「禁忌の魔法の使用に伴い、こことキミの世界の間には歪みができている。
それを修復しようとする力を促進するのが、一方の死だ。
……つまり、キミが死ねば、労せずして彼は戻って来られるのだよ」
モロスは淡々と言ってのける。
「そして、今回のことを企んだ天使は、イサム殿の死を、魔界への侵攻の口実とするつもりだったのでございます。
天界は魔界に、人族への干渉を禁止する掟を押し付けておりましたので」
マステマも付け加えた。
彼らの話を聞くうちに、僕の体は、がくがくと震え出した。
「な、何だか、理屈はよく分かんねーけど!
そいつは、僕が殺されるのを知ってて、イーサと取り替えたってのか!」
「そういうことになりますね」
天使は、大したことがなさそうにうなずいた。
(……そ、そんな……じゃあ、僕は、生きて帰れないのか!?
イヤだ、まだやりたいこと、たくさんあるってのに!)
頭の中が真っ白になり、マステマの声はもうそれ以上、僕の耳に入って来なかった。
「ですが、この案は、“無用の反発を招くだけで、現実的ではない”として、かなり以前に却下されたのでございますよ。
今は大人しくしている魔界を、いたずらに挑発することは避けた方がいいと」
まだ、彼はしゃべってたんだけど、僕は僕の思いに浸り込んでしまっていたんだ。
(殺される……僕はココで死ぬ……!
そして誰も……ジイちゃんも友達も、僕がどこでどうして死んだかってことを知らない……ってか、死んだことすら分かんないワケで……。
そっか、モロスは悪魔だ。油断させといて、ホントは僕の命……だか魂だかを狙ってたんだ!
マステマも堕天使だって言ってたし、ヴェガだって……恋人を助けるためなら、僕の命なんか……。
あー、どーしよう……! どうしたらいいんだよ!?)
唇を噛んで周囲を見回すと、大きな窓が目に付いた。考えるより先に、僕の体は動いていた。
窓に駆け寄り、勢いよく開ける。外はバルコニーになっていた。
バルコニーの端で下を覗く。
……げげ、すごく高い! 何階なんだかとっさには分からないけど、二階以上なのはたしかだ。
吹き上げてくる風が、やけに冷たい。
(飛び降りたりしたら死んじゃいそうだ……でも、このまんまココにいて、確実に殺されちまうよりは!
──あ、ツタが生えてる、これにつかまって降りよう!)
後ろから呼ぶ声が聞こえような気がしたけど無視し、僕は手すりによじ登ると、思い切って、城の外壁に絡みつくように伸びてるツタに飛びついた。
でも。
ツタが切れる嫌な音が周囲から聞こえてきて、降りようとするより早く、ずるずると体が下がっていく。
……よく考えたら、こんな細いつる草なんかに、人間の体重が支えられるわけがなかった。
──ぶちぶちっ!
すぐに、つかまってたツタが全部音を立てて切れ、僕は空中に放り出された。
「ヤバイ!」
懸命に手を伸ばしたけど、虚しく空をつかんだだけで、僕はものすごいスピードで落ちていく。
(こ、これじゃ地面に激突、ぺしゃんこだぁー!
自分で命縮めてどぉすんだよぉ、このバカー!)
こんな時だってのに、ひとりツッコミ入れながら、自分の軽率さを思いっきり後悔してるドジな僕。
そのときだった。
──バササ……ッ!
大きな羽音が聞こえて、落下が止まった。
「……やれやれ。キミも慌て者だねぇ……。
さっきのは、“最も簡単”というだけで、他の方法もちゃんとあるのだよ。
人の話は、最後までちゃんと聞きたまえ」
気づくと、コウモリみたいな翼を広げたモロスが、僕を抱き止めてくれていた。
「ホ、ホントに?」
「もちろんだとも。でなければ、こうやって助ける必要もないだろう?
まあ、それしか方法がないとしても、殺せはしないけれどね……キミは私の、もう一人の息子なのだから」
言いながら、彼は力強く羽ばたき、軽々と僕を元の階まで運び上げた。
そこは、なんと、四階だった。
あのまま落ちてたら、間違いなく即死だったな。
下には、クッションになりそうなものとかなかったし。
そう思ったら、全身から汗が噴き出してきた。
「もう一人の息子……? どういう意味さ?」
そっと抱き下ろされはしたけれど、僕の震えはまだ続いていた。
「先ほど言った通り、イーサは息子も同然。
そして、キミは、別世界に生まれた彼なのだろう、白い悪魔達に襲われなかった世界のね。
環境は違うが、二人は運命共同体……同じ運命をたどるはずなのだ。
つまり、キミが死ねば、当然、イーサも生きてはいない……」
モロスは僕を見つめ、静かに言った。
(そ、そうだったんだ……)
思わず僕は口に手を当てた。
「か、勝手に勘違いして、ごめん。僕って、ホントおっちょこちょいで、考えなしで……」
ぺこぺこ頭を下げる僕に、悪魔そっくりの姿をしたモロスは、悲しげに首を振ってみせた。
「こちらこそすまない、こんな姿を見せたのがいけなかった……だが、これすら仮の姿。
私の
「えっ、さらにおぞましい…本性……?」
眼を見張る僕には答えず、彼は呪文を唱えた。
「──ファンタズ・マ・ゴーリア……!」
途端に、モロスの角や翼は消え失せた。
「……さあ、これで怖くはないだろう?
キミにとって私は化け物かもしれないが、危害を加える気は毛頭ない……信じてはもらえないだろうか……」
人間に近い姿になったモロスの、すごく悲しそうな眼差しが、ちくちくと僕の胸を刺す。
胸元に揺れるペンダントの宝石までも、少し色あせたみたいに見える。
いたたまれずに口を開きかけた、その時。僕はあることに気づいて、恐怖心の名残も吹っ飛んでしまった。
「そっか、やっと分かったぞ! あんた、ジイちゃんの若い頃に似てるんだ!」
「……なるほど、そちらの世界の私は、キミの祖父というわけか……」
モロスは、大して驚いた風でもなかった。
僕は頭をひねった。
「そう……なのかなぁ? ジイちゃんはたしか……えっと、五十過ぎだったっけ。
今も現役のマジシャンで、二十も若い奥さんもらって張り切ってるよ。
『自分は夢をつむぐ者だ』ってのが口癖でさ」
僕が言うと、モロスは不思議そうな顔をした。
「キミの祖父が……
「えっ、ああ……あっちの世界の“マジック”ってヤツには、色々な仕掛けがあるんだ。
それを、いかに本物の魔法みたく見せるかが、腕の見せ所なわけさ。
世界中でショウをやった時の写真を見せてもらったことがあるんだけど、その中にあんたにそっくりなのがあったのを、たった今、思い出したんだよ。
……あ、写真……って分かる?」
「……人の姿を写し取ったもののことかな。似たようなものはこちらにもあるよ。
原理が同じかどうかは、分からないが、“焼き絵”と呼ばれている」
僕は首をかしげた。
「……よく分かんないけど、違うんじゃない……かなあ?
あっちの世界は、科学が魔法の代わりになってるんだし」
「なかなか興味深いね……。もっと詳しく聞きたいところだが、支度ができたよ」
モロスは後ろを振り返った。
「え? 支度って、何の?」
僕はきょとんとした。
「さ、こちらの魔法陣にお入りください、イサム殿。
もちろん生きたまま、元の世界に帰して差し上げますよ」
天使がいたずらっぽい笑みを浮かべ、僕を手招きしていた。
見ると、青い光を発する魔法陣が彼の後ろにできていた。
僕が独りでバカやってる間に、イーサと僕を入れ替える準備はとっくに終わっていたんだ。
僕はうれしくて飛び上がった。
「やった、ついに帰れる!
そうだ、天界との戦争、勝てるといいな。応援してるからって、イーサにも言っといて」
「ありがとう、必ず伝えるよ」
浮かれ気分の僕に、モロスが微笑みかける。
そうすると、ジイちゃんに笑いかけられてるみたいで、ちょっと不思議な気分。
「いつかきっとキミに、夢で我らの勝利を知らせることができるだろう。私もまた“夢をつむぐ者”
……つまり、夢魔だから……ね」
「うん、楽しみにしてるよ。それに僕、モロスのこと、化け物だなんて思ってないから」
僕が彼に笑みを返すと、モロスの微笑は深くなった。
「さて、後はこの呪文を唱和することで、お二人を元にお戻しできます。
いかがでしょう、モロス様、少々難解ですが……」
マステマは、古びた革表紙の大きな魔法書を取り出して、モロスに手渡した。
「581ページ、第5章の項目2です」
「分かった」
彼はそれを机に置き、目的のページを開くとざっと眼を通した。
覗いてみたけど、見たこともない文字が並んでいて、全然読めない。……当たり前か。
やがて彼は眉を寄せたまま、顔を上げた。
「ふぅむ……さすがは禁忌の呪文。……一筋縄では行きそうもないね。特にここの発音が……」
彼は、呪文の一節を指で示した。
「そ…そんなに難しいのか? 今になって、帰れないなんて言わないでくれよ?」
彼の様子に、僕はちょっと心細くなってしまった。
モロスは難しい顔をやめ、またもにっこりした。
「心配無用だよ、歯が立たないほどではない。魔界王家にも、禁呪の書はいくつか伝わっているからね。
さあ、お別れだ、イサム。あちらの世界で元気で暮らしなさい、息子よ」
彼は手を差し出し、僕らは固く握手をした。
「うん、ありがとう!」
「さようなら、イサム。体に気をつけてね」
ヴェガが、ほっぺたにキスしてくれて、僕はまたちょっとドキドキ。
マステマは優雅にお辞儀をした。
「イサム殿、お会いしたばかりでもうお別れですが、お達者でお過ごし下さいませ」
「うん、さよなら。皆も頑張ってな。絶対勝てるって、信じてるぜ!」
僕は手を振り、足取りも軽く、新しい魔法陣に入った。
「では、始めよう」
モロスが言い、マステマがうなずく。
「はい」
天使とは呼べない天使と、悪魔とは呼べない悪魔は、二人一緒に呪文を唱え出した。
「異種なる
イサムとイーサ、取り違えられたる
──レディーレ・レウェルティ!」
魔法陣の光の点滅が激しくなり、徐々に辺りがぼやけてくる。次いで景色がぐるぐると回転し始め、僕の意識は遠のいていった。
そうして、次に目覚めた時、僕はあっちの世界のことをすべて忘れてしまっていたんだ。
……でも、なぜ、忘れちゃってたんだろう?
モロスがやったのか、ひょっとして?
それとも、僕が彼を怖がっていたから……?
「……あ、そっか。さっきの夢は、魔族が勝ったぞって知らせだったんだな、よかった!」
間抜けな僕は、今になってようやくそれに気づいた。
「あっと、いっけね、講義に遅れる! 落としたくないんだよな、この教科!」
大急ぎで僕はズボンに足を突っ込み、ディパック背負うとパンをくわえ、アパートを飛び出した。
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その後も時々、僕は夢を見た。
あるときは、僕そっくりなイーサと一緒の、ヴェガの輝くような笑顔。
別の日には、モロスと赤毛の美女──多分奥さんだろう──のツーショット。
ある月には、赤ちゃんを抱いた奥さんと、微笑みながら二人を見つめるモロス。
別の年には……誰かの結婚式。
よく見ると、花婿はマステマだ。彼の奥さんは、やっぱり美人だったけど、黒い翼の……魔族だった。
初めのうちこそ、夢の中の彼らがうらやましかったけれど、あれから何年も経った今では、そんなことは全然ない。
彼らは自分で運命を切り開いて、幸せを勝ち取ったんだしな。
それに、僕だって……こっちの世界での戦いってもんがある。
彼らほどじゃなくても、そこそこ頑張ってるしさ。
でも、ジイちゃんときたら、時々、今はどこどこにいるって絵葉書が舞い込むくらいで、ここ数年は、日本にさえ帰って来てない。
……ま、モロスのことを考えると、ジイちゃんも、奥さんのことでなんかあったのかもしれない。
今日は、彼女も一緒に来てくれてるはずだから、訊けるかもしれないな。
そう思いながら、ベッドで伸びをしたとき、ドアがノックされた。
「はい?」
返事と一緒に、ドアが開いた。
「まあ、今起きたの? イサム。相変わらずね。
やっぱり迎えに来てよかったわ、花婿が式に遅刻したら大変でしょう」
「……え、ライラ、もうそんな時間かい?
わ。ホントだ、急がないと!」
僕は布団をはねのけた。
そう、僕も今日、結婚する。
今入って来た女性、八歳年上で、しかもヴェガにそっくりなライラが、僕の奥さんになる。
だから、今度は僕らの番だ。
二人でつむいでいこう。ささやかだけど、僕らにしかつむげない夢を。
THE END.