~紅龍の夢~

番外編 汚けがれなき唇 ~Innocent Lip~ (2)

黔龍(けんりゅう)城の中庭に二人は着いた。
戦略を練ることに()けたサマエルも、今回ばかりはさすがに、かなり難しいことになるだろうと覚悟し、無意識に大きく息を吸い込む。
「お師匠様?」
「大丈夫だよ、ジル。タナトスに声をかけるから、ちょっと待っておいで」
サマエルは、不安げな新妻に微笑みかけると、兄に念話を送った。

“タナトス。大事な話がある、城に入ってもいいか?
実は、もう黔龍城の中庭まで来ている……ジルも一緒だ”
“き、貴様っ、どの面下げて……今さら、話だと!? ふざけるなっ!”
(ぎし)りをしているように響く第一王子の心の声が、空間を越えて伝わって来る。
やはりと思いつつも、なだめるようにサマエルは続けた。

“落ち着け、タナトス。
ジルが選んだことだ。彼女の意思を尊重することに、お前も同意しただろう?”
“うるさい、この、人殺しの泥棒猫めがっ!”
“待って。ともかく、お城に入れてくれない?
ね、タナトス? あたし、あなたに会ってお話したいの”
ジルが話に割り込むと、タナトスは一瞬黙り込み、それから言った。
“……応接間に来てくれ。そこで話そう”
“分かったわ”

「……やっぱりタナトス、すごく怒ってたわね、お師匠様」
ジルは心配そうに、サマエルを見上げた。
「そうだねぇ。ともかく、キミがいてくれてよかったよ、ジル」
(どうやら、私を痛めつければそれで気が済む、といった次元を超えてしまっているようだな、今度という今度は……。
まあ、こんな死に損ないに女性を取られたとあっては、プライドが許さないのだろうが)
サマエルは(ひと)りごちた。

「でも、お師匠様……この前来たときとは、全然感じが違うみたい……何だか怖いわ」
黔龍城の中を進むに連れ、ジルは徐々に元気を失い、しまいには、怯えたようにサマエルにしがみついた。
それもそのはず、以前パーティが開かれた時には明るく爽やかに感じられた城の中が、今は薄暗く沈鬱(ちんうつ)で、さらに、おどろおどろしい雰囲気さえ(かも)し出していたのだ。

「魔族の住居はね、主の意思を反映してしまうのだよ。
あいつが激怒しているから、こんな……入って来る者を拒むような風になってしまっているのだろうね……」
「……そうなんだ。でも、なんか、怒ってるというより、悲しそうなカンジよ。
まるで、このお城、泣いてるみたい……」
そう話すジル自身も、悲しげな顔をしている。

サマエルは心底驚き、非常に珍しいことだったが、声も上ずった。
「な、泣いている!? あの、自信過剰のタナトスが!?」
「うん……」
「悔し泣きか? ……まったく、子供の頃から進歩がないな……」
ため息混じりに彼がつぶやくと、ジルは首を横に振った。

「違うよ。淋しくて、悲しくて、一人ぼっちだと思って泣いてるの」
「悲しい……一人ぼっち? まさか、あいつが」
サマエルは絶句した。
「でもねぇ、お師匠様。
タナトスは、自分がそんな風に感じてるってこと、分かってないよ。きっと」

「……ふうむ。
悲しみを表現する代わりに、怒ってしまう者がいる、とは聞いたことがあるけれど……」
第二王子は当惑していた。
普通ならば、年齢と共に精神の方も育ってしかるべきだというのに、兄王子の感情は、幼少の頃からほとんど成長していないように感じられる。

ジルは、小鳥のように小首をかしげた。
「……タナトスも、悪いヒトじゃないんだけどねぇ……」
「そう……だろうか」
「うん、そうよ」
彼女は真面目な顔でうなずく。

ともかくも気を取り直し、彼は言った。
「それはさて置き、あいつには下手に出た方がいいだろうね。
今までの経験上、説教めいたことを言うのも逆効果だと思う。
改めて私達の結婚の許可をもらいに来た、と言うのが一番無難だと思うけれど……」
「そうね。それしかない……かもね」
同意する妻の表情には、どこか思い詰めたものがあった。
しかし、タナトスをどう説き伏せるかで頭が一杯だったサマエルは、それには気づかなかった。

不気味な回廊をいくつも抜け、彼らはついに応接室に着いた。
「……来ちゃったね」
「そうだね……」
二人は顔を見合わせた後、一呼吸置いてサマエルが、大きな一枚板で作られた豪華なドアをノックする。
返事はなかった。

「まだ、来てないのかな……」
「そのようだ。ともかく、中に入ろう」
彼らはドアを開け、広い室内へと足を踏み入れた。
黔龍城の応接間は、例えようもないほど(きら)びやかだったが、その華麗さも、今の彼らの眼にはまったくといっていいほど映ってはいなかった。

「……やっぱり来てないね、タナトス」
「心を決めかねているのだろう……私達をどう扱うか。
あいつが来るまで、時間がかかるかも知れない。座って待とう」
サマエルの言葉に、ジルは首を横に振った。
「ううん。あたし、立ってた方がいい」
「そうか。では、お茶でも……」
言いかけた時、乱暴にドアが開き、タナトスがずかずかと入室して来た。

「あ、タナトス……」
「聞いてくれ、タナトス。私達は、改めて結婚の許可をもらいに来た」
先手を打ってサマエルが言うと、第一王子は二人をぎろりと見た。
「……結婚の許可だとぉ?」
頬がこけて顔の輪郭が細くなり、いつにも増してタナトスの目つきは鋭くなっている。

「そうだ。お互いに納得出来ていないと、後々まで尾を引きそうだからね」
「そうよ。だってあたし、二人には、これ以上仲悪くなって欲しくないから」
「ふん……」
あうんの呼吸で話し出す弟夫婦を見据える兄王子の瞳には、以前にはなかった暗い影がたゆたっている。

ややあって、タナトスは、気を落ち着かせるかのように眼をつぶり、大きく息をした。
「……それほどに、俺の許しを得たいと言うのであれば、三つ、条件がある」
「条件……?」
意外に冷静な兄の態度に幾分安堵して、サマエルは尋ねた。
「そうだ、それを飲む気があるなら、考えてやってもいいぞ」
「言ってくれ、タナトス」
「そうだな……まず一つ目は……」

サマエルとジルは息をつめて、第一王子の次の言葉を待ち受けた。
タナトスは眼を開け、言った。
「サマエル、貴様が、オレを“兄”と呼ぶことだ。
いつまでも“お前”呼ばわりや呼び捨ては、腹立たしい限りだからな」

ほっと二人は肩の力を抜き、サマエルは片ひざをついて、身分の高い相手に対する正式な礼をする。
「しかと(うけたまわ)りましてございます、“兄上”。
……して、次なる条件とは、いかなるものでございましょうか」

その弟を満足気に見下ろして、タナトスは続けた。
「二つ目は、貴様の魔力を封じることだ! 永久にな……!」
「ええっ! そ──そんな、ひどい!」
過酷な条件を聞いても、サマエルは表情一つ変えなかったが、ジルは真っ青になった。

「そう、キミに何かあってももう、ヤツは助けることは出来ない。
それどころか、自分の身を守ることすら、覚束(おぼつか)ないだろうな。
神族どもに捕らえられ、幽閉でも処刑でも、されてしまうがいいのだ!
あーはっはっは──!」
タナトスは高笑いをした。

「お願い、それだけは……! 考え直して、タナトス……」
必死に頼み込もうとする新妻を、サマエルはさえぎった。
「ジル、それでいいよ。
キミと結ばれることが出来るのなら、私は、魔力のない普通の男として生きよう」
「お、お師匠様……」
ジルの瞳が(うる)む。

「よく言ったな、我が弟よ。いい覚悟だ。
だがそれは無理と言うものだぞ、よっく考えてみるがいい。
ジルが、人間の寿命を(まっと)うしてしまった後、残りの二千年近くを魔力なしで過ごさねばならんのだ……人族の寿命は、百年がいいところだからな。
それを分かった上で言っているのか?」
緋色の眼を冷たく光らせ、タナトスは尋ねた。

「それはよく分かっています、兄上。
しかし、彼女が生きている限り一緒にいたい、それが私の願いです。
そのためなら、魔法が使えなくなっても、一向に構いません」
サマエルはきっぱりと答えた。
「だ、駄目よ、お師匠様、そんなの……あたしなんかのために……!」
うろたえるジルに、彼は優しく微笑みかけた。
「気にしなくていい、ジル。私が決めたことなのだから」

「ふん、安っぽいメロドラマだな、まるで!
まあいい、では、最後の条件を言うぞ、よく聞け!」
突き放すようなタナトスの言葉に、どきりとして二人は寄り添う。
そのまま彼らは固唾(かたず)を呑んで、兄王子の出す、次なる条件を待ち受けた。