、この者達は、王子様のお邪魔をする気はまったくないのですよ。
今日はアルブの命日ですから、皆、集まってくれているのです」
(命日……そうか、忘れてた。
墓参りを始めたのは、俺があの子を殺しちゃってから、ちょっと後になってからだっけ)
タナトスがつぶやいた時、全身黒い毛で覆われた大柄なクニークルスの男が近づいてきた。
「タナトス殿下、わたくしはクニークルスの族長、アウスと申します。
アルブのために毎日花を手向けて下さったこと、感謝致しております」
族長はうやうやしく頭を下げた。
「……殺されたのに、感謝するのか、お前」
冷たく、タナトスは言ってのけた。
「い、いえ、それは……」
「分かってるよ、俺が王子だから、文句言えないんだろ。
でも、もう、絶対こんなことはしない。約束する。
そのために、毎日ここに来てたんだ。
仲間にひどいことする王様には、絶対ならないから見ててくれって、俺、アルブに誓ってたんだ、ずっと」
「タナトス殿下……」
「そうだ、俺が王になったら、今日を祝日にしてやる。
そうすれば、俺はアルブのこと忘れないし、お前達も仕事休んで、ゆっくり祈ってやれるだろ」
「もったいないお言葉です、殿下。草葉の陰で、アルブも喜んでおることでしょう……」
「さあ、もういいだろ。
──お前ら、どけよ!」
タナトスが叫ぶと、クニークルス達はさっと左右に分かれて彼を通した。
皆の注目を浴びながら、墓に歩み寄って片膝をついて花を置き、ひざまずいて彼は祈りを捧げる。
それが済むと彼は立ち上がり、隣で同じように祈っていたアルブの母親に言った。
「俺、これからも毎日来るからな」
「いいえ、そんな……もう、命日だけで結構でございます」
彼女は首を横に振った。
「……だって、一年って約束だろ、そしたら許してくれるって」
「もうとっくに、あなた様のことは許していますよ」
女は微笑んだ。
「そっか、よかった」
タナトスも笑みを返す。
「じゃあ、ここにいっぱい花を植えてやろうか、そんなら、俺が来なくても、花がいつもあってきれいだろ。
──そうだ、ついでに公園みたいにしたら、皆が来やすくなって、アルブも淋しくないよな?」
「ありがとうございます、王子様!」
アルブの母を筆頭に、クニークルス達は一斉に片膝をついて、彼に臣下の礼を取り、声を上げた。
「王子様万歳!」
「タナトス殿下万歳!」
事象が実現されるか否か、またはその知識の確実性の度合。確からしさ。数学的に定式化されたものを確率と呼ぶ。プロバビリティー。
道を
《「孟子」公孫丑下から》徳を体得した人は、自然に人民の協力も得られるが、道にそむいた人は援助協力も少なく、人心が離反する。