~紅龍の夢~

番外編 自由への白き翼(1)

「はあ……」
イナンナは大きくため息をついた。
彼女は大きなアーチ型の窓辺に腰掛け、伯爵家の広い庭園を見渡していた。
春の明るい陽射しを受けて、長い髪が銀のヴェールのように透けている。

白皙(はくせき)美貌(びぼう)、若草色の瞳に宿る(うれ)いを帯びた影に、ファイディー王国の若い貴族達は皆、心ときめかせ、十三歳になったばかりだというのに、求婚者は引きも切らない。
通常この国では、貴族の子供達は十五歳で社交界へデビューする。
そのお披露目(ひろめ)もまだなので、と断れば、婚約だけでも……と望まれる。
あまりにもそれが相次いだため、伯爵家ではついに、幾度かに分けてパーティを開き、イナンナ自身に相手を選ばせることとしたのだった。

「はあ……」
再び、少女は深く息をついた。
(なんて退屈なの。……あんなことで楽しめる人が(うらや)ましいわ……。
おまけに“婚約”なんて。わたし、まだ十三よ。なのに……もう結婚なんか、しなきゃいけないの?
……あの人達の中から、誰か一人、選んで……?)

彼女の視線の先には、着飾った男女が手にグラスを持ち、軽食をつまんだり笑い合ったり、また、音楽に合わせて踊ったりしていた。

「まあ、こんなところにいたのね、イナンナ。ドルーシアお祖母様が、さっきから捜しておいでよ」
「……お母様」
振り返ると、そこには彼女の母、メリアが立っていた。
結い上げた豊かな黒髪、娘の眼が早春に()えいずる若葉ならば、母親の瞳は盛夏における緑陰といった風情で、彼女らは大輪に咲き誇る花のごとく、いずれ劣らぬ美しさを競っていた。

イナンナは、かつて王宮勤めの兵士と駆け落ちし、ファイディー国のアルパード伯爵家から勘当(かんどう)された、サーシアと言う女性を祖母に持つ少女だった。
五年前、伯爵が亡くなり、一人(のこ)されたイナンナの(そう)祖母ドルーシア伯爵夫人は、娘サーシアの行方を、懸命に捜し求めた。
しかし、行方がわかったときサーシアは、駆け落ち相手もろともすでに他界しており、孫に当たるメリアと曾孫(ひまご)イナンナを、ドルーシアは娘の忘れ形見として伯爵家に引き取ったのだ。
それから、三年の月日が流れ、初めは戸惑っていた二人も、すっかり貴族としての生活になじんでいた。
……はずだったのだが。
少なくとも、メリアは王侯貴族の生活を謳歌(おうか)しているように見え、その証拠に、未亡人だった彼女は新たに貴族との婚約に漕ぎつけていた。
それだけに、周囲の人々は、どうしてイナンナだけがこの暮らしになじまないのか、理解できかねていた。
普通ならば、子供の方が環境の変化に適応しやすいはずなのだから。

「ね、イナンナ、どうしたと言うの? 
この頃、ふさぎこんでばかりいるようだけれど、何か心にかかることがあるのなら、話してごらんなさい」
 気遣いを感じさせるその口調に、イナンナは声の主を(あお)ぎ見た。
幸せそうに、この環境に順応している母。貧しい村で暮らしていた頃より、よほど輝いて見える。
彼女は淋しげな微笑を唇に刻み、首を振った。

「……いいえ。別に何もないわ、お母様」
「イナンナ……」
「ひいお祖母様がお呼びなのでしょう、行かなくちゃ」
彼女は立ち上がり、母の視線を振り切るようにその場を後にした。

「ああ、イナンナ。どこへ行っていたの、お前のためのパーティだというのに」
足の悪いドルーシアは、座り心地のいい車椅子に腰掛けたまま、曾孫を見上げた。
かつては黒く(つや)やかだった髪もすべて白くなり、瞳も色()せて老竹(おいたけ)色になってしまっている彼女も、若かりし頃は、宮中の華と(うた)われた美姫(びき)であり、その往年(おうねん)の面影は、七十を超えようとする今となっても、しわ深い顔に残されていた。
「ごめんなさい、ひいお祖母様……」
「──さ、ダンスをなさい。皆様お待ちかねよ」
「はい……」
浮かぬ顔で、それでも曾祖母の言葉に従い、イナンナは若者達の踊りの相手をする。

「……はあ、やっと終わった……」
果てしなく続くように思えた、精神的拷問にも近いパーティがようやく終わり、自室に戻ったイナンナは、豪華ではあるがひどく窮屈なドレスをやっと脱ぎ捨てると、下着姿のままベッドに倒れ込んだ。

(……なんで、皆、こんなパーティなんかを楽しいと思うの?
ひいお祖母様やお母様は、まるで分かってらっしゃらない……。
大体、男の子達はオウムみたいに『美しい、きれいだ』って繰り返すだけだし、かといって貴族の女の子といても、ちっともつまらない……新しいドレスや宝石や男の子の品定め……頭の中はそれだけなんだもの。
そんなことの、一体何が面白いの?
……それとも、わたしが……どこかヘンなのかしら……?」

そう思うと、ひどく悲しくなって、イナンナは枕に顔をうずめて涙した。

翌日も、その翌々日も、パーティは続いた。
たまに休みがあっても、次の日にはまたもうんざりする行事が待っているかと思うと、徐々にイナンナは食欲をなくし、ついには熱を出して寝込んでしまった。

「お医者様のお見立てでは、緊張続きで、疲れてしまったようですわ。
さすがに連日のパーティでは、若くても体がもたないのでしょう……」
祖母の車椅子を押しながら、メリアは言った。
「……そう、ちょっと無理をさせ過ぎたかもしれないねぇ。こう毎日だと、わたしも疲れるし」
ドルーシアは、肩にかけたシルクのスカーフをかき寄せた。

「お寒いですか? お祖母様」
「いいえ、大丈夫よ、メリア」
首を振る老夫人のスカーフを直し、メリアは続けた。
「イナンナはまだ十三です、婚約にしても早過ぎますわ。
……それにあの子なら、もらい手がなくて困るということにはならないでしょうし。
やはりお披露目が済んでからでも、遅くはないのではないでしょうか……」
さすがは母親、メリアは、完全ではないにしろ、イナンナの心境を見抜いていた。

「そうかしらね。わたしの若い時分には、十三や四で婚約というのも珍しくはなかったものだけれど。
……でも、たしかにあの子なら、今にもっと、よいお相手が見つかるかもしれないわねぇ……」
「そうですとも、わたしがよい例ですわ」
「……そういえば、そうだわねぇ」

老女は、ここに来てから再婚相手を見つけた、美しい孫を振り仰いだ。
すでに三十を二つ三つ出ているはずだが、まだ二十歳前半で通る若々しさのため、イナンナと並ぶと、母娘(おやこ)というより姉妹のようだと、もっぱらの評判だった。

「ですから、あの子がもっと大人になれば、自然と自分に合う相手を見つけることもできるはずですわ」
「……そうだわねぇ……焦らずとも、もっと時間をかけてみても損はないかしらねぇ」
メリアの言葉にドルーシアも同意した。

こうして、イナンナが婚約相手を見つけることは急がなくてよいことになり、パーティも以前のように月に一度のペースとなって、少女は心底、ほっとした。