~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

30.魔界王家の禁秘(6)

魔界王ベルゼブルは、はっと眼を見開いた。
「夢!? ……そ、それでは、妃とイシュタルが見ていた悪夢は、女神様の御業(みわざ)と申されますのか!?」

『悪夢じゃと!? 何たる言い草、その方ごとき小童(こわっぱ)に、何が分かるというのじゃ!
結界に(はば)まれ、なす術もなく永の年月をただ耐え忍び、ひたすら第一王子の誕生を待ちわびるのみ……左様な(わらわ)の心持ちなど、例え天地(あめつち)がさかしまになろうとも、その方には理解できぬであろうよ、この罰当たりめが!』
口を極めて王を(ののし)るアナテ女神の瞳は黄金色に燃え上がり、髪は鞭のように唸りを上げて床をひっぱたく。

その剣幕に恐れをなした王は、色を失い平身低頭した。
「も、申し訳……浅はかな所業の数々、すべて我が不徳の致すところ……お、お詫びの言葉も……!」
「女神様、知らずとはいえ犯した涜神(とくしん)、広いお心にてどうかお許しを!」
王妃アイシスもまた、その隣にひれ伏し懇願した。

『今さら謝罪など!
すべてが後の祭り、覆水(ふくすい)(ぼん)に返らずじゃ! 我が瞋恚(しんい)(ほむら)を消すこと叶わぬわ!』
アナテは腕を組み、ぷいとそっぽを向く。姿形は似てもいないのに、そうやって怒りをぶちまける様子は、どことなくタナトスを思い起こさせるものがあった。

「お、お怒りはごもっともで……改めまして我が粗忽(そこつ)を深くお詫びし、お許しを乞い願い(たてまつ)ります……!」
ようやく、おのれの罪の重さに思い至ったベルゼブルが額を床にすり付けるも、女神は沈黙を守ったままだった。

「ああ……魔族はもう、勝てない。故郷も取り戻せない、のね……」
アイシスは顔を覆い、すすり泣いた。
白魚のような指の隙間から涙がこぼれ落ち、床を濡らしていく。

『妾とて無念この上ない……されど、紅龍を創り出すには膨大な時間が要るのじゃ。
その間、小賢しき神族どもが、手をこまねいておるとは到底思えぬでな』
王妃への女神の眼差しは、王に向けるものとは打って変わって穏やかだった。

ベルゼブルは、おずおずと頭を上げた。
「お、恐れながら……魔界の周囲には“黯黒の眸(あんこく ひとみ)”の強固な結界が張り巡らされております。
神族とてそうたやすく突破は出来ぬはず、どうか我らをお見捨てにならず、お力添えを……」

アナテは眉をひそめた。
『呆れたものよ。“黯黒の眸”は、手綱(たずな)の効かぬ悍馬(かんば)も同然、いずれは出奔(しゅっぽん)するであろうに、お気楽なことじゃ』
「いやいや、あれが逐電(ちくでん)出来ようはずはございませぬ、厳重に結界を張り巡らし、封じ込めておりますれば」

自信満々に言ってのける王に、女神は冷たく返した。
『家臣の戒飭(かいちょく)に耳をも貸さぬ、偏狭(へんきょう)暗愚(あんぐ)な君主と成り果てたその方が受け合う言説(げんせつ)など、信憑性(しんぴょうせい
)
のかけらもないわ』
「う、むう……」
怒りがこみ上げたものの、ベルゼブルは言い返す言葉もない。

『左様なことより、最大の難事は、妾の力が枯渇しておることじゃ。
いかような目論見(もくろみ)も、魔力なくしては画餅(がべい)と成り果てようぞ。
……守護神とは名ばかり、同胞が滅びていくさまを、ただ傍観せねばならぬとは……情けなきことよ』
女神は悔しげに唇を噛んだ。

「されど、お言葉ではございますが、真実“黯黒の眸”が遁走(とんそう)するとも限りませぬし、何か方策が……」
『ええい、黙れ! その方の()れ事など、もはや耳にも入れとうない!』
カッと目を見開く女神の髪がまたも生き物のように伸び、王の体に巻き付いた。
「申し訳……うわっ!?」
慌てて()びるも遅く、王は高々と持ち上げられられてしまった。

『もう良い! その方の(とが)、自身の血と肉と命で(あがな)わせてやるわ!』
「お鎮まり下さいませ、どうか、王をお許し下さい!」
王妃が必死の面持ちで懇願する。
だが、女神は聞く耳を持たず、ベルゼブルを持ち上げては床に繰り返したたきつけ、血反吐(ちへど)を吐かせた。

『老いぼれの眇々(びょうびょう)たる命でも、いくばくかの足しにはなろう!
妾は、この手で、我が末裔(すえ)を救えるはずだったのじゃ。
にもかかわらず、この愚物めのせいで!』
さらに女神は、髪で王を引き寄せ、喉を手で締め上げ始めた。

「く、苦し……お、お慈悲、を……」
魔界王の顔は、みるみる赤黒く変色していく。
アイシスは、泣きながら女神に飛びつき、腕にすがりついた。
「女神様、お許し下さい! どうか、どうか、わたくしに免じて!」

すると、女神ははっとして王妃に眼をやり、王を解放した。
『……相済まぬ。アセトは産後の身、体を(いと)わねばならぬというのにな』
それから、女神は髪で優しくアイシスを持ち上げ、ベッドへと運ぶ。

されるがまま、王妃は尋ねた。
「女神様。それでは、魔力さえあれば、今ひとたびの仕切り直しも可能なのでしょうか?」
『いかにも』
即答してから、女神は悲しげに口ごもる。
『……されど、一朝一夕(いっちょういっせき)にはいくまい、何しろ、莫大な量が入用ゆえ……』

「つまり、大きな力を持った生贄(いけにえ)が必要ということ、ですね」
アイシスは顔を上げて涙を振り払い、枕の下に手を滑り込ませ、一振りの短剣を引き出した。
『何をするつもりじゃ?
短剣ごときでは、我が髪の一筋たりとて傷つけることも叶わぬぞ』

「いいえ」
答えるその眼には、毅然(きぜん)とした光が宿り。
「これはこう使うのです!」
言うなり彼女は、切っ先を自分の胸に突き刺した。
『アセト!?』「アイシス!」
ベルゼブルと女神の叫びが交差する。

先に駆け寄ったのはアナテで、血にまみれることもいとわず、ベッドに倒れた王妃を抱き起こした。
(たわ)けたことを。待っておれ、治癒魔法を……』
「い、いいえ……め、神様、ご寛恕(かんじょ)を、(こいねが)いたく……
陛下に、なり替わり、わ、たくしの命を……ご加納……」
 アイシスは、ごぼりと血の塊を吐いた。

『何を申すか。その方は、たしかにこやつより遥かに若く、魔界の王妃にふさわしき、絶大なる魔力も持ち合わせてはおる。
されど、その方の命と引き換えの力など……。
それに、真の王たる第二王子はいかがする、母がおらねば、子は……』

「ま、魔族、が……魔界が、滅びれば……あの子も、生きては……。
どうか、女神様……わたしの、今生(こんじょう)の、命、のみならず……今より後の…転生の分も、すべて捧げ、ます……で、すから」
アイシスは、息も絶え絶えに哀願する。

『アセト。やはり王妃にふさわしき者よ。どこぞの(たわ)け者などより、よほど民を思うておるわ。同胞に代わって厚く礼を申すぞ。
──我ここに誓約せり、我が力を以て魔族に永劫の安寧(あんねい)と繁栄をもたらさんことを』
女神は胸に手を当て、誓いの言葉を述べる。
アイシスは安心したように微笑み、がくりと体の力が抜けた。

「アイシス、()くな!
今、治してやるゆえ……」
『下がれ、慮外者(りょがいもの)!』
そばに這い寄って来た王の横っ面を、女神は髪で張り飛ばした。

『いじましき男め、妃の遺志を無にする気か!
まったく、“焔の眸”も、碌でもない男子(おのこ)を選定したものよ。
とは申せ、残る一人はあの人豚、バアル・ペオルでは、比べるべくもない、か……』
女神はため息交じりにつぶやく。

「ああ、アイシス、死んではならぬ、眼を開けよ……!」
王は妃に取りすがって揺さぶるが、すでに息はなかった。
渇いた旅人をうるおす砂漠のオアシスのごとく、慈愛を(たた)えた紺碧(こんぺき)の眼は二度と開かれることはなく、薄く微笑んだままの唇からも、涼やかな声が聞こえて来ることもない。

「おお、何としたこと……!
ああ、アイシス……!」
頭をかきむしっていた王は、はっと目を見開き、念話を送った。
“目覚めよ、『焔の眸』! ここへ来て、妃を蘇生させるのじゃ!”

だが、応答はなく、空間は静まり返っている。
“いかがした、『焔の眸』! 何をしておる、()く参れ!”
()れた王が心の声を最大にし、繰り返しても、応えは一向に返って来ず、輝くライオンが闇を払って姿を現すことも、無論なかった。

『呼びつけようとて徒爾(とじ)な事、妾が夢の檻にて捕らえておるわ。
さもなくば、あれはルキフェルを(しい)しておったろう……』
その言葉に、王は目を剥いた。
「そ、そんな訳が……“焔の眸”が王子を害するなぞ、あり得ませぬ。
魔界王家の守護を以て任ずる者なのですぞ!」
『その方が何と思おうが、まことのことよ』

「ならば、何かよほどの理由が……」
言いかけて、王は、今はそれどころではない事に思い至った。
「さ、左様なことより、女神様、願わくばアイシスにお慈悲を!
このままでは、妃は天に召されてしまい申す……どうか、どうか!」
王は膝を付き、深々と(こうべ)を垂れた。

『慈悲か。妃の遺志を汲むならば、このまま逝かせてやるが良い』
 そっけなく、女神は言ってのけた。
「ご、ご無体な……母がおらねば、赤子も育ちませぬぞ……!
それとも、ルキフェルの身体を乗っ取ったまま、現世でお暮らしになるおつもりか!?」
思わず、王は詰問する。

女神は、きつい目つきで彼を睨み据えた。
『何を言うか。そもそも、“焔の眸”が王子を手に掛けようとしたのも、その方が仕出かした不始末の所為(せい)じゃ!
本来、成人したルキフェルは、人界の女王と子を成した後に離別し、その後“焔の眸”と“黯黒の眸”両名を伴侶とし、末永くウィリディスに君臨するはずであった。
されど、今や未来は変質し、魔界の守護者“焔の眸”が、主君ルキフェルを謀殺せんとするなどという、有り得べからざるものへと変容してしまったのじゃぞ!
 ──カンジュア!』

女神の呪文に応え、美しい装飾が施された水晶の棺が現れた。
同時に、血に汚れたアイシスのガウンもまた、魔界の王妃にふさわしい豪奢(ごうしゃ)を極めた純白のドレスへと変貌する。
アナテは遺体をうやうやしく棺に安置し、香り高い百合の花を一輪持たせて蓋を閉じた。

「女神様、どうかお慈悲を! アイシスをお返し下され……!
ああ、アイシス、アイシス!」
棺の蓋を取ろうとする魔界王の体に、女神の髪がまたしても巻き付いて、無情にも部屋の向こう端まで投げ飛ばした。
「ぐあっ!」
王は壁にたたきつけられ、どさりと床に落ちる。

『まったくもって女々しき男よ。それほどまでに蘇らせたいのならば、(にえ)を差し出すがよい。
司祭不在のさなかに予言を伝え、未来を取り戻し、過去に干渉する……転生の分をも合算するとはいえ、妃の魔力はこれらを可能にするほど膨大なものじゃ。
それに匹敵する量ともなれば、生半(なまなか)(にえ)では足りぬぞ。
永の年月をかけて蓄えるはずの魔力を一挙に(あがな)うともなれば、貴族で数百ほど、市井(しせい)の民ならば、数千人は入用であろうな』

無慈悲な声が(とどろ)くように響き渡った途端、起きようともがいていた魔界王の動きはピタリと止まった。
「ぐ……そ、それほどとは……。
左様に大量の贄、暴動、もしくは内乱が起きかねませぬぞ……」

『たしかにな。
神族どもでなく、同胞(はらから)素っ首(そ くび)討ち取られ、魔界王家の長い歴史も、その方の代で終止符を打つ事となろうよ』
女神は、冷ややかな口調で、首を切る仕草をして見せた。
それから、ふわりと浮き上がる。
見る間にその体は縮んでいき、ベビーベッドに降りた頃には、赤ん坊のサマエルの姿に戻っていた。

「ああ、ありがたい……お返し下さった……ルキフェルを、まことの王を。
ようやく、愛しい我が子をこの手に抱ける……」
ベルゼブルはつぶやき、よろよろと立ち上がる。

その時、赤ん坊の口が開いて、女神の声が宣言した。
『バアル・ゼブルよ、この王子を愛することを禁じる。
未来永劫、その方の理解者など得られぬことを覚悟せよ。
さらに、愛する者には必ず去られることとなろう……妾の怒りを思い知るが良い』

「何ですと!?」
叫んでも返事はない。
呆然とする彼と純白の棺が残された部屋には、母のぬくもりと乳を求めて泣き叫ぶ赤ん坊の声が響くのみだった。

御業(みわざ)

神のなせる業を敬って言う表現。

こわっぱ【小童】

《「こわらは」の音変化》子供や未熟者をののしっていう語。小僧。若僧。

口(くち)を極(きわ)・める

言葉のありったけをつくす。あらゆる言い方をする。

そこつ【粗忽/楚忽】

1.軽はずみなこと。そそっかしいこと。また、そのさま。軽率。
2.不注意なために引き起こしたあやまち。そそう。「~をわびる」

へいしん-ていとう【平身低頭】

「低頭平身」ともいう。 「平身」からだをかがめること。「低頭」頭を低く下げること。
ひたすら恐縮すること。また、ひたすらあやまる形容。からだをかがめ頭を低く下げて、恐れ入る意から。

瞋恚(しんい)の炎(ほのお)

燃え上がる炎のような激しい怒り・憎しみ、または恨み。瞋恚のほむら。

かんば【駻馬/悍馬】

気が荒く、制御しにくい馬。あばれうま。あらうま。

かいちょく【戒飭】

人に注意を与えて慎ませること。また、自分から気をつけて慎むこと。

とじ【徒爾】

無益であること。無意味。また、そのさま。むだ。

しゅっぽん【出奔】

逃げだして行方をくらますこと。

ちくでん【逐電】

《古くは「ちくてん」とも。いなずまを追う意》
敏速に行動すること。特に、すばやく逃げて行方をくらますこと。

とんそう【遁走】

逃げ出すこと。逃がれ去ること。逃走。

へんきょう【偏狭/褊狭】

自分だけの狭い考えにとらわれること。度量の小さいこと。また、そのさま。狭量。

あんぐ【暗愚】

物事の是非を判断する力がなく、愚かなこと。また、そのさま。

がべい【画餅】

絵にかいたもち。実際の役にたたないもののたとえ。

しれごと【痴れ言】

取るに足りないばかげた言葉。たわごと。

【眇眇】 びょう‐びょう

小さいさま。取るに足りないさま。

寛恕を請う(かんじょをこう)

自分の過ちや罪を許して欲しいと願う。

有り得べからざる(ありうべからざる)

あるはずがない、決してあってはならない、という意味の文語的表現。