目覚めたとき、イナンナは決心していた。
「お母様。わたし、国王陛下にお会いしてくるわ」
枕元で心配そうに自分を
「えっ?」
「陛下にお会いして、お断り申し上げてくるの。わたしはお妃にふさわしくありません、って」
メリアは、さっと顔色を変えた。
「何を言うの、イナンナ。そんなことをしたら……」
「我がままかもしれないけれど、わたし、これ以上窮屈なところへ行ったら死んでしまうわ。
それに王子様だって、わたしみたいなじゃじゃ馬、お妃にされてもがっかりなさるだけよ」
「そんなことを言ったって、お前……」
「止めないで、お母様」
彼女が重ねて言うと、母親はうなずいた。
「分かったわ。でもちょっとお待ちなさい。わたしも一緒に行きます」
「えっ……!?」
今度はイナンナが驚く番だった。
「まずは、公爵様に事情をお知らせして、それから……」
メリアはきびきびとした動作で机の引き出しを開け、伯爵家の紋章が型押しされた、
「そ、そんなの、待っていられないわ、わたし一人で行くから」
「ダメよ、ここは村ではないと、何度言ったら分かるの」
起き上がろうとする娘を、母親は押し留めた。
「でも……」
「でもも何もないわ。ちゃんと手続きを経てからでないと、陛下にはお目通りがかなわないのよ。
……無茶なことをしたら、お前だけでなく、お祖母様にまでご迷惑がかかることを、よくわきまえなくてはいけないわ」
「……はい」
うなだれるイナンナの前で、メリアはさらさらと手紙をつづっていく。
書き終えるとガラス瓶の砂を振りかけ、余分なインクを吸わせて瓶に戻し、伯爵家の紋章入封筒に入れて封じ目に
最後に、紋章が刻み込まれた指輪を押し付けて型押しする。
それを繰り返し、厳重に封をした手紙が二通できあがると、彼女は卓上ベルを鳴らして執事を呼んだ。
「お呼びでございますか、若奥様」
「こちらの手紙を公爵様へ。
そして、こちらは、ちゃんと使者を立てて王宮の、国王陛下の許に……急いでね」
「かしこまりました」
うやうやしく手紙を受け取った執事は、礼をし、部屋を出て行った。
「さ、あとは休みなさい、イナンナ」
「でも……」
「多分、陛下にお目通りがかなうのは明日以降になると思うし、もし今日でもよいとお返事が来たら、すぐに起こしてあげるから」
「はい、お母様……」
イナンナは言われた通りに眼を閉じたが、即座に眠ることなどできるはずもない。
幾度も寝返りを繰り返し、明け方近くになってやっと眠りに落ちた彼女は、廊下を走り回る人々の気配で眼が覚めた。
外はもう、日も高くなっていた。
ほどなくノックがあり、母が入室して来ると同時に、イナンナは飛び起きた。
「お母様、お返事が来たのね?」
「ええ。もっと遅くなるかと思ったのだけれど、お許しが出たわ。
公式なものではないので、普段着で構わないと……でも、見苦しくない程度には支度をしなくてはね」
「はい」
小間使いの少女に手伝ってもらい、彼女は素早く身支度をする。
合間に軽い食事が運ばれてきたが、手をつける気にはなれなかった。
そうして、メリアとイナンナは、取り急ぎファイディー国の王宮に向かった。
馬車が門前に着くと、すでに連絡が届いていたと見えて、すぐに開門の許可が出た。
王宮の中庭を通り、馬車はついに城の前に到着する。
取次ぎに出てきた女官に案内されて、二人は壮麗なエントランスホールに入っていった。
イナンナが初めて見る、華麗を極めた城内。しかし彼女には、それを眺める余裕もない。
「……大丈夫? イナンナ、顔色が悪いわ」
「えっ、平気よ、お母様。……ちょっと緊張はしているけれど」
小声で会話を交わしながら、大理石の回廊を進み、二人はようやくファイディー国王の私室に通された。
「陛下には、ご機嫌
「お目通りをお許しいただきまして……」
「よいよい、これは非公式な席。堅苦しいあいさつは抜きで、率直に話し合おうではないか」
正式なあいさつをしかける二人をさえぎり、ファイディー国王は言った。
青い宝石のような瞳、暗い髪に
それが現ファイディー国王、ベオウルフ・イグレイン・メイラ・ファイディーズ・レックスⅣ世だった。
「はい、陛下」
「お言葉に甘えさせていただきます……」
イナンナとメリアは、おずおずと顔を上げた。
「それでよい。さ、そこに掛けなさい、二人とも。
手紙は読んだ。……どうもわたしは性急に過ぎたようだな……。王子からもそう言われたのだが」
「王子様が?」
やわらかいソファに腰掛けながら、メリアが尋ねた。
「そうだ」
国王はうなずき、イナンナに顔を向けた。
「王子は、自分の口からそなたに直接、王妃にしたいと申し込むつもりでおったそうだ……それをわたしが独断専行してしまったゆえ、伯爵家からもこのように問い合わせが来ることになったのだと、王子はいたく立腹しておっての」
「そうだったのですか……でも、わたしは……」
言いかけた少女の言葉を
「それも分かっておる。いきなりこんな話を持ち込めば、そなたが断るであろうと。
それゆえ王子は、ゆるりと交際を始めたかったのだそうだが。まこと、王子の申した通りになったようだな」
「その通りでございます」
イナンナは、ここぞとばかり自分の意見を述べることにした。
「こんなことを申し上げては、怒られてしまうかもしれませんけれど、わたしは、たとえどんなに王子様がわたしを気に入って下さろうと、王妃になる気はありません」
きっぱりと彼女が言ってのけると、メリアは青くなった。
「こ──これ、イナンナ。無礼なことを……!」
しかし、国王は腹を立てた様子もなく、話を促した。
「構わぬ、メリア。イナンナ、続けるがよい」
「はい。王子様とわたしとでは、まったく釣り合いが取れないと思います。
きっと王子様は、がっかりなさると思いますわ……わたしは、おしとやかでも、女らしくもありませんし、それに、本当は、貴族のように暮らしたくはないんです。
今だって、伯爵家の中でさえ、すごく窮屈に思っているくらいですもの」
王は首をかしげた。
「ふむう……変わった娘だのぉ。通常ならば、王妃になれると聞けば、母娘共々喜ぶと思うのだが……」
「ですから、わたしは王子様にはそぐわないんです。このお話は、なかったことにして下さいませ、陛下」
「むむ、せめて、王子と付き合うてみてはくれぬかな?」
「……ごめんなさい、それも無理です」
イナンナは頭を下げた。
「わたし、貴族の男の方とは話が合わないんです。今までパーティで、たくさん男の方ともお話してきましたけど、価値観が違い過ぎて、何を話していいのかさえまったくわかりませんでしたし」
取り付く島もない彼女の態度に、さすがの国王も顔をしかめ、気を悪くしたようだった。
口調も自然ときつくなる。
「なんと、情の
わたしがその気になったら、そなたの曾祖母や、そこにおる母親を罰することもできるのだぞ」
「そんな……」
「お待ち下さい、陛下」
そのとき、娘に話を任せていたメリアが、割り込んできた。
「ご立腹は当然のことながら、年端も行かぬ子供の言葉でございます、どうぞお許しを。
それに、……第一王妃様のこともございます、やはりすべては、社交界でのお披露目が済みまして後のお話ということにしていただきたく……」
途端に国王の顔色が変わる。
「なんじゃと。
何ゆえ王妃のことをそなたが知っておる……いや、宮廷スズメ共の噂話など間に受けるでないぞ、メリア」
しかし、メリアはひるまず、まっすぐに国王を見返した。
「失礼ながら、単なる噂などではないことを、わたくしはよく存じ上げております。
お披露目が済む前に妃にと望まれた第一王妃様は、人々の妬みを買い……あげく何者かの細工により落馬、一生お子様に恵まれないお体になられてしまわれたと……」
「──やめよと申しておる!」
王は顔を
「わたくしは、イナンナをそういう目に遭わせたくないのです。
いくら陛下のご威光が優れておられようとも、人の心すべてを従えることは不可能だということを、懸命なあなた様のこと、すでにご承知と拝察致しますわ」
「むむむ……」
ファイディー国王は言葉に詰まった。
事実は、彼女の言った通りだったからだ。
しかも、その後、
証拠は何もなかったが、またも何者かの
そうした中、ようやく侍女との間に生まれたのが現在十七歳になる第一王子で、そのため目に入れても痛くないほど、王はこの息子を可愛がっていたのだが……。
「……相分かった。こたびの話はなしとしよう」
「本当ですか!」
イナンナは眼を輝かせた。
「──ただし」
「え……」
ぬか喜びに終わるのかと身を硬くする少女を横目で見ながら、王は言葉を継いだ。
「来年、そなたが十五の誕生日を迎えたなら、王子が正式に交際を申し込む。
そのときは是非とも受けてもらうぞ……無論、付き合ってみて、どうしても駄目だとなったら、その折には無理強いはせぬ。
これでいかがだ、イナンナ、メリア」
「……分かりました……」
「承知いたしました」
時の権力者に、そうまで譲歩されては、彼女達も同意するより外になかった。