~紅龍の夢~

番外編 自由への白き翼(3)

その後、イナンナは屋敷の外で過ごす時間が多くなったが、メリアやドルーシアは彼女の好きにさせていた。

三度目に、イナンナがエグベルトに会ったときのこと。
木刀を借りて素振りをして見せると、騎士見習いの少年は、隙がない彼女の構えと剣さばきに舌を巻いた。

「剣術を習ったことがおありなんですか? 姫君」
「姫君はやめてよ、エグベルト。イナンナでいいわ」
「あ、そ、そうですね、イナンナ様」
「ホントにすごいや、なんでもおできになるんですねー、イナンナ様は」
エグベルトだけではなく、ヘイガーも感心しきりだった。

()められるような腕じゃないけど、これはお祖父様に習ったのよ。
旅の護身用にって、お父様やわたしに教えて下さったの。でも、この頃全然やってないし、まだまだよね。
そうだわ、あなたが剣術を教えてくれない? わたしに」

「ええっ!?」
伯爵家の令嬢の意外な申し出に、エグベルトは驚愕の表情になる。
「今、木刀を持って分かったの。こうやって素振りをすると、すごく気分がいいわ。
いやなことも、皆、忘れられそう。だから、もう一度剣術を習いたいのよ」

暗い髪の少年は、衝撃から立ち直ると激しく首を横に振った。
「ダ、ダメです、大体、僕だってまだ見習いなんですよ!
それに……貴族の姫君に剣術を教えたなんて知れたら、父に大目玉食らっちゃいます……!」
すると、イナンナは、緑の瞳をいたずらっ子のように輝かせ、庭師の息子を振り返った。
「わたしとヘイガーが黙っていれば、誰にも分からないわよ。
ねえ、ヘイガー」

いきなり話を振られ、庭師の少年は眼を真ん丸くした。
「えっ、俺も共犯ですかぁ?
でも、ほんと、よした方がいいですよ、そのお美しいお顔にケガでもしたら、大変だし」
「そ、そうですよ、やめましょう。あなたにケガなどさせたら、伯爵夫人に殺されちゃいますよ」
エグベルトも額の汗をぬぐいつつ、重ねて押し留める。
「気をつけるから、大丈夫よ。だから教えて。あなたが教えられるところまででいいから。
ね? こんなことを頼めるのは、あなたしかいないの、エグベルト。お願い……」

しかし、イナンナは諦めず、祈りを捧げるときのように顔の前で指を組み、必死の面持ちになった。
風にそよぐ銀細工の髪、透き通る白い肌、瞳は、葡萄畑でたわわに実る、みずみずしいマスカット……。
その濡れたように(つや)やかな珊瑚(さんご)色の唇から、『あなたしかいない』などと哀願されては、初心(うぶ)な十七歳の少年に勝ち目などあるわけもない。
「……わ、分かりました。未熟者ですが、がんばります……」
とうとう、エグベルトは、その瞳に吸い込まれるように答えてしまっていた。

ヘイガーはそんな友達の背中をつつき、耳元でささやいた。
(おいおい、エグベルト、いいのか、そんな約束して……)
(……仕方ないだろ、ヘイガー。ダメだって言うんなら、お前がイナンナ様を説得しろよ)
(えっ、む、無理だよ、そんなの……)
首を振るヘイガーに、エグベルトは手のひらを合わせ、拝むようなまねをする。
(だったら、協力してくれよ、僕からも頼む、ほら、この通りだ……)
(……知らないよ、どうなっても……)
ため息混じりに、庭師の少年は答えた。

それから毎日のように彼らは会い、ヘイガーが見張りに立つ中、剣術の稽古(けいこ)に励んだ。
イナンナは覚えが早く、エグベルトの教え方にも自然と熱が入ってゆく。
「イナンナ様は本当に筋がいい。教え甲斐(がい)がありますよ。
タルルシュにいる僕の師匠にお会わせしたいなぁ……もうかなりのお年なんですが、すごい元気なんですよ。
きっと張り切って、あなたにも色々教えてくれると思うんだけど」

すると、イナンナは眼を伏せた。
「わたしもお会いしたいけれど、多分無理ね……。
王都アロンから出る旅なんて、ひいお祖母様が許して下さるとは、とても思えないもの……」
「……そうですね……」

それから、早くも一年が過ぎようとしていた。
めきめきとイナンナが腕を上げ、もはやエグベルトが教えることはなくなったと思い始めていた、そんな折。
「イナンナ、大変よ、イナンナ!!」
勉強もきちんとこなさなければと、家庭教師を相手にノートをとっていたイナンナの部屋へ、母メリアが息せき切って駆け込んできたのだ。
「お母様、どうなすったの?」
イナンナは驚いてペンを置いた。

「……たった今、陛下……国王陛下からのご使者が……」
肩で息をしている母の背中を、彼女は優しくさする。
「落ち着いてお話して、お母様」
「……そ、そうね、でも、びっくりしてしまって……」
メリアは深く呼吸をして気を静め、それから口を開いた。

「来月、お城で舞踏会が開かれるのは、お前も知っているでしょう」
「ええ。でも、それがどうか?」
「そ、その舞踏会で、第一王子様のお妃を決めると……」
「……そういうお話みたいね。それで?」
「それで……」
メリアは再び口ごもり、イナンナは困惑して母親を見上げた。
「ねえ、本当に一体どうなさったの? ちっともお話が分からないわ」

「陛下は、お前を第一王子殿下の妃にするつもりなのだそうよ、イナンナ」
爆弾のような言葉が、そのとき部屋に入ってきたドルーシアから発せられた。
「え……?」
イナンナはきょとんとして、車椅子に乗った曾祖母の顔を見つめた。

「お前が驚くのも無理はないわね。
わたしだって、使者からそのお話を聞いたときには、自分の耳を疑ったもの。
でもご覧、これを……」
老女は羊皮紙の巻物を、ひ孫に渡した。
「……これは……?」
「国王陛下直筆の勅旨(ちょくし)なのよ、わたしも久しぶりに見たけれど……ほほほ、これで伯爵家も安泰だわ、なんと素晴らしい……」

うっとりと胸に手を当てる老女の前で、巻物を広げる。
その文面を読む。繰り返し、繰り返し。
だが、いつまで経ってもイナンナには、事態がまったく飲み込めなかった。
「なに……これ? どういうこと……?」
眉をしかめ、母と曾祖母を交互に見ることしかできない。

「第一王子様がね、お忍びで王宮を出られた折に、お前の姿を見かけられたのだそうだよ。
それで、お前を見()められ、ぜひともお妃にと……ああ、お目が高いこと! 
代々続いてきた伯爵家の中でも、最大の(ほま)れだわね、これは……!」
頬を染め、振って湧いたような幸運に舞い上がっているドルーシアとは正反対に、イナンナの顔は、どんどん青ざめていく。

「きゃあ、イナンナ!」
ついに、彼女は母親の腕の中で気を失ってしまった。