~紅龍の夢~

番外編 汚けがれなき唇 ~Innocent Lip~ (7)

『何者か、汝は』
魔界の獅子の誰何(すいか)に、女は慌てて頭を下げた。
「ご、ご無礼をお許し下さい、シンハ様。
わたしは、この墓に眠る娘、アルブの母親でございます」
「……は、母親……?」
タナトスはぎくりとし、その女の顔を直視できなかった。
「そうです、王子様、理由をお聞かせ下さいませ、娘をお手打ちにされたそのわけを!
一体、どんな罪を、この子が犯したというのですか!」

彼は首を左右に振り、もぐもぐと言った。
「……罪なんてないよ。その子は、何にも悪いことしてない」
「え? 今、何と仰いました?」
女が聞き返すと、タナトスは頭をかきむしった。
「悪いのは俺……ああ……やっぱり、俺は、人殺しの王様にしか、なれないんだ……!」

『人殺しの王とは、何ぞや?
申してみよ、いかなるものが、汝の小さき心を苦しめておるのか?』
シンハは、彼の顔を覗き込む。
「うん……」
第一王子は小さくうなずき、うつむいたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。

「あの日……アルブを殺しちゃった日、俺、父上が、叔母上に話してるの、聞いちゃったんだ……。
俺……俺は、“同族殺しを楽しむ、ひどい王様”に、なっちゃうんだって……アナテ女神様がそう予言したから、もう、どうしようもないって……。
だから……だから、俺、どうせ大人になったら、そうなっちゃうんだって思ったら──うわーんっ!」
いきなり、王子は、ライオンの美しい毛並みに顔を埋めて泣き出した。
「……王子様……」
クルークルスの女が、哀れみとも憎しみともつかぬ眼差しを、彼に注ぐ。

『何たる失態。かような幼子に、かくも無慈悲な宣告を聞かせてしもうたとは』
シンハもまた、輝く瞳で王子を一瞥(いちべつ)し、それからアルブの母親に視線を移して、神託でも告げるかのごとく重厚な口調で言った。
『……亡くなりし娘の母よ。こたびの件、責めらるるべきは王子に(あら)ず、父親たる魔界の君主、バアル・ゼブルであろうな。
今は、我が、王に代わって詫びよう、許せ』

女は首を振り、小声で答えた。
「……そんな、もったいないお言葉でございます。
けれど、アナテ女神様も、むごいご託宣(たくせん)をなさいますね。陛下もお気の毒に……」

「……だって、うらやましかったんだよぉ。皆、母上がいるのに、俺だけ……。
父上にも嫌われちゃったぁ……俺なんか、死んじゃった方がいいんだぁ、えーん、シンハ……!」
魔界の獅子は、泣きじゃくる王子の頬を、ざらざらした大きな舌でなめた。
『サタナエルよ、左様に泣かずともよい。
神託と申せども、(くつがえ)らぬわけでもないぞ。
女神は、最も蓋然(がいぜん)性の高き予知を、汝の父に告げたに過ぎぬ。
我が瞳には、今一つ、異なる道が見えておる』

「……えっ、別の道があるの?」
タナトスは驚いて泣き止み、ライオンの揺らぐ瞳を覗き込んだ。
『左様。されど、()道行(みちゆき)はごく細く、険しく、さらに遠し。
よほど汝が、精進(しょうじん)致させねば、行くこと叶わぬぞ。
“道を()る者は助け多く、道を失う者は助け(すくな)し”と申してな、道理に外れたる者からは人心が離れ、助力も得られぬのだ』

「……ええっと、……」
宝石の化身が使う古めかしい言い回しのために、幼い王子には、話が飲み込めない様子だった。
彼はごしごしと顔をこすって涙をぬぐい、言った。
「なんか……難しくてよく分かんないけど、お前は、大変だけど別な道がある、って言ってるんだよな?
気休めなんか言ったら、許さないぞ!」

シンハは、ぶるんと体を揺すった。
『我は偽りは申さぬ。仮に汝が、困難なる道を行くこと叶えば、汝は天界との宿命の戦に勝利したとして、長く魔界の歴史に語り継がれる偉大な王となろうよ』
「……天界と戦って勝てる、偉い王様になれる……って?」
御意(ぎょい)
魔界のライオンは重々しくうなずいた。

「わーい、すごいや!」
王子は喜びを満面に表し、拳を突き上げたが、それを抑えるようにシンハは続けた。
『さりとても、汝の犯した(とが)は消えぬぞ、同族殺しの王子よ』
「うん……やっぱりもう遅いのかな。
俺……この子や、クニークルス達に、ひどいことしちゃった……」
タナトスはうなだれた。

『未だ間に合おう。心から悔い、詫びればクニークルスも許そうぞ』
「うん」
ライオンに支えられて立ち上がり、彼はアルブの母親に向かって深々と頭を下げた。
「ご免なさい。もうこんなことはしない。約束するよ。許してくれる?」
しかし、彼女は悲しげに答えた。
「……申し訳ありませんが、今すぐには、王子様を許す気持ちにはなれません……」

途方に暮れた彼は、涙でぬれた瞳で女を見上げた。
「じゃあ、どうすればいい?
教えてくれよ、俺、本当に、どうしていいか分からないんだ。
やっぱり、俺なんか、いない方がいいのかな……?
お前は、俺をどうしたい? ……死ぬまで、塔にずっといろって言うんなら、そうする。
それとも、俺を殺したいか? なら……」
彼は、腰に()いた黄金(こがね)造りの剣に手をやった。

クニークルスはぎょっとし、急いで否定の身振りをした。
「お、おやめ下さい、たとえ王子様のお命を頂戴(ちょうだい)しても、アルブは帰って来ませんわ。
……では……そうですね、娘の墓に、毎日、お花を供えてやって下さいますか」
タナトスは、ぽかんとした。
「えっ、そんなことでいいのか」

「毎日ですよ、それもご自分の手で。使い魔や家来などにやらせてはいけませんよ。
そして、心から、娘に謝って下さい。
……それを一年続けて頂けたら、許せる気持ちになれるかも知れません……」
王子はこっくりとうなずく。
「うん、分かった。やる」

「そのお花も、勝手に取ってはいけません。
花畑の番人に話しておきますから、もらってきて下さい。
野の花でも結構ですが、むしり取ったようなものは駄目ですよ、優しく摘んできて下さいね」
「うん、そうする。……そうすれば、許してくれるんだな?」
すがるような彼の眼差しを避けるようにして、女はつぶやく。
「……ええ、多分……」

その日から、タナトスは、花を抱え、毎日墓に(もう)でた。
貴人の気まぐれがいつまで続くかと、初めは冷ややかに見ていたクニークルス族も、どんな悪天候の日でも、真剣に王子が墓参りを続ける姿に、少しずつ態度を和らげていった。

一年近くが経ったある日、いつものように、タナトスが大きな花束を手に森の奥に来てみると、アルブの墓の周りには、たくさんのクニークルス達が集まっていた。

「タナトス殿下がいらっしゃったぞ!」
「王子様だ!」
「今日もちゃんといらして下さった!」
彼らは口々に叫びながら、彼目がけて押し寄せてきた。
王子は顔をしかめ、叫んだ。
「なんだ、お前達は! 邪魔するな、俺は墓参りしなくちゃいけないんだから!」

その時、群がるクニークルスの中から、一人の女が出てきた。
アルブの母親だった。
「あ、お前、一体、どうなってるんだ? こいつらのせいで、約束が守れないじゃないか」
「いえ、この者達は、王子様のお邪魔をする気はまったくないのですよ。
今日はアルブの命日ですから、皆、集まってくれているのです」

(命日……そうか、忘れてた。
墓参りを始めたのは、俺があの子を殺しちゃってから、ちょっと後になってからだっけ)
タナトスがつぶやいた時、全身黒い毛で覆われた大柄なクニークルスの男が近づいてきた。
「タナトス殿下、わたくしはクニークルスの族長、アウスと申します。
アルブのために毎日花を手向けて下さったこと、感謝致しております」
族長はうやうやしく頭を下げた。
「……殺されたのに、感謝するのか、お前」
冷たく、タナトスは言ってのけた。

「い、いえ、それは……」
「分かってるよ、俺が王子だから、文句言えないんだろ。
でも、もう、絶対こんなことはしない。約束する。
そのために、毎日ここに来てたんだ。
仲間にひどいことする王様には、絶対ならないから見ててくれって、俺、アルブに誓ってたんだ、ずっと」
「タナトス殿下……」

「そうだ、俺が王になったら、今日を祝日にしてやる。
そうすれば、俺はアルブのこと忘れないし、お前達も仕事休んで、ゆっくり祈ってやれるだろ」
「もったいないお言葉です、殿下。草葉の陰で、アルブも喜んでおることでしょう……」
「さあ、もういいだろ。
──お前ら、どけよ!」
タナトスが叫ぶと、クニークルス達はさっと左右に分かれて彼を通した。

皆の注目を浴びながら、墓に歩み寄って片膝をついて花を置き、ひざまずいて彼は祈りを捧げる。
それが済むと彼は立ち上がり、隣で同じように祈っていたアルブの母親に言った。
「俺、これからも毎日来るからな」
「いいえ、そんな……もう、命日だけで結構でございます」
彼女は首を横に振った。

「……だって、一年って約束だろ、そしたら許してくれるって」
「もうとっくに、あなた様のことは許していますよ」
女は微笑んだ。
「そっか、よかった」
タナトスも笑みを返す。

「じゃあ、ここにいっぱい花を植えてやろうか、そんなら、俺が来なくても、花がいつもあってきれいだろ。
──そうだ、ついでに公園みたいにしたら、皆が来やすくなって、アルブも淋しくないよな?」
「ありがとうございます、王子様!」
アルブの母を筆頭に、クニークルス達は一斉に片膝をついて、彼に臣下の礼を取り、声を上げた。
「王子様万歳!」
「タナトス殿下万歳!」

蓋然(がいぜん)

事象が実現されるか否か、またはその知識の確実性の度合。確からしさ。数学的に定式化されたものを確率と呼ぶ。プロバビリティー。

道を()る者は助け多く道を失う者は助け(すくな)

《「孟子」公孫丑下から》徳を体得した人は、自然に人民の協力も得られるが、道にそむいた人は援助協力も少なく、人心が離反する。