~紅龍の夢~

番外編 魔界王家の王子達(5)

「サマエル、そなたは母親似じゃな……タナトスは似ておらぬ」
一方、タナトスがすねていることも知らず、サマエルの部屋へと続く廊下を歩きながら、魔界王ベルゼブルは静かに言った。
とっさにサマエルは、自分を運ぶ父親の顔を見つめた。
「えっ? 私、だけ? でも、私とタナトス兄様は、双子のようだとよく言われてますが……」

「たしかに、そなた達はよく似てはおるが……な。
タナトスを幾度眼にしようとも、アイシスに似ておるとは思えんでおった。
なれど、先ほど、毅然きぜんとした態度で立つそなたを眼にした折に、ようやくその理由が分かったのじゃ……。
その微笑のせいじゃ、妃にそっくりの笑み……。
アイシスがそなたを産んですぐ亡くなった後、新たな妃をめとることなど考えもしなかった……。
そなたの笑みを見るたび、無意識に妃を思い出し、それが辛くて……そなたを遠ざけてしまっておったのじゃな。
余としたことが、今頃気づくとは……済まぬことをした、許してはくれぬか、サマエル」

意外な言葉に眼を丸くしたものの、父が自分を嫌っていたわけではないと知って、サマエルは頬を染めた。
「父上が謝られることなど、何もありません。もう済んだことですから……」
彼は、自分でも驚くほど大人びた口調で答え、魔界王ははっとして、息子の顔を見直した。
「『もう済んだこと』……か……。
それもアイシス…お前達の母の口癖であった……。
余が、つい熱くなってしまい、後でびるといつもそう申しておった……。
『もう済んだことです』……とな……」
思い出をたぐるように遠い目つきをして、ベルゼブルは言った。

「母様が……?」
自分を産んですぐに亡くなった生母アイシスのことは、当然ながら彼は、知るよしもなかった。
魔界王の命令で、今も生前のままになっている母の部屋、そこに掛けてある大きな肖像画でしか、その面影を知るすべはなかったのだから。

「そなたが母のことなど何も知らぬのに、口癖まで似ておるのは…”血”のせいじゃろうか……。
魔界の王でさえ、過去からは逃れるすべを持たぬ……。
だが、思い出にばかり浸っておるわけには行かぬ、前に進まねばな。
今日はめでたき日じゃ。
本来なら大いに祝いたいところじゃが、あれほどの魔力を使った後ともなれば無理は利くまい。
体が元に戻るまで、ゆるりと休むがよいぞ。
……そのうち、タナトスも交えてアイシスことを話してやろう。大天使をもとりこにした輝くような美しさ、優しさをな……」

魔界王は微笑んだ。
サマエルが初めて見る、自分に……自分だけに向けられた、父の優しい笑みだった。
彼の胸に、熱いものが込み上げてくる。
(あ……ダメだ……もう……泣かないつもり、だったのに……)

「父様……人前で泣くのはもう……これっきりにしようと思います……だから……」
「ああ、泣くがよい、そなたを軟弱だとは思わぬゆえな」
”取替えっ子”と言われたこと、兄との取っ組み合い、初めて使えた魔法。
そして……父の、母への想い……。
たったの一日で、小さな胸にしまっておくには、あまりにたくさんのことがありすぎた。

もう決して泣くまいと思っていたサマエルだったが、ついにこらえ切れずに涙があふれて滴り落ちる。
「父様──!」
彼は生まれて初めて父に抱きつき、思い切り泣いた。

イシュタルが、スープを持って子供部屋に入っていったとき、サマエルはぐっすり眠っていた。
そのそばに、気遣わしげに兄が付き添っているのは、彼女にとってはひどく意外なことだった。
「兄上、まだこちらにいらしたのですか、そろそろ戻られてはいかが? 
大臣達も気が気ではないでしょうに。サマエルは、わたくしが()ておりますから」

「ふん、大臣どもなど、勝手に困らせておけばよいのじゃ」
「ま……」
そのそっけない答えに、イシュタルは驚いた。いや、驚愕したと言ってもいい。
今までの彼なら、魔界王としての政務を何より優先し、お気に入りのタナトスのことでさえも、後回しにしていたのだから。
子供のことを本気で心配している兄の姿を、彼女は初めて眼にしていた。

「それはそうと、タナトスはどうしておる?」
「え? ああ……あの子なら夕食も摂らずに、どこかへ行ってしまいましたわ。
きっと、皆が級にサマエルのことをちやほやし始めたのが気に入らなくて、すねているのでしょう」
魔界王は眉をしかめた。
「すねておる、じゃと。
弟がようやく魔法が使えるようになったと申すに、それを喜んでやる優しき心がないのか、あれには!」

「それは無理というものですわ、今まではお山の大将でしたもの。
ですが、サマエルが魔法を使えるとなれば、今までのように意味もなくいじめたり、用事を言いつけたりも出来なくなるでしょうから、タナトスのためにもなりますわね。
先ほども申し上げました通り、甘やかしすぎてあの子をダメにしてしまっては、元も子もございませんわ。
大体、魔界王に選出された後、執務をないがしろにして国政がとどこおるようなことがあっては、魔界人の存続にも関わりますもの。
あげく、王の称号を剥奪はくだつされるようなことにでもなれば、長年続いてきた魔界王家の栄光にも傷がつきかねませんわよ、それも、義兄上の子育ての失敗という、不名誉な理由でね。
……それでは困るとお思いになりませんこと、義兄上。
──いえ、第五十六代魔界王、ベルゼブル陛下?」

口の達者な異母妹にまくし立てられ、ベルゼブルはため息をついた。
「……分かっておるわい。今後は二人とも平等に扱うゆえ、左様に責めるな」
「本当ですわね?」
「我が言葉を疑うと申すか、妹よ」
「──とんでもございません、偉大な魔界の王であらせられる、義兄上のお言葉を疑うつもりなど、
毛頭ございませんわ」

王は、わざとらしくていねいに頭を下げる異母妹を、じろりと見た。
「ふん、何か引っかかる申しようじゃな。
まあよい、ならば仕事に戻ることと致そう。サマエルを頼んだぞ」
ベルゼブルは、名残惜しげに息子の寝顔を一目見てから部屋を出て行く。
イシュタルは忍び笑いをもらし、それから不意に心配になって、ベッドを覗き込んだ。
心なしか青ざめた甥の頬についた涙の跡に眼が止まると、彼女は眉をしかめた。

(まあ、かわいそうに……兄様ったら、また泣かしたのかしら……?
本当に、兄様もタナトスも繊細とは程遠いんだから、まったく……!)
そっと涙をぬぐっても、サマエルは眼を覚まさない。
(無理に起こさない方がいいわね……)
イシュタルは、冷めないようにスープに魔法をかけ、ベッドのそばで本を読み始めた。

どれほど経ったのだろう、そっとドアノブが回されるのに、彼女は気づいた。
何者かが、部屋に入って来ようとしている。
とっさに誰何すいかしようとしたが、邪悪な気配も感じられない。
そこで、イシュタルは呪文を唱えて姿を消し、相手を見極めることにした。
気配を殺して見ていると、初めに闇色の髪が、次に腕白そうな顔が現れて辺りを見回し……忍び足で部屋に入ってきたのは、兄王子のタナトスだった。

叔母がいることも知らずに、漆黒の髪の少年はそろそろと豪華なベッドに近づいていき、弟の寝顔を覗き込む。
その時、イシュタルは、甥が後ろに回した手に何か持っていることに気づいて、いきなり姿を現した。
「タナトス、後ろに持っているのは何!?」

「──わっ!?」
突然声をかけられて、タナトスは飛び上がった。
「お前、また弟に何かする気なのね、それをよこしなさい!」
「えっ、ち、違う! 
俺、いたずらなんかしないよ、ホントだよ!」
「嘘をおつき!」
暴れる甥の手をつかんだ彼女の眼に映ったのは、床に落ちたひとひらの花びら。
タナトスがにぎっていたのは、魔法草モリュの純白の花だったのだ。

「まあ……」
彼女は眼を見開き、第一王子を解放した。
甥の顔や手足は泥だらけの上、引っかき傷を無数にこしらえていて、服もあちこち破れ……たった今まで、野山を駆け回っていたといった風情だった。
「こんなに傷だらけになって……。それ、野生のモリュなのね。今、採ってきたの?」

タナトスは、こっくりとうなずき、魔法草を差し出した。
「うん……サマエルに飲ませてやって。
山に生えてるのの方が、効き目が強いって聞いたから。
イシュタルは、信じられない思いでいっぱいのまま、花を受け取った。
「……でも、どうしてわざわざ? モリュなら、薬師が菜園でたくさん作っているのに」

すると、兄王子のやんちゃな黒い眼に、みるみる涙が盛り上がってきた。
「だって──だって、俺のせいだ。
俺、ずっと前から、あいつのことからかったり、悪口言ったり……殴ったりもしてたんだ……。
魔法、防御できないのも分かってた……なのに魔法で攻撃したから、だから、サマエル本気で怒って、
……そして、そしてもう少しで、死んじゃうとこだったんだよね?
部屋でそれ考えてたら……何だか怖くなって……サマエルが死んじゃったら、俺のせいだって……」

(まあ、この子も捨てたものでもないわね、いいところも、ちゃんとあるわ……!)
イシュタルは、甘やかせてどうしようもなくなってしまったと思っていたこの甥を、少し見直した。
「お前はいい子ね、タナトス」
「──俺、いい子なんかじゃない!」
意外なことを言われて照れたのか、タナトスは顔を赤らめ、ぷいと横を向いた。

「弟のために魔法草を採って来てくれるなんて、いい子の証拠よ。
サマエルが聞いたら、きっとびっくりして、それから喜ぶわ。
わたしからもお礼を言うわね、ありがとう、タナトス。
サマエルは二、三日もすれば元気になるわ。今日のことはお前のせいではないから、心配しなくていいのよ。
弟が元気になったら、色々教えてあげなさい、魔法は初心者なのだからね」

「……ホント? ホントに大丈夫?」 
タナトスは、真剣な表情で聞き返す。
「本当よ、だから安心なさい。
さ、まずはお風呂に入って来なさい。それから夕食を摂って、ぐっすりお眠り。
明日になれば、サマエルとも話が出来ますよ」
「はい! おば様!」
安心したタナトスは、元気に部屋を飛び出していった。

(サマエルだけでなく、タナトスも成長したものね……。
兄上にお教えしておかなくては。
……それにしても、サマエルが魔力を使い果たしたのだとしたら、どうして助かったのかしら?
怒りと共に”目覚め”たのだから、力の加減などできなかったはず……。
それほど、あの子の力は膨大だと言うの?
……ああ、そうだわ。かなり前になるけれど、同じようなことがあったわね……。
あの子供のときも、何とか命は取り留めたものの、その後は、もう二度と魔法を使えなくなってしまったのだったわ……。
まさか、サマエルも……!?)

ぱちんと指を鳴らし、イシュタルは愛用の水晶球を呼び出した。
眠り続ける第二王子のそばで、彼女は熱心にそれを覗き込み、彼の行く末を占い始めた。