「父上ー? 叔母上、どこー?
二人共、書斎にも、部屋にもいない。どこ行っちゃったんだろう……」
それは、タナトスが五十歳(人間の五、六歳)になったばかりで、母、アイシスの国儀が済んで間もなくのことだった。
母恋しい気持ちを持て余し、父か叔母に会えば気が紛れるかと、広い汎魔殿を探し歩いていたタナトスの耳に、上ずった声が飛び込んできたのは。
「
(叔母上だ……でも)
いつもと違う緊迫感の漂う声に、彼はとっさに物陰に隠れ、そっと様子をうかがう。
父ベルゼブルとイシュタル叔母が、人目につかない回廊の一角で、押し問答をしていた。
「いいや、あれは──タナトスは、“心を持たぬ子”!
いかに教え
「どうして、そんなことを……母親を亡くしたばかりの幼な子を、父親であるあなた様がお見限りなさるなんて、一体、どうなさったというのですか!?」
イシュタルが詰問すると、突如ベルゼブルはうなだれた。
「……余とて、我が子を見捨てたくなどはない……。
なれど、これはアナテ女神直々の予言、変えることのできぬ宿命なのじゃ……。
“第一王子サタナエルは、心を持たずして生を受けし子。
冷酷無惨なる王に支配される魔界……もはや未来は、闇に閉ざされたも同然と申してよかろう……」
「そ……そんな……」
イシュタルは青ざめた。
『心を持たぬ子』。『血塗られた君主』。『冷酷無惨なる王』。『魔界の未来は、闇に閉ざされたも同然』。
父王の吐き捨てるような言葉、そして女神が予知した……定められてしまった自分の未来。
(俺は……そんなひどい王様にしか、なれないんだ……)
思いもよらない過酷な宣告に衝撃を受け、その場に座り込みそうになった幼い少年に、追い討ちをかけるように、ベルゼブルは続けた。
「それゆえ、第三子が入り用じゃ。イシュタル、新たなる我が妃となれ!」
「ええっ、な、何を仰るのです!? サマエルという第二王子が生まれたばかりでしょうに!
第一、まだ、
父親が叔母の腕を捕らえて壁に押し付け……そして口づける。
二人の様子を、タナトスはもう見ていられなかった。
(──ムーヴ!)
彼は口の中で移動呪文を唱え、汎魔殿の前庭に出る。
たしかに、母の葬儀の時も涙は出なかった。
だが、それは、あまりに悲し過ぎ、母の死を信じられないせいだと思っていた。
(泣けなかったのは……俺に、“心がない”から……だったんだ)
タナトスは、激しく身震いし、もう汎魔殿にはいられないと思った。
同族殺しを楽しむ、残虐な王……自分は否応なくそうなってしまうのだ。
だが、そんな王が支配する国など、幼い彼が考えても、いい国であるわけがなかった。
夢遊病者のようにふらふらと
様々な毛色のクニークルス族が、熱心に畑仕事をしている。
頭頂部に長い耳を持ち、柔らかな体毛に覆われていることで、ウサギを連想させるこの一族は、植物を育てることに
タナトスは、せっせと働く彼らをぼんやりと見つめていたが、その眼は、どうしても家族連れに向けられてしまうのだった。
農作業で鍛えられた、がっしりとした体格の父親、それを手伝う母親、そして子供達がその周りを楽しそうに跳ね回っている……。
「あ、王子様」
「タナトス殿下、このたびは、まことに……」
彼に気づいたクニークルス達が、次々声をかけてくる。
「……ああ、うん」
口の中でもぐもぐと適当に返事をしていた彼は、自分より少し年かさの少女が一人、カゴを持って人々から離れていくのに眼を止めた。
不意に、彼はなぜか、彼女についていきたい衝動に駆られた。
そっと後をつけても、相手はまったく気づかない。
周りに人影がなくなったところで、彼はいきなり、クニークルスの前に飛び出した。
「きゃっ……あ、王子様。どうなさったのですか?」
無邪気に尋ねる少女の可愛らしい顔を見つめるタナトスの心に、そのとき突如、父親の言葉が
来た。
『タナトスは、同族殺しを楽しむ、血塗られた君主となる』
彼は息を呑み、それから大きく吐き出す。
(俺が大きくなったら、どうせそんな王様になっちゃうんだ……なら、今からやったって……!)
「王子……様?」
不審そうな少女の声を耳にした瞬間、彼の中で何かが崩れた。
「──うわああああっ!」
叫び声を上げ、タナトスは少女に襲いかかった。
「きゃあっ!」
クニークルスの動きは、ウサギ同様、素早い。
王子の鋭い爪をかいくぐり、少女は逃げ出した。
「待て!」
タナトスは、コウモリ状の翼で追いすがり、上空から攻撃を仕掛けた。
「やめて下さい、王子様!」
逃げ惑う少女を、菜園から離れるように仕向ける。
やがて木々が増え、うっそうと茂る森の中へと獲物を追い込むと、彼は地上に降りた。
「助けて! 誰か!」
少女は必死に叫ぶものの、その声は深い森の中へと吸い込まれ、虚しく消えるのみだった。
そうやってどれほど追いかけ回していたものか、タナトスはついに、一本の大木の前に獲物を追い詰めた。
「お、王子、様、やめて……やめて、下さい、お願い……」
荒い息をしながら少女は哀願する。その顔は恐怖で引きつり、体も激しく震えていた。
「──うるさい、死ね! 死んでしまえ! お前なんか、お前なんか!」
怒鳴りつけ、鋭い爪で彼は少女の胸をえぐった。
「……お母さん……」
少女は、かすかに声を上げ、ぐったりとなった。
しばし歪んだ笑みを浮かべ、息絶えた獲物を木に押し付けていたタナトスは、胸から指を引き抜くと同時に、正気に返った。
「あ、あ、……お、俺……ああ……」
血まみれの手、服についた返り血。それを眼にした彼は、もう後戻りできないと思った。
「あはは、やっぱり、予言は本当なんだ。俺には、心なんか、ない……。
こんなことだって……平気でできるんだから……あははは」
笑いながら、彼の眼からは、止めどなく涙が流れていた。
それから、タナトスは、“ウサギ狩り”と称して、憑かれたようにクニークルス族を狩った。
初めは、姿を見られないよう慎重に行動していた彼も、徐々に警戒心が薄れていき、しまいには無差別に彼らを襲い始めた。
一月ほどが経ち、二、三十人も殺した頃には、彼の仕業ということが露見して、とうとう捕らえられたが、父ベルゼブルは、彼を見ようともせずに、“魔封じの塔”に幽閉させた。
魔族にとって不吉な色である白に塗られた“魔封じの塔”は、反逆した貴族などを
どちらも、入ったら最後、二度と出て来られないとされていたからである。
「出せよ、ここから!
俺は、もっと殺したいんだ! あいつらを皆、殺してやる!
切り刻んで、肉の塊にしてやらなきゃ、気が済まないんだよぉ!」
高い塔の窓から声をからして叫んでも、結界に阻まれて外に声は漏れない。
「畜生……畜生、こっから出せ!」
第一王子は、魔力を封じる鉄格子をつかみ、泣き叫んだ。
「タナトス、お腹が空いたでしょう。さあ、ご飯よ。それとも精気の方がいい?」
「いらない」
三度三度、叔母がきちんと食事を運んで来てくれるものの、彼はまったく手をつけず、精気も拒んだ。
「何があったのか話してくれないこと、タナトス?
お前は、理由もなくあんなことをする子じゃないわ。
……ねえ、こっちを向いて」
「うるさい。俺に構うな、あっちへ行け、くそばばあ!」
「タナトス!」
イシュタルが話を聞こうとしても、第一王子は膝を抱えてうずくまり、
父親と彼女のやりとりを見てしまった彼は、もはや叔母に心を開く気にはなれなかったのだ。
(大人は汚い。俺はもう、大人になんかなりたくない。
だって……大人になったら、俺は……。
ここに、ずっといた方がいいのかも……)
彼はうつむき、鼻をすすった。
数日後。
『サタナエルよ』
厳粛な声が、室内に響いた。
空腹のため、起き上がる気力さえなくなっていた彼の前に現れたのは、今日はイシュタルではなく、炎のたてがみを赤々と燃え上がらせた魔界の獅子だった。
「……なんだ、シンハ、お前か……」
『者どもは、汝の処置に苦慮しておる。現状のまま塔に幽閉致しておるか、さもなくば……』
「……処刑するか?」
『左様』
ライオンはゆっくりとうなずく。
「いいよ。処刑でも何でもすれば。どうせ、俺は……」
『何ゆえ汝は、左様に自暴自棄になっておる?』
シンハは
「何だっていい。もう、どうでもいいんだ。
俺なんか、死んじゃえばいいんだろ、皆……父上もそう思ってるんだ、さっさと殺せよ!」
タナトスは毛布を引っかぶるとライオンに背を向け、固く眼をつぶった。
『サタナエルよ。汝が
不意にシンハが言った。
「えっ……!?」
彼は反射的に毛布を跳ねのけ、魔界のライオンと顔を合わせた。
「で、でも……だって、俺が殺した奴らは皆、お前か“黯黒の眸”が生き返らせたんだろ?」
眸達には、死んだ者を生き返らせる能力があることを、彼は父王から聞いて知っていた。
それもあって、クニークルスを狩ることに罪悪感が薄かったのだ。
『
──エフギウム!』
タナトスの同意も待たず、魔界の獅子は彼を塔から連れ出した。
一月前、彼がクニークルスの少女を追い回して殺した森の奥、大きな木の根元に、粗末な墓標が一つ、ぽつんと建てられていた。
「こ、これが……ホントに?」
『左様。汝が殺めた娘のものだ』
「ああ……」
タナトスが、墓の前にがくりと膝をついたそのとき。
「お、王子様!
アルブが……娘が何をしたというのでしょう……問答無用でお手打ちされるほどの罪とは、一体何だったのでございますか……!」
花を手にした、一目でクニークルス族と分かる女が駆け寄って来た。