その後、イナンナは屋敷の外で過ごす時間が多くなったが、メリアやドルーシアは彼女の好きにさせていた。
三度目に、イナンナがエグベルトに会ったときのこと。
木刀を借りて素振りをして見せると、騎士見習いの少年は、隙がない彼女の構えと剣さばきに舌を巻いた。
「剣術を習ったことがおありなんですか? 姫君」
「姫君はやめてよ、エグベルト。イナンナでいいわ」
「あ、そ、そうですね、イナンナ様」
「ホントにすごいや、なんでもおできになるんですねー、イナンナ様は」
エグベルトだけではなく、ヘイガーも感心しきりだった。
「
旅の護身用にって、お父様やわたしに教えて下さったの。でも、この頃全然やってないし、まだまだよね。
そうだわ、あなたが剣術を教えてくれない? わたしに」
「ええっ!?」
伯爵家の令嬢の意外な申し出に、エグベルトは驚愕の表情になる。
「今、木刀を持って分かったの。こうやって素振りをすると、すごく気分がいいわ。
いやなことも、皆、忘れられそう。だから、もう一度剣術を習いたいのよ」
暗い髪の少年は、衝撃から立ち直ると激しく首を横に振った。
「ダ、ダメです、大体、僕だってまだ見習いなんですよ!
それに……貴族の姫君に剣術を教えたなんて知れたら、父に大目玉食らっちゃいます……!」
すると、イナンナは、緑の瞳をいたずらっ子のように輝かせ、庭師の息子を振り返った。
「わたしとヘイガーが黙っていれば、誰にも分からないわよ。
ねえ、ヘイガー」
いきなり話を振られ、庭師の少年は眼を真ん丸くした。
「えっ、俺も共犯ですかぁ?
でも、ほんと、よした方がいいですよ、そのお美しいお顔にケガでもしたら、大変だし」
「そ、そうですよ、やめましょう。あなたにケガなどさせたら、伯爵夫人に殺されちゃいますよ」
エグベルトも額の汗をぬぐいつつ、重ねて押し留める。
「気をつけるから、大丈夫よ。だから教えて。あなたが教えられるところまででいいから。
ね? こんなことを頼めるのは、あなたしかいないの、エグベルト。お願い……」
しかし、イナンナは諦めず、祈りを捧げるときのように顔の前で指を組み、必死の面持ちになった。
風にそよぐ銀細工の髪、透き通る白い肌、瞳は、葡萄畑でたわわに実る、みずみずしいマスカット……。
その濡れたように
「……わ、分かりました。未熟者ですが、がんばります……」
とうとう、エグベルトは、その瞳に吸い込まれるように答えてしまっていた。
ヘイガーはそんな友達の背中をつつき、耳元でささやいた。
(おいおい、エグベルト、いいのか、そんな約束して……)
(……仕方ないだろ、ヘイガー。ダメだって言うんなら、お前がイナンナ様を説得しろよ)
(えっ、む、無理だよ、そんなの……)
首を振るヘイガーに、エグベルトは手のひらを合わせ、拝むようなまねをする。
(だったら、協力してくれよ、僕からも頼む、ほら、この通りだ……)
(……知らないよ、どうなっても……)
ため息混じりに、庭師の少年は答えた。
それから毎日のように彼らは会い、ヘイガーが見張りに立つ中、剣術の
イナンナは覚えが早く、エグベルトの教え方にも自然と熱が入ってゆく。
「イナンナ様は本当に筋がいい。教え
タルルシュにいる僕の師匠にお会わせしたいなぁ……もうかなりのお年なんですが、すごい元気なんですよ。
きっと張り切って、あなたにも色々教えてくれると思うんだけど」
すると、イナンナは眼を伏せた。
「わたしもお会いしたいけれど、多分無理ね……。
王都アロンから出る旅なんて、ひいお祖母様が許して下さるとは、とても思えないもの……」
「……そうですね……」
それから、早くも一年が過ぎようとしていた。
めきめきとイナンナが腕を上げ、もはやエグベルトが教えることはなくなったと思い始めていた、そんな折。
「イナンナ、大変よ、イナンナ!!」
勉強もきちんとこなさなければと、家庭教師を相手にノートをとっていたイナンナの部屋へ、母メリアが息せき切って駆け込んできたのだ。
「お母様、どうなすったの?」
イナンナは驚いてペンを置いた。
「……たった今、陛下……国王陛下からのご使者が……」
肩で息をしている母の背中を、彼女は優しくさする。
「落ち着いてお話して、お母様」
「……そ、そうね、でも、びっくりしてしまって……」
メリアは深く呼吸をして気を静め、それから口を開いた。
「来月、お城で舞踏会が開かれるのは、お前も知っているでしょう」
「ええ。でも、それがどうか?」
「そ、その舞踏会で、第一王子様のお妃を決めると……」
「……そういうお話みたいね。それで?」
「それで……」
メリアは再び口ごもり、イナンナは困惑して母親を見上げた。
「ねえ、本当に一体どうなさったの? ちっともお話が分からないわ」
「陛下は、お前を第一王子殿下の妃にするつもりなのだそうよ、イナンナ」
爆弾のような言葉が、そのとき部屋に入ってきたドルーシアから発せられた。
「え……?」
イナンナはきょとんとして、車椅子に乗った曾祖母の顔を見つめた。
「お前が驚くのも無理はないわね。
わたしだって、使者からそのお話を聞いたときには、自分の耳を疑ったもの。
でもご覧、これを……」
老女は羊皮紙の巻物を、ひ孫に渡した。
「……これは……?」
「国王陛下直筆の
うっとりと胸に手を当てる老女の前で、巻物を広げる。
その文面を読む。繰り返し、繰り返し。
だが、いつまで経ってもイナンナには、事態がまったく飲み込めなかった。
「なに……これ? どういうこと……?」
眉をしかめ、母と曾祖母を交互に見ることしかできない。
「第一王子様がね、お忍びで王宮を出られた折に、お前の姿を見かけられたのだそうだよ。
それで、お前を見
代々続いてきた伯爵家の中でも、最大の
頬を染め、振って湧いたような幸運に舞い上がっているドルーシアとは正反対に、イナンナの顔は、どんどん青ざめていく。
「きゃあ、イナンナ!」
ついに、彼女は母親の腕の中で気を失ってしまった。