~紅龍の夢~

番外編 自由への白き翼(2)

その日も、いい天気だった。
熱は下がったもののあまり食が進まず、早々に食卓を辞したイナンナは、独り庭園に彷徨(さまよ)い出た。
伯爵家の庭園は広大で、ここへ来た当初は、よく迷子になったり、またはわざと隠れたりしたものだった。
面倒で退屈な貴族の生活から逃れるために。

(あの頃は、まだよかった。田舎暮らしの延長のようだったもの……。
……ああ……帰りたい……ふるさとのコンコルディア村へ……。
従姉妹達と一緒に木登りしたり、泥んこになって遊んだ、あの幼い頃へ……)
若葉の色を映す瞳に、再び涙がにじみそうになった、その時。

「──えい、やっ!」
威勢のいい掛け声が静寂を破り、彼女ははっとして顔を上げた。
(何……?)
木々の間からそっと(うかが)うと、一人の少年が木刀を手に、素振りをしているのが見えた。
(ヘイガー……じゃないわね、誰かしら、一体……)

ヘイガーは、庭師の息子だった。
伯爵家に来たばかりの頃、年の近い彼とはすぐに打ち解け一緒に庭園を駆け回ったが、貴族の娘としての行儀作法をうるさく言われるようになると共に、遊ぶことは禁じられてしまっていた。

それはさておき、目の前にいるのは、暗い色の髪を後ろで束ね、整った顔つきをした少年だった。
瞳は澄み切った空の色、服装は貴族のそれに近く、木刀を振り下ろす仕草は板についている。
年齢は、彼女より少し年長だろうか。
そのままじっと見守っていると、少年は突然動きを止め、彼女のいる茂みに鋭い視線を向けた。

「誰だ! そこにいるのは!」
一瞬どきりとしたものの、イナンナは胸を張って少年の前に出て行った。
「あなたこそ誰なの。ここが伯爵家の庭園だと、ご存知ないのかしら?」
「いえ、それは知っています。庭師のヘイガーとは懇意(こんい)なので、遊びに来ただけで……。
あ、……」
不意に少年は口ごもった。
木々の緑が投影された瞳、光を浴びた水晶さながらに、肩を伝い背中に(こぼ)れ落ちる見事な巻き毛。
月の女神にたとえられる、その類稀(たぐいまれ)な美しさから、一目で彼女が伯爵家の姫君だと分かったようだった。

彼は胸に片手を当て、うやうやしく礼をした。
「……これはご無礼を、イナンナ姫。
僕はタルシシュ出身の宮廷騎士の息子で、エグベルト・エイラン・ヴィタールと申します。
先ほども申し上げました通り、ヘイガーのところに遊びに来たのですが……」

「遅くなってごめん、エグベルト!」
無邪気な声が響き、勢い込んだヘイガーが、茂みをかき分け現れたのはそのときだった。
「……あ、あれ?
エグベルト──と、イナンナ様!?」
彼女の存在に、浅黒い肌をした庭師の息子は茶色い眼を見開いた。

「お久しぶりね、ヘイガー」
イナンナがしとやかに挨拶をすると、ヘイガーは青くなった。
「い、いけません、お戻りください! 俺、叱られます……こんなとこ、誰かに見られたら!」
「平気よ。このところ、立て続けにパーティがあったでしょう? 
皆、後片付けやお掃除に忙しくって、庭園のこんな奥にまで、誰も入って来やしないわ」
「で、でも、イナンナ様……」

「大丈夫だよ。お前の親父さんも、ここ二、三日留守にしてるんだろう?」
エグベルトも彼女に加勢した。
「そ、そりゃそうだけどさぁ……、やっぱヤバイよ、怒られるよ……」
ヘルガーは、黒いもじゃもじゃ頭をかきむしり、狼狽(ろうばい)の色を隠せなかった。

「落ち着けよ、ヘイガー。
たまたま散歩中の姫に会っただけだ、誰かに言われたら、そう答えればいい……というか、実際、その通りなんだし」
「そうよ、わたしもちゃんとそう言ってあげるわ。安心して、ヘルガー」
「そ、そう……かな」
貴族の二人に代わる代わるなだめられて、浅黒い少年はようやく顔を上げた。

「見られるのが心配なら、家に入らないか? そうすれば、誰か通りかかっても気づかれないよ」
「そうね。ここで話してたら、誰かに聞かれてしまうかもしれないわ」
「そ、そりゃ大変だ!」
庭師の息子は慌てて左右を見回し、二人を自分の小屋に招き入れた。
「むさくるしいところですが、どうぞ、中へ」

「久しぶりだわー、ここに来るのは……」
イナンナは、懐かしそうに内部を見回した。
庭師一家の住居は、当然、伯爵の屋敷などよりかなり狭く、遥かに見劣りもしたが、それが逆に故郷で住んでいた家を思い出させ、彼女は気分が落ち着く気がしたものだった。

「えっ、ここに来られたことがあるのですか?」
エグベルトが尋ねた。
「ええ。ご存知でしょうけど、わたしは以前、小さな村に住んでいたましたから、連れて来られた当時は、大きなお屋敷になじめませんでした。
それで、しょっちゅう庭を駆け回って、ここにも入り浸っておりましたのよ」

「……そうだったのですか。遠くに住んでいらっしゃったとは聞いておりましたが」
「“女神”がこんな風で、がっかりなさったでしょう? わたし、今もオテンバなんですのよ。
ですから、貴族の暮らしって、窮屈で仕方がないんです……あら」
初対面の相手に、つい本音を漏らしてしまったことに気づいて、イナンナは急いで口をつぐむ。

しかし、エグベルトはあきれた風もなく、深くうなずいた。
「よくわかりますよ、姫。
僕も、十六になった今年から、王宮での本格的なお勤めが始まったんですが、習わなくてはならないことがすごく増えてしまって、故郷が、なんか懐かしくて……。
それで、時々、こっそり抜け出して王宮の庭を散策してるうちに、この伯爵家の庭園に迷い込んでしまい……お陰で、ヘルガーとも友達になれたんですけどね」

「そうなんですよ。名誉ある王宮騎士の卵だってのに、こいつってば、すっごいサボリ魔なんです」
ヘルガーが口をはさむ。
「お、おい、サボリ魔ってことはないだろ、ヘルガー。
時々……ごくたま~に、息抜きしに来てるだけじゃないか」
弁解するエグベルトに向かって、ヘイガーはからかい口調で続けた。
「へへ~、あんなこと言ってら。おとといも、その二、三日前も来てたじゃないか」
「……な、なにも、姫君の前で、そんなこと言わなくても……!」

頬を紅くしている少年に、イナンナは同情の眼差しを向けた。
「気にしなくてもいいわ、エグベルト。よくわかるもの、あなたの気持ち。
たまたま貴族や騎士の家に生まれただけで、後継ぎにされるのも困りものよね」
少年は、ほっとしたように顔をほころばせた。
「ほんと、そうですよね。やっぱり、人には、向き不向きってものがあると思うし」

「……そうかなぁ、贅沢なんですよ、二人とも。本当の貧乏ってものを知らないから」
ヘイガーは、不服そうに口をとがらせた。
「あら、わたしの村は貧しかったわよ。田舎(いなか)だから家はここより広かったけど、従姉妹達も一緒に住んでたから、余裕なんかなかったし」
「あ……そうでしたか、すみません……」
庭師の少年はぺこりと頭を下げた。

「……いいのよ、ヘイガー。
でもわたし、ここに来ていなかったら、行商人になっていたと思うわ。
お父さんが生きてらした頃は、村にお母様を留守番に残して、二人で品物を売り歩いたものよ。
昨日はあの都市、今日はこの村、明日はあの町……って具合にね……」
イナンナは遠い眼をして、天窓から空を(あお)いだ。

四角く区切られた空。
不意にピーと鋭く鳴いて、白い鳥が窓を横切る。
その鳥に向かって思い切り手を伸ばしたい衝動に、彼女は駆られた。

(……ああ、鳥が渡ってゆくわ。
()びたい……連れて行って、わたしも……)
イナンナの若竹色の瞳に映っているのは、無限に続く大空ではなく、彼女にとって遠くなりつつある過去の幻影だったろうか。

「えっ、姫様が商売を……?」
「イナンナ様が行商人……?」
二人の少年は眼を丸くして、完璧な美を備えた少女に視線を注いだ。
少年達がまじまじと自分を見ている、そのことで傷つき、彼女は顔を伏せた。
「……やっぱりヘン……かしら? わたし……」

「いいえ、意外な組み合わせだと、ちょっとびっくりしただけですよ」
エグベルトは慌てて首を振る。
「そうですよ、変なんかじゃないですって!
俺、こんな可愛い子が物売りに来たら、品物全~部、買っちゃいます!」
庭師の息子は、大げさに腕を振り回した。

「ま、お上手ね、ヘイガー」
彼女がほんのわずか笑顔を見せると、ヘイガーは顔を真っ赤にした。
「ほ、本気ですってば! 絶対絶対、全部買いますっ!」
「僕もです! 僕もみんな買います!」
負けじと宮廷騎士見習いの少年も、大声で宣言する。

すると、ようやくイナンナの顔に、輝くような微笑が浮かび、彼女はドレスの裾を軽くつまんで礼を述べた。
「ありがとう、優しいのね、二人とも」