~紅龍の夢~

番外編 夢つむぎ(3)

「ご懸念(けねん)はご無用でございます、皆様」
その声と共に、純白のローブをまとった人影が、魔法陣から歩み出た。
頭上に輝く金の輪、背中に生えた白鳥みたいな翼、その間を滝のように流れ落ちるまぶしい金髪、整った顔立ち……アクアマリンの瞳は、見つめていると吸い込まれてしまいそうだ。
一目で天使とわかる姿に、モロスはさっと表情を引き締めた。
「来たか、マステマ」

天使は、うやうやしくお辞儀をした。
「はい。お久しぶりでございます。
魔界王弟“(くれない)の貴公子”モロス殿下、並びに、ファイディー王国女王、ヴェガ・ボウナ・ファイディーズ十二世陛下。
ご両名様には、ごきげん(うるわ)しく……」
(へー、モロスは魔界の王様の弟だったのか。
どーりで気品があるって言うか、ヴェガとお似合いだったわけだ……)
彼の言葉に、僕は独りで納得していた。

それから、天使は僕に向かって礼をした。
「……お初にお目にかかります、異界から参られた少年よ。
わたくしは、()天使マステマと申します、どうぞお見知りおきを」
「あ、ど、どうも。僕、イサムです」
天使なんてものに初めて会った僕は、どうしていいか分からずに、ただぺこぺこしてしまう。

そしたら、天使はいきなり片膝を付き、金の髪が床に這うほど深く頭を下げた。
「ではイサム殿、並びに皆様、こたびは多大なるご迷惑をおかけ致しまして、幾重にもお詫び申し上げます」
「……へ?」
面食らってる僕に構わず、天使は続ける。
「今回の件は、功を焦った最下級天使が先走ったものにございます。天界を代表し、謝罪に参りました。モロス殿下、魔界を()べる偉大なる王、黒龍王カロン陛下へも、どうぞ、よしなに」

すると厳しい顔のまま、モロスが答えた。
「うむ。天界は遺憾(いかん)の意を表し、無条件で“朱の貴公子”イーサを解放すると誓約した。
──そのように、兄カロンには伝えればよい、ということだな?」
天使は顔も上げずに答えた。
御意(ぎょい)。原因は天界の監督不行き届にございます、条件を付けられる立場ではございません。
むろんイサム殿も、すみやかに元の世界にお送り申し上げます。
……すでにその天使は捕えられ、違命(=命令違反)の罪で、処刑される予定になっておりますので」

「やったー、帰れるぞ!」
「二人とも戻れるのね!」
僕とヴェガは手を取り合って喜んだ。
モロスもやっと表情をゆるめた。
「それは何よりだ。
ご苦労だったな、マステマ、立つがいい。これで“天使”としての用向きは済んだのだろう」
「ではお言葉に甘え、失礼致します」
マステマは優雅な仕草で立ち上がり、白いローブのチリを払った。

「……しかし、てっきりミハイルが仕組んだものと思ったのだが?」
モロスが尋ねた。

「は。まこと、あの愚劣な大天使めの考えそうな企てではあります。事実、こうなったからには異界へ(おもむ)き、イーサ殿下を捕えて封じるべきだとあやつは主張致しました。
ですが、賛同致す者はごくわずか。異世界とは言え、人間を利用したとあっては、天界の威信が損なわれるとする者が大半でございました。
──なに、単に、モロス殿下のお怒りが恐ろしいだけのことでございましょうな」
マステマは軽蔑し切った表情で、肩をすくめた。
「おやおや……みずからを神と名乗る尊大な者どもにしては、柔弱(じゅうじゃく)なことだな」
モロスは、紅い眼を冷たく光らせ、唇だけで笑ってみせた。

天使はさらに続けた。
「元々、汚れ仕事は我らに押しつけ、永年惰眠(だみん)をむさぼっていた(やから)でございますからな。
世界の終焉(しゅうえん)を意味する、あなた様の怒りに、及び腰になっておるのでございますよ。
ですが、あの尊大なミハイルが参っては、まとまる話もこじれるのは必定(ひつじょう)
天帝より、全権を委任するゆえ事態を収拾せよとの命が下り、こうして参上致しました」
マステマは胸に手を当て、軽く会釈(えしゃく)した。

モロスは微笑んだ。
「情けない限りだが、それはそれで好都合だ。我らとて、今は事を荒立てるつもりはない。
あと少しで、準備はすべて整うのだから」
「おお、では、いよいよでございますか!」
天使は青い眼を輝かせた。
「そうだ。間もなく我らは、真の自由を手に入れる!」
モロスは力強く拳を握る。
「素敵、待ち遠しいわ……!」
「……感無量でございますなぁ」
ヴェガは頬を染めて、うっとりとした口調で言い、天使は極上の笑みを浮かべた。

僕には彼らの話がまったく見えない。……まあ、当然っちゃあ当然だけど。
そこで、訊いてみることにした。
「なあ、盛り上がってるトコ悪いんだけどさ、何でその天使、こんなことしたんだ?
聞いてると、色々あるみたいだけど」
「……ああ……そうか、キミは何も知らないのだったね」
モロスは、僕のことを忘れてたみたいだった。
「うん。聞く権利くらい、僕にもあるよな? 
勝手に連れて来られてさー、訳も分かんないまま帰されるなんて、あんまりだぜ?」

モロスはうなずいた。
「……たしかにそうだね。無関係なキミを、我らの争いに巻き込んだことはすまなく思っている。
少し長くなるが、説明しよう。
……長い年月、魔界と天界は反目しあってきた。それが今回の主たる原因でもある。幾度か全面対決したこともあるが、今までは我らは敗北の連続だった。
これまでは常に天界が侵攻してきた。次は有利な時期を見計らって、こちらから仕掛けようと準備を急いでいるところだ。今度こそ、互いの存亡を賭けた戦になるだろう……。
だが、そもそもの責任はすべて天界にある」
僕は首をかしげた。
「ふうん、そうなのか? ああ、あっちから仕掛けてきたって言ったもんな」

「そう。現在、天使や神々……神族が住んでいる“天界”と呼ばれるところは、元々我ら魔族の住処(すみか)だったのだよ」
「えっ、あんたらの!?」
びっくりの連続に、僕は眼を丸くした。
「そうだ。遥かな昔、我らの先祖は、楽園のような地、“天界”で穏やかに暮らしていた。
……ところがある時、天空の彼方から、ヤツら白い翼の悪鬼どもが来襲し、我らは帰りゆくところを失ってしまったのだ……」
天を仰ぐモロスは、すごく悲しそうだった。

「へえ、僕のいたところの話とは、ずいぶん違うみたいな……。
えっと……あっちだと、悪魔が悪いんだっけかな……?」
記憶があいまいな僕は、もぐもぐと言った。
「神話や言い伝えは、勝者がおのれの行為を正当化するための手段でもある。
キミの世界だとて、神話通りのことがあったとは限らないよ……。
見てくれ、この醜い姿を。これでも、かつては人間とさして変わりなかったのだよ。
──ディスイリュージョン!」
モロスは呪文を唱えた。

見る間に、彼の姿が変化していく。
髪と眼はそのままだったけど、牙が生え、爪と耳は長くとがり、額には鋭い純白の角が一本、背中には大きな、コウモリみたいな漆黒の翼がばさっと出て来た。

「先祖達は住み慣れた故郷を追われ、魔界に封じ込められた。地獄にも等しい苛酷な環境に順応できず、多くの人が死に、生き残った者もこんな異様な姿にならざるを得なかった……。
──そう、天界の者どもこそが、我らを“悪魔”にした元凶、真の悪、諸悪の根源……!」
穏やかだったモロスの声が、徐々に鋭くなってゆく。
それと一緒に、夕焼けを映す静かな湖面みたいだった紅い瞳が、すうっと闇に覆われていくんだ。
悪魔っぽい外見よりか、そっちの方がよっぽど僕をビビらせた。

「ホ、ホントに悪魔……だったんだな……。
カッコは……そんなに怖くはない……けど、眼が……マジ怖えぇ……」
情けないけど、声が震える。
モロスは我に返ったように僕を見た。
「すまない、脅かすつもりはなかった……これは、“魔眼”と呼ばれる忌まわしいものさ……」
その紅い瞳を覆いかけていた闇がふっと消え、僕は胸をなで下ろした。

「……その上、ヤツらは未だに我らを抑圧し、苦しめ続けている。勝手に掟を作り、それを押し付けるという形で……。
再婚した妻は、ヤツらに殺された。天界の看視者に捕まり、処刑されてしまったのだ……」
「えっ! 処刑!?」
「そうだ。やっとの思いで結ばれた、彼女は私のすべてだったのに……。
悲しみと怒りに心を引き裂かれ、私はすべてを憎んだ。
こんな世界など、なくなってしまえばいいとさえ思うほどに……!」
モロスは拳を握り締め、眼にはまた、あのおっかない炎が燃え上がる。

「モロス様、お静まりを。奥方様は……」
それでもヴェガと眼が合うと、彼は冷静さを取り戻した。
「そう、幸い彼女は魔族、人族よりも生命力が強く、蘇生も一度だけなら可能だった。
……これが妻だ。キミになら構わないだろう、特別に見せよう。
身を守るため、貴石に姿を変えているのだ……」
モロスは、ローブの中に隠していたペンダントを大事そうに取り出した。

細い金のチェーンの先にあったのは、卵形をした、(まばゆく)く光る紅い宝石だった。
「えっ、……」
僕は思わず眼をこすった。だってその宝石、中に、金色の炎が勢いよく燃えてたんだぜ。
おまけにこの炎、ゆらゆら動いてて、まるで生き物みたい……。
そう感じるのは、今の話……彼の奥さんだという……を聞いたからかな。

こんな不思議な宝石を見るのは、もちろん僕は初めてだった。
「すっげーキレイだなぁ、きっと本人も、美人なんだろな──!」
妖しい輝きに心を奪われて、なかなかペンダントから眼を離すことができない。
「ありがとう、イサム。
もう、あんな悲しい、辛い思いは二度とごめんだ。今度こそ、我らは自由を手に入れ、そして故郷に帰る!」
モロスは力強く宣言した。

「……お二人だけではないの。わたしとイーサも、引き裂かれそうになっているのよ」
そのとき、ヴェガが話に加わって来た。
「え、キミとイーサも!?」
「ええ。魔族の血を引く者が、人間の……まして女王の配偶者になるなど許されないと、天界は言っているの。
いっそ王位を捨ててしまえば……そう思ったりもしたけれど……わたしの親族はすべて亡くなっているし、周りは強国ばかり。
この国が、民が、どうなってしまうかと思うと、それもできない……」
彼女は苦しそうに胸に手を当て、それを見ている僕までが、なんだか胸が痛くなってきた。

「たしかに、そんなことされたら、アッタマ来て僕だって戦うぜ、絶対」
僕が言うと、天使もうなずいた。
「まったくですね」
うなずく天使に、僕は問い掛けてみた。
「えっと……マステマ……だっけ、あんたはどうして天使をやめようと思ったんだ?」

彼は苦笑いし、首をゆっくり左右に振った。
「天使をやめたいと思ったわけではございませんが……。
大天使ミハイルと神々に、ほとほと愛想が尽きたのでございますよ。
天界……神族は、身分の低い同族を“天使”として使役して参りました。
特に最下級天使の不満は募っており、わたくしは彼らの待遇改善を、かねてより願い出ておりました。
それが元で、ミハイルの不興を買い、危うく処刑されそうになりまして……」

「ふぅん、やたら処刑が好きなんだなー、天界ってのは」
天使は軽く頭を下げた。
「はい、力ずくで従われるのが神族のやり方。
ですが、あやつを救ったことが罪とされたのには、さすがに驚き、情けなくもなり……」
「えっ、助けたのが罪って、どういうことさ!?」
僕はびっくりして訊き返す。

マステマの顔は悲しそうだった。
「待機命令を無視した……という理由です。
……けれど、味方の窮地を救いに参るのは当然のこと、他の大天使の取り成しで、その場は事なきを得たのですが。
それ以降、天界のために命を賭けるなど、愚の骨頂(こっちょう)と思うようになってしまいました」
「……そうか。大変だったんだね」
僕は心からそう言った。

「そう、ヤツらは永年続いた享楽的な生活のため、弱体化しつつある。
だが我々は逆に、厳しい環境に適応し、強靭(きょうじん)な体と魔力とを得た。
今が好機なのだ。内と外から同時に天界の結界を崩すことができれば、必ずや勝利は我らの手に!」
モロスはペンダントを持ち上げ、紅い宝石にキスした。
その途端、彼の言葉に同意するみたいに、宝石の金色をした炎が、ぱあっと輝きを増した。
「うん、たしかに勝てそうだよな!」
僕も賛成した。

「しかし、問題もあってね。
ミハイルは、我らの計画に薄々感づき、この頃では手段を選ばないようになって来ている。
それでつい、今回もヤツの差し金と考えたわけなのだが……」
そこまで言うともロスは、僕に顔を近づけて、声の調子をがらりと変えた。
「何しろ、イーサを取り戻す最も簡単な方法は……イサム、キミを殺してしまうことなのだよ……。
ヤツらの非情さが、よく分かるだろう」

「な──何だってぇ!?」
背筋をざわっと寒気が走り、顔から血の気が引いていくのを僕は感じた。
今日は驚くことばかり続いて慣れっこになってしまって、もう何があって大丈夫なつもりだったのに……。
「イサムを……!?」
ヴェガも顔色を変えた。