その日の午後、サマエルは、父王の書斎へと足を運んだ。
魔界王は、午前の謁見が終わった後、たいてい書斎にいて執務をしているのだった。
「……陛下、お仕事中お邪魔しまして、申し訳ありません……。
言いつけるようで気が進まないんですが……兄上が、またイタズラをしたんです……。
今度は、女官のドレスを燃やしてしまって……。
ちょうど私が通りかかって消し止めたんで、大事には至らなかったんですが……」
書斎に通された第二王子がそう切り出すと、魔界王はようやく書類から顔を上げた。
自分とそっくりな眼が、怒りで
しかし、それは、彼の早合点だった。
「すでに聞いておる、ちょうどよい、そなたも呼び出そうと思っておったところじゃ」
「そうでしたか」
サマエルはほっとした。
「……何でもあやつは、またもや悪ふざけを
この頃は、そなたと争うこともなく、ようやく分別がついてきたと思い喜んでおったが、まったくもって!
もはや、容赦はせぬわ!!」
サマエルが心の中でにやりとした、ちょうどその時、ノックの音が響いた。
「失礼致します、陛下。タナトス殿下をお連れ申しました」
「入るがよい」
「は」
アスモデウス導師が、第一王子を従え、入室してきた。
途端に、魔界王は怒りを爆発させ、激しく眼を燃え立たせて息子を
「タナトス! 悪ふざけも大概にせよ!
本日は、女官が
弱者を
「ぼ……ぼくじゃないよ、サマエルだ! ぼくは、ちゃんと授業を受けてたよ、父様!」
言い返しながら、ある可能性に思い至ったタナトスは、さっと弟に視線を向けた。
対するサマエルは胸を張り、迷いのない瞳で兄を見返した。
落ち着き払ったその態度からは、かつての弱々しさは、
「私は無実です、陛下。その証人として、今朝の女官を呼んでいただきたいのですが」
彼はしごく冷静な声で、父王に告げた。
「すでに呼んである。あの者達をここへ」
「は、ただ今」
小姓が礼をして退出する。
「……ミランダと申します、陛下」
「カ、カーリンと申します」
控えの間から呼び寄せられた女官達は、君主の前にひざまずいた。
その二人に、魔界王は命じた。
「儀礼はよい、
まずはミランダ、そなたからじゃ」
「……は、はい、それでは申し上げます……」
うつむいたまま、おどおどと一人目の女官は話し始めた。
「今朝、わたくしが回廊を歩いておりますと、“イグニス”の声と共に服が燃え上がりまして……。
その時に銀髪のお姿を拝見致しましたので、そのときは、サマエル殿下のいたずらと……つい、そう思ったのでございます……。
ですが、直後、本物のサマエル殿下がいらっしゃいまして、火を消して下さいましたので、それは誤りであったと……わかったのでございます……」
「うむ。そなたはいかがじゃ、カーリンよ?」
王は
「はい……。わたくしは……タナトス殿下も……サマエル殿下も、お姿は見ませんでした……。
服が燃えただけで……。ですが……」
「この者の話を聞き、てっきりタナトスの
「はい……」
消え入りそうな震え声で、カーリンは答えた。
「な……なんで、俺、いや、ぼくの仕業なのさ、父上!
そいつは銀髪だったんだろう、サマエルが火を点けといて、知らないふりして走って来たに決まっじゃないか!
だって、こいつ、授業に遅れてきんだって! ホントだよ、先生に確かめてみてよっ!」
第一王子はむきになって叫び、弟王子に指を突きつけた。
「アスモデウスよ、それはまことか?」
「
導師は深々と頭を下げた。
「サマエル様は飲み込みがお早く、近頃では水晶占いに興味をお持ちになられておられましたゆえ、占いに
「ふむ、ならば……」
言いかける主の言葉を察し、家臣は否定の身振りをした。
「いえ、陛下。弟子を
殿下が遅れて参られた理由は、専用の水晶球を創らせるため、セウトゥスの工房へお行きいただいたゆえにございます。
……ご承知の通り、あやつめは、持ち主の波動に合った魔法具を創らせれば、魔界随一の腕を誇っておりますが、決して依頼主の許へは来ようとせぬ、偏屈な変わり者でございますゆえ……」
「さようか。それゆえ遅れたのじゃな、サマエル」
父王の問いに、第二王子は静かにうなずいた。
「……はい、陛下。
セウトゥス殿に水晶球を創ってもらい、部屋に戻る途中で、女官の叫びを聞いて、走っていったんです。
そしたら、火が出てて……」
「ふむ……時間的には符合しておるな」
魔界王がつぶやき、あごひげをなでつけたその時、一人目の女官が口をはさんだ。
「あ、あの、わたくしをお助け下さいましたとき、サマエル殿下は確かに、水晶球をお持ちになられておいででした。
それに……あ、失礼致しました、差し出口をお許しください、陛下……」
「何じゃ、遠慮はいらぬ、申してみよ」
「は、はい……。
わたくしがあのとき、最初にお見かけしました銀髪のお方は、水晶球はお持ちになっておらず、また、黒いお洋服をお召しでございました。
ですが、そのすぐ後に来られたサマエル殿下は、青いお召し物を……」
「しかと、相違ないか」
重々しい口調で、魔界の王は念を押した。
「……間違いございません」
伏し目がちだったものの、女官の答えははっきりしていた。
「……なるほど。
つまるところ、たとえサマエルが一人二役を演じたとしても、わざわざ、さような細かいところまで変えたりはすまい……そう、そなたは申したいのじゃな」
「はい、さようでございます」
ミランダは今度は顔を上げ、君主の眼をまっすぐに見ながら返事をした。
元々、彼女は乱暴な兄王子はあまり好きではなかったし、今度のことですっかりサマエルびいきになっていたのだった。
その様子を心に留めて、魔界王は再び教育係に問いかけた。
「アスモデウスよ、そなたはいかに考える?」
「……は。
タナトス様が、弟君様に成りすまされる……それ自体は、幻覚魔法をご習得済みですので、比較的たやすいことと存じ上げます。
……それゆえ、今回のことは……」
アスモデウスは、ちらりと第一王子に視線を走らせた。
「な、何で決めつけるんだよ、ぼくは、やってないってば!」
反射的にぎくりとしてしまったタナトスは、それを打ち消そうと大きな声を上げた。
「今少し黙っておれ、タナトス。異議あらば、後でゆっくり聞こうぞ。
アスモデウス、続けよ」
魔界王は息子をたしなめ、家臣を促した。
「……は。では、続けさせていただきます、陛下。
それに引き換え弟君様の方は、兄君様よりかなりお遅れになっておいでゆえ、一瞬にして衣服を替える、あるいはそれと見せかけるなどという中級以上の呪文は、到底お使いになれぬことは明白でございます」
長年王子達を教えてきたアスモデウスだったが、第一王子タナトスには心底、手を焼き通しだった。
対する第二王子の方は真面目で、これまでは子供らしい悪ふざけ一つ、したことがない。
……となれば、兄王子の仕業に違いないと、彼が思ってしまうのは
そしてベルゼブルもまた、同様の結論に達した。
「ふむ、さようか。
──タナトス、これでもまだ、やっておらぬと申すつもりか?
魔族の第一王子ともあろうものが、恥ずかしくはないのか!」
父王に真正面から見据えられ、タナトスは、ついに観念した。
「……ちぇっ、わかったよ、ごめんなさい、ぼくがやりました、こっちの女はね!
でも、もう一人は知らない、ホントだよ、信じてよ、父様!」
「黙れ! まだ白を切るつもりか!? しかも、弟に罪をなすりつけようとするとは!
もうよい、お前の罰は、尻百たたきじゃ!!」
「えええ──! そんなぁ!」
気の短い魔界王は、息子の言い訳をわざわざ聞く耳など持たず、無慈悲に裁定を下した。
その刹那、サマエルの紅い唇の端が、かすかに持ち上がったことに気づいた者は誰もいなかった。