(ここは一体、どこなんだ……?
なぜ……僕は、こんなところにいるんだ……)
気づくと、僕は何もない空間を漂っていた。辺りはただ、漆黒の闇。
それでも、眼が慣れてくると、はるか前方に、二つの集団が戦っているのが見えてきた。
一方は、白く輝く天使の軍団。もう一方は、色も形も様々な……悪魔。
一進一退の攻防。だがやがて、巨大な四頭のドラゴンが現れると戦況は一変した。
紅いドラゴンが、先頭で青白い火炎を吐く。
黒いドラゴンは闇色の毒息、朱色はオレンジ色の炎で天使を次々に倒してゆく。
緑は回復役だ。バラバラ死体さえ蘇生させてしまう。
見とれている間に、戦場は徐々に近づいて、火炎が僕のそばをかすめた。
「──わ…っ! あ、いけね……」
すぐに口を押さえたが、遅かった。
紅いドラゴンは顔を上げ、僕に気づくと、すごい勢いで向かってきたんだ。
逃げようにも体が動かない。必死にもがいている間に、ドラゴンはみるみる迫ってくる。
目の前で急停止したそいつは、巨大な口をカッと開けた。
中には、鋭い牙がずらり!
「──うわあっ!!」
飛び起きると、そこは、見慣れた自分のアパートだった。
(あ……。な……何だ、今のは? 夢……? いや、夢にしちゃ、やけに生々しい……)
震える手で汗をぬぐい、口から飛び出しそうな心臓を静めようと、僕は大きく息をつく。
(……でも、どこか変だ……?
何だか……前にも同じようなことが…あった気がする……?)
そう思った途端、
「──痛たたた、痛いっ…!!」
頭に激痛が走り、それが消えたとき、僕はすべてを思い出していた。
(そう…だ、どうして忘れていたんだろう……あれは……そう、高二の夏休み……)
窓から差し込む日の光に、僕は目覚めた。
「──ヤベー寝坊したっ! なんで、目覚ましのヤツ、鳴らねーんだっ!?
──あああ、もう! 今何時だよっ!?」
僕は焦って時計を探す。
その頃の僕は、夜中から朝にかけてコンビニのバイトをやっていた。
時給がいいんだ、皆、やりたがらない時間帯だから。
けれど、いつもの場所には、デジタル時計は見あたらなかった。
「どこ行った……って、あれ?」
顔を上げた僕は、ぽかんと口を開けた。
だって、僕が寝てたのは、見たこともない部屋だったんだから。
「──え? な、何だ、ここ、どこだ……?
なんで、僕は……こんなトコにいるんだ?」
パニクりかけて、僕は胸に手を当てた。
(落ち着け、慌てずよく考えろ、イサム。
……えーっと。ゆうべはたしか、自分ん家で寝たんだったよ……な。
あ……れ? それとも……友達んトコに泊まったんだっけ……?)
もう一度ゆっくり見回すと、十畳くらいあるこの部屋は、床も天井も壁も全部板張りで、かなりのボロ。
家と言うより、小屋と言った方がいいかも。
それでも、僕が寝てたのと、並んでるもう一つのベッドは新しいみたいだった。
(……やっぱ、違うな。
友達の部屋にしちゃ見覚えないし、何か変だぞ、ここ……。
そっか、電化製品がないんだ、全然。
ゲーム機はもちろん、テレビにビデオ、エアコンに……おいおい、電灯もないのかよ?)
その代わり、古めかしい燭台が、オンボロ机の上に乗っかっていた。
窓の外には建物もなく、砂漠みたいな感じの景色が、はるか彼方まで広がってる。
僕は、ほっぺたをつねってみた。
「痛てっ!」
やっぱり夢じゃない。けど……これからどうしたらいいんだろう。
「……とりあえず、外に出てみっか? まず、ココがどこか知らなきゃ、だよな。
あ、服。ちょうどいいや。パジャマのまんまじゃカッコ悪りぃし」
僕は、枕元にきちんとたたんであった服を手に取り、袖を通してみた。
肌触りのいいシャツは、鮮やかな朱色。多分、シルク……かな。
深緑の細身のズボンも、かなり上等の生地を使ってる。
だけど。
(何だ、この服。キモいくらい、サイズがピッタシだぞ……?)
面食らっていたとき、ドアがノックされた。
「えっ、あ、ど、どうしよう……」
あたふたしたけど、どうしようもない。僕はただ、開いていく木のドアを見つめていた。
「あら、今お目覚め? いつまで経ってもお寝坊さんね」
入ってきたのは、ものすごい美女だった。
印象的な深いエメラルドの瞳、長いまつげ、ふっくらとした紅いバラのような唇。
窓から差し込む光に輝く金の髪、大きく胸が開いた薄緑色のドレスから覗く胸元は、陶器みたいにすべすべで、白かった。
「……どうしたの? イーサ。わたしの顔に何かついていて?」
女性は優雅に首をかしげ、その動作でキレイな顔にふわりとかかる、金の巻き毛をかき上げる。
僕は生ツバを飲み込んだ。
「あ、あの、キミは……? イーサ……って……誰…だ?」
美女は、くすくす笑った。
「まだ寝ぼけてるのね。もうお昼近いのよ、イーサ。
となりの部屋で、ご飯をいただきましょう」
夢じゃないのは確認済み。どうやら、僕は、イーサってヤツと間違われてるらしい。
「ひ、人違いだよ、僕はイーサじゃない」
僕の返事に、美女はあっけにとられた顔をした。
「な……なにを言い出すの、イーサ」
「僕はイサムだ。どこなんだ、ここ。キミが僕を連れてきたのか?」
「……イサム……ですって……?」
しばらくの間、僕の顔を穴が開くほど見つめていた彼女は、はっとしたように口を押さえた。
「まあ、イーサじゃないわ、この人!
あなた、誰!? なぜイーサに化けてるの!? 彼をどこにやったの!」
「だーかーら、イーサなんて知らないって言ってんだろ!
僕はイサム! 生まれつきこの顔だっ、キミこそ誰なんだ!
あー、もう、わけわかんねーっ!」
僕は、頭をかきむしった。
すると、美女は、ふっと息をつき、となりのベッドに腰を掛けた。
「待って。冷静になりましょう、お互いに。
あなたも、そこに座って下さる?」
「そう……だな。興奮して怒鳴りあってるだけじゃ、しょうもないよな……」
起きたばかりだってのに、今のでものすごく疲れた僕は、力なくベッドに腰を下ろした。
「まず自己紹介した方がいいわね。わたしの名前はヴェガよ。
ここは……イーサの家で、ファイディー国の北端、“刻の砂漠”の近くにあるの。
でも、あなたは本当にイーサそっくり。びっくりしてしまったわ」
「そんなに似てる?」
僕が訊くと、彼女はこっくりとうなずいた。
「ええ、まるで双子みたいよ」
僕は首を横に振った。
「でも、僕には兄弟はいないよ。
……っていうか、両親はもう死んじゃってるし、ジイちゃんはどっか外国にいるし……」
「まあ、イーサにも、近い親族はいないのよ。
ええと……それで、あなたは……イサム、だったわね、どうやって、どこから来たの?」
今度は、僕が、ため息をつく番だった。
「……それがさー、どうやって来たんだか、僕にもさっぱりなんだよ、ヴェガ。
ゆうべは、ちゃんと自分の家で寝たんだ。ああ、僕ん家は日本にあるんだけど。
なのに、今起きたら、ココにいてさ……」
「まあ、どういうことかしら?」
彼女はまた首をかしげた。
「それがわかりゃね……。
わかんないと言えば、ファイディー国とか、“刻の砂漠”なんて聞いたこともないな」
「ええっ? かなり大きな国なのよ、ここは」
ヴェガは緑の眼を見開く。そうすると、さらにキレイだ。
「でも、ニッポン……って、わたしも知らないわ。
……おかしいわね。国名ならわたし、すべて覚えているはずなのに……?」
「日本を知らないって?」
僕らは顔を見合わせた。
……悪い予感がした……。
ひょっとしてこれが、タイムスリップってヤツじゃないのか?
何しろ、ヴェガの服ときたら、何百年も前のお姫様が着てたような、ぶわっとしたドレスなんだ。
「そうだ、キミ、地図持ってないか? 地図見れば……わかるんじゃないかな……」
(けど……すっげー昔の地図が出てきたりして……)
ちょっとビビりながら、僕は言った。
「それもそうね、今出すわ。
──カンジュア!」
彼女は呪文らしきものを唱えた。
いや、それは、本当に、魔法の呪文そのものだった。
だって、何もなかったはずの彼女の手に、いきなり巻物が現れたんだから。
「な──何なんだ、今の! 動きが全然見えなかった、キミ、魔法使えるのか!?」
僕の叫びに、彼女は眼を丸くした。
「あなた、魔法を見たことがないの?」
「──ない。僕の国……いや、僕の世界では、魔法を使う人間なんて一人もいない!
それ、貸せよ!」
僕は彼女の手から巻物をもぎ取り、パッと机の上に広げた。
その瞬間、僕は息が止まりそうになった。
現実は、いやな予感を上回っていたんだ。地図に描かれた地形は、まるで鏡にでも映したかのように、全部反転していた……。
「──な、何なんだ、コレ!? 地形がみんな裏返しだ!?
どーゆうことだよ、異次元にでも迷い込んだのか……!?」
「イジ……ゲン? 地形が何……ですって?」
けげんそうな顔のヴェガに、僕は、壁の鏡に地図を映して指差した。
「ほら、これが僕の世界。まるで逆だろ。
……待てよ、逆……っつーことはもしかして、僕とイーサってのも、なんかの拍子で……」
「まさか、入れ替わってしまったというの!? そんな、どうしましょう!」
ヴェガはまっ青になり、深い緑の眼が涙でうるんだ。
ホント、僕も泣きたい気分だった。
何で、こんなトコに迷い込んじゃったんだろう。
元の世界に戻る方法も分からないし、一体どうしたら……。
僕らは途方に暮れて黙り込み、外を吹き渡る風の音が、よけい大きく耳に響いた。
でも、ヴェガはすぐに立ち直った。
「そうだわ、モロス様! そうよ、あの方なら、必ず何とかして下さるわ。
イーサ……いえ、イサム、戻りましょう!
──ムーヴ!」
「わ……っ!?」
いきなり僕の体は、ふわっと浮き上がるような感じになった。
そして、次の瞬間、目の前に、とてつもなくでっかい鉄の門がそびえ立っていて、情けないことに僕は腰を抜かしかけた。
「ひええ……な、何が起こったんだ……」
「ごめんなさい、驚いた? ここはわたしの城よ、急いでいたから魔法を使ったの。
今戻ったわ。いつもご苦労様ね」
門番の兵士にヴェガは声をかけ、ヨロイ姿の彼らは、さっと膝をついて礼をした。
「お帰りなさいませ、陛下」
「──開門!」
がっしりした門が、兵士のかけ声と共にすべるように開いていく。
「キミの……城? 陛下……って、まさか……」
「あら、ごめんなさい、まだ言っていなかったわね。
わたしはこの国の女王なの。
そして、イーサは……わたしの恋人……」
彼女は眼を伏せた。
ちょっと引っかかるものを感じたけど、何かを尋ねるヒマもなかった。
──ガラガラガラ…ッ!
「さあ、急ぎましょう」
轟音を立てて大きな跳ね橋が下りて来ると同時に、彼女は走り出したんだ。
「……あ、ま、待ってくれよ!」
やっとこさ追いついたら、そこは、もう城の中だった。
「……ヴェガ、キミ、足、速っ……はっ、はぁ……」
日頃の運動不足がたたってる。呼吸も鼓動もなかなか元に戻らない。
「イサム、大丈夫?」
「な、何とか……」
どうにか息を整えて顔を上げると、そこには、目もくらむような眺めが待ち受けていた。
「──うわあ、すっげ──!」
迷子になりそうな長い回廊、敷きつめられたふかふかのじゅうたん。天井から下がる、でっかいシャンデリア。
壁を飾るたくさんの絵画。窓にはステンドグラス。あちこちに置かれた高そうなツボ。立派な作りのドア。
おまけに、大理石かなんかでできてるらしい階段には、数え切れないほどの宝石が
おっかなびっくり、なでてみる。でっかいダイアモンド、ルビーにサファイア、これは……エメラルド、かな?
「こっちよ、イサム」
「あ、うん」
階段をどんどん上っていくヴェガの後を、急いで僕は追いかける。
一階、二階、……七階。
ようやく、彼女が、ひときわ華麗なドアの前で歩みを止めたとき、僕は足が笑っていた。
明日はきっと、筋肉痛だな……元の世界に戻れたら、もっと体、鍛えなきゃ。
「ここがわたしの部屋よ、さ、入って」
彼女はドアを開け、僕を促した。
「え……い、いいんですか、僕みたいなのが……」
女王様の部屋だぜ。口調もつい、改まってしまうってもんだろ。
すると、彼女は、うっとりするような笑みを浮かべた。
「そんなにかしこまらなくていいわ、イサム。
こにある魔法陣で、モロス様をお呼びするのよ、遠慮しないで」
「じ、じゃあ、お邪魔しまぁす……」
おずおずと、僕は部屋に足を踏み入れた。
「……アレ? なんか……思いっきりイメージ違うんですけど?」
中はさすがに広かったけど、意外にも、豪華
置いてある家具も、他よりかなり安っぽい……と言って悪ければ、庶民的……とでも言っとこうか。
「贅沢品があふれているところでは、彼は落ち着けないのよ。
この頃では、わたしも、そう思うようになってきたわ」
ヴェガは、壁に飾ってある小さな絵を指さした。
栗色の髪、明るい栗色の眼。照れくさそうな笑みを浮かべてるのが、イーサだった。
年もやっぱり同じくらい、ただ髪の分け目が僕と反対で……あ、ホクロの位置も逆だ。
僕は右眼の下にあるけど、イーサのは左眼だ。
「けどさー、恋人にしちゃ、ずいぶんガキじゃん? どこがイイのさ、こいつの?」
何気に言ったら、ヴェガの表情がくもり、僕はあわてて話題を変えた。
「あ、ご、ごめん……。
でも、ホント、似てるよな、たしかに。僕、ジイちゃんがイギリス人なんだ。
だから、純粋な日本人より、眼も髪も茶っぽいんだけど、そこもおんなじみたいだねー」
「……恋に年齢や身分は関係ないわ……」
彼女は僕の話を聞いちゃいないようだった。
声もささやきみたいになって、緑の瞳も輝きを失っていた。
(……そっか。ヴェガは女王様だけど、イーサはどう見ても庶民だし。周りから、身分違いだとか何だとか、色々うざいこと言われてんのかもな……)
そう思うと、僕は、自分をぶん殴りたい気分になった。
「うん、ごめん、変なこと言っちゃって……。たしかにホントの愛があれば、カンケーないよな。
──あ、そうだ、誰かに来てもらうんじゃなかったっけ?」
「……いいのよ、気にしないで。
それより、あなただって早く帰りたいわよね。モロス様をお呼びしましょう」
ヴェガは気を取り直し、隣の部屋へ通じるドアを開けた。
隣室は壁が一面の本棚になっていて、タイトルも読めない本がぎっしり収められている。
多分、魔法の書物なんだろう。そして部屋の真ん中にでっかい魔法陣が描かれ、薄緑に光っていた。
「ちょっと待っていてね」
そう言うとヴェガは、魔法陣の前にひざまずき、何事かを祈った。