~紅龍の夢~

番外編 自由への白き翼(5)

「よかったわね、イナンナ。陛下が分かってくださって」
「……ええ」
母の言葉にうなずきながら、イナンナは覚悟を決めていた。
それは、伯爵家に来た当初からずっと心の中にあり、さらに一年ほど前からは、どうしようもなくどんどん膨らんで来ていた思いだった。

(ここを出よう。ここはわたしの居場所じゃないわ。
このお屋敷は、まるで牢屋みたいで……わたしがいるべき場所じゃない……。
ずっと考えないようにしてきたわ……ここにはひいお祖母様も、お母様もいる……そう思って我慢してきたけれど、やっぱり、わたしは……。
……そう、わたしが本当に欲しいものは……ここにはない……ここにいては絶対見つからない……!)

馬車に揺られながら、もはや彼女の眼はどこも見てはおらず、母親の声も耳に届いていなかった。

翌日、早起きをしたイナンナは、密かに屋敷を出る準備を始めた。
母と曾祖母に迷惑がかかるかもしれない……それだけが気がかりだったが、権力者にいくら抵抗したところで、自分の意志を通すことは不可能に近く、最終的に結婚させられてしまうのは眼に見えていた。
国王も、いざとなれば問答無用に後宮に入れてしまえばいいと思っているからこそ、期限を一年延ばしてくれたのだということが、聡明な彼女には明瞭に察せられたのだ。
顔を見たこともない相手と、無理やり結婚させられる……などとと考えるだけで、死んでしまいたいような気分が募る。

(……いいえ、ダメよ、死ぬなんて。
王都を出てしまえばこっちのもの。窮屈な生活とも、今日限りでさよならよ!)
そう思うと、気分も浮き立ってきて、準備はどんどんはかどった。

やがて、召使が呼びに来て、澄ました顔でイナンナは朝の食卓についた。
昨日はほとんど食事をとっていなかったこともあって、口に運ぶすべての料理が、いつもより美味に感じられる。
「イナンナ、今日はずいぶん食欲があるのね」
「ええ、お母様。きのうは、あんなことがあって食べられなかったから、お腹がぺこぺこなの。
みんな、とってもおいしいわ」

気遣わしげな母に笑顔を向けて、彼女はいつもよりたくさん食べた。
それを見たメリアは、期限が一年延びて安堵したのだと解釈したようだった。
また、曾祖母は、気分がすぐれないと朝食には出て来なかったので、彼女はほっとした。昨日のことで、何か言われるかもしれないと思っていたのだが。

朝食を終えると、いつも通り家庭教師の授業を受け、昼食も何食わぬ顔で普通にとる。
曾祖母も食卓についていたが、何も言われなかった。
母が何か、言い含めてくれたのかもしれない。
その後、部屋に戻った彼女は再び準備に取り掛かった。

旅をするときは、売り物以外の持ち物は最小限に。それが父の口癖だった。そのためさほどかからずに、荷物の準備は整った。
(これでよしと。
……あとはお金かな。銅貨が手元にないのは困りものだけど……)
小額の貨幣がないと、つり銭をもらうときなどに不便だというだけではない。
高額な金貨の持ち歩きなど、物盗りを呼び寄せているようなものだと父は生前、よく言っていた。
(……仕方ないわ。指輪やペンダントを持っていって、どこかで売りましょう)
彼女はアクセサリーもいくつか、小分けして袋に詰めた。

(……最後は、服装ね。ドレスは動きにくいし、それに、こんな目立つ格好じゃ、すぐ見つかって連れ戻されてしまうわ。
髪は切って帽子をかぶり、男の格好をすれば……そうだ、服は、ヘイガーのお古をもらえばいい)
鏡の前で、イナンナはつぶやいた。

午後も遅くになって、散歩を装い、彼女は庭へ出た。
ヘイガーは、父親と一緒に庭木の手入れをしていた。
「これは、イナンナ様」
庭師がつばの広い帽子を脱いで、頭を下げる。
「いいのよ、お仕事の邪魔はしないわ、続けて」
しばらく近くのベンチに座り、ぼんやりと二人の仕事振りを見ていた彼女は、やがて父親に言われて別の場所の手入れを始めたヘイガーに、そっとついて行った。

周囲を見回し、誰もいないのを確かめると、イナンナは小声で彼に声をかける。
「……ねえ、ヘイガー、お願いがあるの」
すると、深刻な彼女の顔色に気づいたらしく、ヘイガーは声を潜めて尋ね返してきた。
「どうなさったんですか、イナンナ様。お顔の色が悪いみたいですけど……」

「ヘイガー、何も聞かないであなたの服、わたしにちょうだい」
「へ?」
ぽかんと口を開ける少年に、彼女は畳み掛ける。
「古いのでいいの。……ううん、お古じゃないと困るのよ。
 お願いだから、黙ってあなたの服、わたしにちょうだい」
ヘイガーは眼を白黒させた。
「な……一体どうなさったんですか!?」

「──しっ、大きな声を出さないで。あなたは知らなくていいの。
……知らなければ、誰かに訊かれても答えられないでしょう?」
「そ、そりゃそうですけど、一体……」
「用意しておいてね、夜になったら取りに来るから。誰にも言わないで。それじゃ」
「あ、イナンナ様ぁ!」
言い置くと、少年の声から逃げるように、イナンナは屋敷へまっしぐらに駆け戻っていった。

部屋に帰ってもすることがなく、なかなか時間が進まないような気がして、彼女は落ち着かなかった。
書物を手にとり広げて見たりもするが、すぐに視線は宙に泳ぎ、まったく集中できない。

それでも、時間は確実に過ぎていき、ようやく日が沈んで、待ちに待った夜が訪れた。
母や曾祖母に気取られないように、少し緊張しながら夕食を済ます。
その後厨房へ行き、夜食用にと言って、料理番にパンとハムを少しとワインを一瓶、分けてもらう。
部屋に戻り、それを荷物に加えてから一番質素なドレスに着替え、邪魔にならぬよう髪を一まとめにして後ろで束ね、窓を開けてベランダに出る。

おあつらえ向きに空は晴れ、大きな月が出ていた。これならば、道に迷うこともないだろう。
イナンナは独りうなずき、以前庭で拾っておいたロープをベランダの手すりに結びつけ、下に垂らすと、ついに準備は完了した。

「……さようなら、お母様、ひいお祖母様。ごめんなさい」
振り返り、小声で別れを告げて、深く頭を下げる。
涙が出そうになるのをぐっとこらえて顔を上げ、荷物を詰めた袋を背負い、手すりを乗り越えようとした、まさにそのとき。

──コンコン。
不意にノックの音がし、母の声が聞こえてきた。
「イナンナ? ちょっといいかしら?」
(お、お母様!? ……ど、どうしてこんなときに!?)
イナンナは、慌てて袋をベランダの隅に隠すと窓を閉め、ベッドに潜り込んだ。
「は……はい、なあに、お母様」
「あら、もう寝ていたの?」
ランプを片手に、メリアが入って来た。

「あ……ええ、疲れたから。でも、今、灯りを消したばかりよ」
「そう……」
激しく動悸(どうき)を打つ音が聞こえはしないかと焦る彼女のそばに母は寄って来て、ランプを枕元のテーブルに置く。
「……どうなさったの……?」
「ええ……きのうは……お前も考えをまとめる余裕があった方がいいと思って、一日置いたのだけれどね……」
「……なに?」

「お前、ここを出て行く気なんでしょう」
「なっ……!?」
母の口調は質問でも詰問でもなく、淡々としていたが、その何気なさを装った一言は、目の前で爆弾が炸裂(さくれつ)したかのような衝撃をイナンナに与えた。
「お、お母様……ど、どうして! なぜ分かったの……!?」
思わず飛び起きてしまった彼女は、そう尋ねるのがやっとだった。

「分かるわよ。母親だもの。お前がずっと、何かに悩んでいたのも、ね……」
それを聞いたイナンナは、もう耐えられなくなった。
彼女は母親にしがみつき、(せき)を切ったように泣きじゃくった。
「──お母様! わたし、もう、死んじゃいそうなの。ここにいると息ができない。
ずっとずっと、我慢してきたの……でも、もう限界! ダメと言ったら、飛び降りるわ、この窓から!
わたし、もうこれ以上、ここにいることができないの──!!」