「泣かなくていいのよ、イナンナ。死ぬなんて言わないで」
メリアは優しくイナンナを抱きとめ、頭をなでた。
「わたしはお前を止めに来たんじゃないの、顔を上げて、さあ」
「え……?」
いぶかしげに彼女が顔を上げると、母は言った。
「わたしにいい考えがあるの。
まず、体調を崩して療養すると言う名目で、カミーニにある伯爵家の別邸にお行きなさい。
……ね? ただ出て行っては、お祖母様も心配なさるし、陛下に知れれば、追っ手がかかってしまうかもしれないでしょう?」
「……療養……? たしかに、いい考えだけど……」
「心配しなくてもいいわ、カミーニは王都の南にある、とても美しい港湾都市よ。
そこで少し心を整理してから、その後、コンコルディア村に行くなり、身の振り方をお考えなさい」
イナンナはうつむいた。
「お母様、ごめんなさい……わたし、自分のことしか考えてなくて……」
「いいえ、わたしこそ、何も分かっていなかったわ。お前に良かれと思ってここに来たのだけれど……」
「お母様……」
「お行きなさい、自由を求めて。お前は、お父さんの血を濃く引いてしまったのね……。
あの人もそうだった……一つ所にいられないの。数ヶ月ごとに戻って来てはくれるけれど、すぐに品物抱えて商いに行ってしまうんだから……ずっと同じ場所にいるのは退屈過ぎるとか言って」
メリアは、透き通るような笑みを浮かべ、イナンナは、母が父をまだ愛していることを知った。
「お母様、行きましょう、一緒に。
お父様のこと、まだ忘れていないのに、無理にご結婚なんて……」
しかし、メリアは、否定の身振りをした。
「わたしは行けないわ。
お祖母様がお独りになってしまうし、それに、公爵様のことは誤解よ。
あの方は、わたしの恩人なの」
「恩人? ……どういうこと?」
少女は首をかしげた。
「実はね、ここに来てから半年くらいして、陛下から、後宮に……第五王妃にと求められたのよ。
でも、後宮は……ほら、来たばかりの私の耳にも入るくらい、色々あるらしくて、正直困っていたの。
そんなとき、知り合ったばかりの公爵様に、ついそのことをお話したら、『では、私の婚約者になって下さいませんか』って。
びっくりしていたら、『もちろん名目上です。それであなたを縛るつもりは毛頭ありません』とおっしゃって下さって……」
「そうだったの。でも、どうして、そのときに教えて下さらなかったの、お母様。
お父様が亡くなって、まだちょっとしか経ってないのに、別の男の人と婚約なんて、ってすごく悲しくなってしまったのよ、わたし」
イナンナが、ほんの少しなじるような感じを口調に込めると、メリアは彼女をぎゅっと抱きしめた。
「ごめんなさいね。でも、後宮のごたごたなんて、まだ小さかったお前には聞かせたくなかったのよ。
……さて、あとは、半年くらいしたら、お前が賊にさらわれてしまったと言うことにするわ。
そうすれば、お尋ね者扱いされる心配だけはないでしょう?
王子様にはお気の毒だけれど、他にも女性はたくさんいるんだしね」
「でも、それじゃあ、ひいお祖母様が……」
すると、メリアはにっこりした。
「そちらも大丈夫よ。初めこそご心配なさるでしょうけど、すぐに忙しくなって、お前のことばかり気にかけていられなくなるから」
「え、忙しくなるって、どうして?」
不思議そうな顔つきの彼女に、母は、ぽん、とドレスの腹部を軽くたたいて見せる。
「この赤ちゃんが生まれれば、ね」
「お母様!?」
イナンナは眼を丸くした。
「宮廷付きの占い師によれば、赤ちゃんは男で、しかも双子なんですって。
公爵様との婚約に当たっては、お祖母様が、第一子は伯爵家の跡取りにすること、という条件をお付けになったのだけれど、双子なら両家の後継ぎがいっぺんにできることになるわけよ。
……おめでたいと思わない?」
メリアはくすくす笑った。
そのいたずらっぽい眼の輝きに、イナンナは、かつて故郷のコンコルディア村で、帰って来る父を驚かそうと、母と二人で色々と趣向を凝らしていたときのことを思い出した。
無論、それはごく小さい頃で、母を残して父と商いに出るようになってからは、そういうことはめっきり減ってしまっていたのだが。
「……そういうわけ。こちらのことは任せておきなさい」
胸を張る母メリアとは正反対に、イナンナは目線を下げ、つぶやいた。
「……そう。本当にここには、わたしの居場所がないのね」
「イナンナ、そういうわけでは……」
「いいの、分かってるから。ここを出て行くわたしが、どうこう言える立場じゃないわ」
「戻って来なさい、いつでも……と、言ってあげられないのが本当に辛い……せめて手紙をちょうだいね」
彼女を固く抱き締める母の緑の眼には、涙が光っていた。
「必ず書くわ。元気な赤ちゃんを産んでね」
「ええ、お前のためにもね。
そうと決まれば、こんな夜中に、独りで出て行くなんて無謀なことはしないで。
明朝一番でお祖母様にお話して、それから堂々と、馬車を整えたり準備をすればいいわ。
──あ、いけない、忘れるところだった。これを渡しておくわね」
母は涙をふきながら、彼女の手に、ずしりと重い小袋を乗せた。
「……これは?」
「銅貨よ。これくらいあれば、当座は困らないでしょう」
貧しい暮らしを経てきたメリアもまた、庶民の間では、金貨や銀貨はほとんど使われないことを熟知していたのだ。
「ではね、よい夢を」
頬にキスして母は去る。
イナンナは気が抜け、ぼんやりとベッドの隅に腰掛けて、銅貨の袋をもてあそんでいた。
「……母は強し……ね」
しばらく経ち、そうつぶやいたとき、こつんと窓に何かが当たる音がした。
気のせいかと思った途端、またも何か当たる音。
彼女は、ランプに火をつけ、窓を開けた。
「……誰? 誰かいるの?」
闇に向かって声をかけると、聞き覚えのある返事が返って来た。
「僕です、イナンナ様。少しお話してもいいですか?」
彼女は思わず息を呑む。
「エグベルト!? 一体どうしたの!?」
「僕もいます、ヘイガーです」
「待って……今、そっちへ行くわ」
先ほど下ろしたままだったロープを伝い、イナンナが降りていくと、二人の少年が深刻な顔つきで立っていた。
「どうしたの、二人とも……こんな夜遅く」
「すみません、でもヘイガーが、変なこと言うから……」
「変なこと……?」
そのとき、彼女はようやく、昼間、ヘイガーに古着を頼んだことを思い出した。
「あ、あれはもういいの。ごめんなさい、もういらなくなったから」
イナンナが焦って答えると、眉間にしわを寄せたまま、エグベルトが口を開いた。
「……イナンナ様、ひょっとして、家出しようとか思ってらっしゃるんじゃ……」
「えっ」
図星を差されて、彼女はぎくりとする。
「やっぱり……」
二人の少年はうなずき合った。
「ち、違うのよ、わたし、ちょっと……そう、急に、明日からカミーニの別邸に行くことになって、それで……」
イナンナは慌てて手を振り回した。
「カミーニですか? 別邸?」
グベルトはけげんな顔をする。
「ええ、実はきのう、大変なことがあって……」
昨日の出来事を、彼女はかいつまんで彼らに話した。
「そうですか……そんなことが。でも、」
言いかけたヘイガーの言葉を、エグベルトが横取りした。
「だからと言って、カミーニに行くこともないでしょう? あと一年は猶予があるんだし」
「…………」
一瞬
「ね、ヘイガー、エグベルト、聞いてくれる? わたしね、本当は療養に行くんじゃないの。
多分もう、ここには戻って来ないと思うわ」
「ええ!?」
「……そうだと思いました」
庭師の少年は眼を見張り、騎士見習いの少年は唇を噛んだ。
「二人とも、友達なら止めないでね、お願いだから。
あなた達とお別れするのは残念だけど、このままいたって王妃にされて、会えなくなっちゃうでしょ?
出て行くのと、ちっとも変わりがないわ。
……わたし、こんな窮屈な生活、もう続けたくないの、どうしてもなじめないのよ。
お母様にはさっきお話して、許してもらったから……だからわたし、行くわね。
──やっと、やっと自由になれるわ……ずっとずっと戻りたかったのよ、あの頃に……!」
イナンナは、うっとりとした眼差しを夜空に投げかけると、両手を掲げた。
そこには春の
銀の巻き毛と白い顔、伸ばした二本の腕が、月光に照らし出される。
そうしている彼女はまるで、今にも飛び立とうとする大きな白い鳥のようだった。
「で、でも、イナンナ様。……あの、王子様は……その、え?」
しどろもどろに言いかけるヘイガーの背中を、エグベルトがつつく。
「黙って、ヘイガー」
「エ、エグベルト……だって、行っちゃうんだよ、イナンナ様が……」
エグベルトは、首を横に振った。
「いいから、笑顔で送ってあげようよ」
そう話す彼の声はかすかに震えていて、ヘイガーは、ただうなずくことしかできなかった。
「二人とも、来てくれてうれしいわ。明日になれば、ゆっくりあいさつもできないと思うから。
ごめんなさい。そして今までありがとう、エグベルト、ヘイガー。
お休みなさい……いえ、さようなら」
イナンナはそう言うと頭を下げ、彼らの返事も待たずにロープをよじ登り、部屋の中へ取って返した。
そのままいれば、また涙にくれてしまいそうだったのだ。
月明かりの中、少年達は足取りも重く、庭師小屋へ向かって歩いた。
「……でも、ホントにいいんですか、王子様……」
屋敷が見えないところまで来るとヘイガーは尋ね、うつむいたままエグベルトは答えた。
「王子って呼ぶなって言っただろ、ヘイガー」
「だって、イナンナ様、俺達に会えなくなるのが嫌だって言ってたでしょう?
あなたが第一王子様だって知ったら、ここに残ってくれるんじゃ……」
エグベルトは暗く唇をゆがめた。
「……誰が王子だって?
ぼくは侍女の子だぜ。第四王妃にできた息子より、たった半日、生まれるのが早かったからと、第一王子になっただけのね……。
それに、ぼくには分かるのさ、彼女の気持ちが……。
さっきの彼女は、タルルシュに渡ってくる白鳥みたいだった。春、雪解けを喜び、白い翼を広げて大空へ飛び立とうとしてる美しい鳥……。
あんなに喜んでる彼女を引き止めるなんて……ぼくにはできない、できっこないよ……」
「でも、やっぱり、言ってみた方がよかったんじゃ……?」
友人の言葉に、王子は否定の仕草をした。
「ぼくは怖いんだ……もし残ってくれたとしても、彼女は、笑いも忘れて、いつも悲しげに空を見上げてばかりいて……しまいには、ぼくの方を見てくれもしなくなるんじゃないか…って……。
臆病だよね、ぼくは……」
庭師の少年も、かすかに首を横に振った。
「臆病だなんて思わないけど……でも、イナンナ様は……そうなっちゃうかもしれないね……」
「そう思うだろう?
ぼくだって、ホントは自由になりたいんだよ。……王位なんて要らないから、彼女と一緒に行きたい……」
言いながらエグベルトは下を向いたものの、すぐに顔を上げた。
「でも、それは逃げだって思う。ぼくはここに残って、ちゃんと王様をやり遂げるよ、ヘイガー。
だから、彼女は……彼女だけは自由になって欲しいんだ。
ぼくはここで窮屈な暮らしをしながら、彼女が白い翼を広げて、自由な空をどこまでも飛んでいくのを想像して……それだけできっと、何があったって、がんばれると思うんだ……」
「王子様……ううん、エグベルト……!」
ヘイガーは彼に抱きつき、とうとう声を忍んで泣き出した。
エグベルトは、友達のくしゃくしゃな髪をなで、そのことでわずかに自分を慰めて、懸命に涙をこらえた。
ほんのりと暖かい春の夜気が、そんな彼らを静かに包み込む。
かすみがかかった空に浮かぶ乳白色の月は、優しく二人に微笑みかけているように見えた。
そう、この少年こそがファイディー王国の第一王子であり、五年後、王位に
ヴィタールは母方の姓である。
彼の母が懐妊したとき、後宮にて現在も暗然たる権勢を誇る第四王妃の魔手から母子を守るために──(様々な事件に第四王妃が関与しているとささやかれはしても、やり口が巧妙で、確たる証拠がなかった)、──現国王は彼女を、実家があるタルルシュに帰した。
そこで育ったエグベルトは、十六になった去年、晴れて第一王子として王宮に迎え入れられたのだ。
イナンナがそのことを知るのは、十年のちのこととなる。