しばらく間があってから、穏やかな声が、僕の心にまで流れ込んできた。
“……ふむ、水晶球に映った不穏な兆しは、このことを示していたのだね……。
心配ないよ、ヴェガ。今すぐそちらへ行くから”
──パアアッ!
その声の余韻も消えないうちに、魔法陣の輝きが増し、中央部に黒いローブ姿の人物が出現した。
「──あっ」
僕は息をのんだ。
魔法陣から歩み出たその人物の眼は、鮮やかな赤だった。
後ろでゆるく束ねた髪までも変わっていて、なんと紫色をしてる。
そして、初対面のはずなのに、その穏やかな眼差しは、どこか懐かしい感じがした。
それにしても、こっちもすごい美人だ……。
「キミが異界から召喚された少年だね。お初にお目にかかる、私はモロスだ」
「あ……ぼ、僕、イサムです、初めまして」
ボケッとしてた僕はあわてて、差し出された手を握った。
若いように見えるのに落ち着いた物腰をしてる美女の手は、ひんやりしてて、やっぱり誰かを思い出させる。
でも、女性にしてはやけに背が高いし、指もすんなりしてはいるけど、手自体はでかい。
今日はホント、ヘンなことの連続だぁと思いながら、顔をよく見ると……。
「……あれ? ひょっとして、男の人……!?」
びっくりして叫んでしまったけど、相手は気を悪くした風もなく、微笑んだ。
「そうだよ。残念だったね、女性でなくて」
「あ、いえ、ど、どうもすみません……!」
僕は顔から火が出そうになり、慌てて頭を下げた。
「モロス様、本当にイーサは、イサムと入れ替わってしまったのでしょうか……」
あたふたしてる僕にはお構いなしに、すがるような眼差しでヴェガが訊く。
優しく彼女を見下ろし、うなずくモロス。
そうしてると、まさにイケメンカップル。
ガキっぽいイーサなんかより、モロスの方が、よっぽど彼女に似合ってるよなーって思ってしまう。
「可能性は高いね……。それを確かめるには、イサムの心に同調させてもらわねばならない。
お願いできないだろうか、イサム」
いきなり話がこっちに振られたんで、僕は面食らった。
「──え? ……何、心に…同調って? まさか、心を覗かれんの?」
モロスは首を横に振った。
「心を読んだりはしない、約束しよう。
キミを通じてでないと、キミの世界に夢を飛ばすことができない。
イーサも、見つけることはできないのだ」
「──お願い、イサム、手を貸して!
早くイーサを見つけたいの、もし彼に何かあったらと思うと、わたし……!」
ヴェガは両手を握り締め、必死に僕に訴えかける。
心に同調する……よくわかんないけど、正直、あんましいい気持ちはしない。
でも、いっぱい涙を溜めた美女の瞳に見つめられたら……。
「──ええい、くそっ、僕も男だ! イイよ、約束守ってくれんなら!」
「ありがとう、イサム!」
やけっぱちで言ったけど、結果オーライ。いきなりヴェガが抱きついてきたんだ。
そして、彼女の胸の谷間が、目の前に……。顔がかあっと熱くなり、心臓がバクバク言い始め、僕はマジ、眼のやり場に困った。
「さあ、では、さっそく始めよう。魔法陣の中に入ってくれ」
モロスの声にヴェガは離れ、僕は複雑な気分だった。
おんなじ顔してんのに不公平だよなー、恋人は美人の上に、すっげーお城の女王様、ときてるんだから。
僕のそんな思いも知らずに、隣に立ったモロスは、僕のおでこに二本、軽く指を当てた。
「キミの世界を、なるべく詳しく想像して。初めは大きく、だんだん小さく細かいところへ視点を移動していってくれないか」
そう言うと彼は、口の中で何かブツブツ唱え出した。
「あ、うん……わかった」
僕は頭を切り替えて、宇宙から地球全体を見たところを想像した。
徐々に視点を近づけていく。日本列島……住んでる街、アパート、僕の部屋、そしてベッド。
そこに退屈そうに寝転んでるのは……。
“──イーサ、イーサ! 聞こえるか? 私だ、モロスだ。無事でなによりだった”
モロスの声が、頭の中で響く。呼びかけられた相手は、パッとベッドの上に起き上がった。
“──モロス!? よかったぁ! もう二週間にもなるんだよ、こんなトコに来てから!
一体どうなってるの!?”
僕に瓜二つの少年が答える。声もやっぱり、僕によく似ていた。
“……二週間? そうか、時間の流れ方が違うのだね。
こちらには入れ違いに、イサムという少年が来ている。
今、彼の意識と同調して話しているのだ”
(へー、絵以上にそっくりだなぁ!)
そう思ったら、彼は僕に視線を向けた。
“ぼくにもキミの姿が見えるよ、鏡見てるみたいだぁ! ホント、びっくり!”
二人の会話に割り込むつもりはなかったけど、思っただけでイーサに僕の考えが届いたみたいだ。
“仔細を知らない者がここにいたら、きっと、キミ達を双子だと思うだろうね”
モロスは優しく微笑んでいた。
“……でも、時間の流れが違う? 彼と入れ違いって……一体何があったわけ?”
そのモロスにイーサは尋ねた。
“おそらくは、異界間の生物を入れ替えるという、禁忌の呪文の一つが使われたのだろう。
時間の流れはこちらの方が遅いようだな。正確にはわからないが、イーサが来てから、まだ半日と経っていないようだ”
“ええ──不公平だなぁ、苦労したのに……。
まあ、今は、けっこう慣れてきたけどさ”
イーサは、子供みたいに口をとがらせた。
“あ!”
そのとき、僕はあることに気づいて声を上げた。
“そうだ、忘れてた、バイト!
……あ~あ、二週間も無断で休んじゃったら、もうクビだな……どうしよ……”
マジ、気分がヘコんで、僕は頭を抱えた。そしたら、イーサはにっこりした。
“そうでもないよ、イサム。最初の日、呆然としてたら、ケータイがかかってきたんだ。
これだっ! って思って、そのコンビニに行ってみたのさ。
とにかく、色んなこと知りたかったしね”
“え? キミ、ケータイの使い方とか、コンビニとか、知ってたのか?”
僕が眼を丸くすると、彼は首を横に振った。
“いーや、全然知らなかった。
でも、用途を調べる呪文で使い方がわかったとこに、ちょうどかかって来てさ。
少し弱くなるみたいけど、こっちでも魔法はOKだったから助かったよ。
それでも初めは、びっくりの連続さ。キミもそうだったろ?”
僕はうなずいた。
“うん。いつの間に、何でこんな知らないトコに……ってパニクっちゃったよ。
魔法も、生まれて初めて見たしね”
“あーそうそう”
イーサは、僕そっくりに首をこくこく振った。
“ぼくも、こっちに魔法がないなんて知らなくてさ。
コンビニで何気に使ったら、皆、めっちゃパニクっちゃってー”
僕の眼は点になった。
“──マジかよ! それこそヤバイだろ、帰って、何て言い訳すりゃいいんだよ”
焦る僕と対照的に、彼は落ち着いて、にんまりしていた。
“大丈夫さ。ぼくは魔法が使えるんだぜ、こりゃーヤバイと思って、そこにいた皆の記憶を消しちゃったから平気だよ。
その後も、真面目にバイトやっといたし、安心して帰ってきなよ、イサム”
僕はジーンときて、思わず声が大きくなった。
“ああ、よかった、ありがとう、イーサ! キミは何ていいヤツなんだ!
あれがダメになったら、今月はマジ、キツイとこだったんだ……!”
“どーいたしまして、おんなじ顔のよしみさ。けっこう面白かったしね”
彼は人なつっこい笑みを浮かべた。
“──で、モロス、話を戻すけど、誰が何の目的で、僕らを入れ替えたりしたんだろ?”
イーサに訊かれたモロスは、わずかに眉を寄せた。
“……様々な要素を加味して考えてみた。こんな姑息な策を弄するのは、天界と見てまず間違いあるまいよ。
我らの力を削ごうという、大天使ミハイルの涙ぐましい努力には敬意を表するけれどね”
イーサは、思い切り顔をしかめた。
“畜生、まぁたあいつの悪だくみか! モロス、やっぱあん時、やっつけちゃえばよかったんだよ!”
“楽しみは、後にとっておくものさ”
モロスは冷ややかな声で答え、イーサは肩をすくめた。
“ホーント、ミハイルのヤツもバカだよ。モロスをマジギレさせるなんて、命が惜しくないのかな。
……まあいいや、どうすれば帰れるの?”
“そう焦らずに、マステマから連絡が来るのを待とう。それまでは、異界での暮らしを楽しむのだね、イーサ。
見たところ、イサムの部屋も、なかなか住み心地が良さそうではないか”
打って変わって明るい声でモロスは言い、イーサはぷーっと頬を膨らませた。
“ちぇっ、他人事だと思って!
……そうだ、ヴェガが心配してるでしょう、僕は元気で、うまくやってるから──”
そこまで言うと彼は急に言葉を切り、ぽっと頬を赤らめた。
“──愛してるって……必ず帰るから、もう少し待ってて…そう伝えてくれる?”
“わかった、間違いなく伝えるよ。また後で連絡する”
モロスは話を打ち切り、心配顔で待っていたヴェガに微笑みかけた。
「彼を見つけたよ、ヴェガ。元気にしていた。
必ず帰るから、もう少し待っていてほしい、愛していると伝えてくれと言っていたよ」
「……ああ、イーサ…よかった……」
彼女は涙ぐみ、ソファに座り込んだ。
僕はまた、もやもやした気分になったけど、それを振り払ってモロスに尋ねた。
「マステマって誰だ? そいつからの連絡待ちなんて、じれったいな」
「彼は堕天使だよ。天界を裏切り、我ら魔族に味方してくれている。
我らに不利にならぬよう、うまく事を運んでくれるはずだ」
「えっ、魔族? あんた……悪魔なのか?」
意外な話に、僕は驚いた。
「……そうだよ」
モロスはなぜか眼を伏せた。
「ふーん……でも、全然悪そうじゃないし、怖くもないじゃん。
今まで全然興味なかったから、どんなもんかはよく知んないけどさ……。
──んじゃ、ヴェガ…キミも魔族なのかい?」
違うといいなと思いつつ、僕は訊いた。
彼女は、うつむいたまま首を振った。
「いいえ。でも、イーサはそうよ……」
「え、あんなお人よしが悪魔ぁ?」
眼を丸くしてる僕に、モロスは言った。
「彼は、正確には魔族とは呼べないだろうな。
千二百年も前に私と結婚した、人族の女性の子孫だからね、もはや純粋の人間といっていいだろう。
そういうわけで、血のつながりは薄いが、魔力は強いし、息子同然に思っているよ。
彼はおそらく、先祖返りなのだろうね」
「ふ~ん、魔族と人間って結婚できるのか。
でも……千二百年前? 若く見えんのに、モロスってけっこう年くってんだ」
僕が訊くと、モロスはまた笑みを浮かべた。
「我らの寿命は、人間より遥かに長いのだよ。私の年齢は、人間で言えば……そうだな……三十歳前後といったところだろうか。
それにしても、やはりキミの世界とここは、かなり異なっているようだね。時間差もそうだが。
向こうでは二週間も経っているとは意外だった……」
それを聞いたヴェガは、弾かれたように立ち上がった。
「そ、そんなに経っているのですか!?
モロス様、一刻も早くイーサを……!」
「まあ、落ち着きなさい、ヴェガ。つらいだろうが、イーサなら大丈夫だよ」
「そうそう。僕の国は、あきれるくらい平和だし、心配いらないって」
モロスと僕がなだめても、彼女は落ち着くどころか、さらに声が大きくなった。
「でも、これは天界の仕業なのでしょう!
彼一人を引き離して封じるつもりなのですわ、早く助けなければ!」
「たしかに、天界の仕業には違いないと思う。
しかし、あちらでも魔法は使えるし、イーサの強さは私に匹敵する。彼を信じなさい、ヴェガ」
段々興奮してくる彼女とは反対に、モロスの口調はかえって穏やかになっていく。
でも、そのとき一瞬、彼の眼がピカリと光ったように見えた。
すると、いきなり彼女は力を抜き、すとんとソファに座った。
「そ……そうですね、すみません、取り乱して。
……何だか、もう二度と、彼に会えないような気がして来て……わたし……」
「けど、いいヤツだよね、彼。キミが好きになったわけがわかったよ。
バイト……ああつまり仕事も、僕の代わりにちゃんとやっててくれて、すごく助かったんだ」
僕が言うと、ヴェガはほんのちょっとだけど、笑顔を見せた。
「ええ、そうね。彼らしいわ……」
(……いいよなぁ、イーサのヤツ。こんな美女に、これほど気遣ってもらえて……)
そう、僕が思ったときだった。
──パアア…ッ!
ぼんやり光ってた魔法陣が、またも強烈に輝き始めたんだ。