~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

30.魔界王家の禁秘(5)

「アナテ女神じゃと? あ……!」
空中に揺蕩(たゆた)う美女を見上げたベルゼブルは、小さな叫びを上げた。
王族の肖像画を収めた部屋の最奥には、うやうやしく掲げられた等身大のアナテの絵姿があり、この女性はそれに瓜二つだったのだ。

アイシスもそれに気づき、かしこまって頭を下げた。
「これは女神様。知らずとはいえ、ご無礼の段、平にお許し下さいませ。
ですが、わたくし達は、あなた様のお怒りの訳を測りかねております……どうか、理由をお聞かせ願えませんでしょうか」

すると、アナテを自称する女性は、鮮やかなオレンジ色のドレスをふわりとひるがえして床に降り立った。
並んでみると女性二人の背丈はほぼ同じだった。
そうして、女神は、意外なほど優しい笑みを王妃に向けた。

『アセトよ、そちの疑問ももっともじゃ。
もそっと早う、妾の予言を授けてしかるべきであったのだがな』
「アセト……というのは、このわたくしのことでございますか?」
『うむ、その方が魔族として生まれたなら、かように呼ばれたことであろう』
「そうなのですね。素晴らしい名を頂き、ありがたく存じます。
ということは、女神様は、お手ずから予言をご下賜(かし)されるために顕現(けんげん)なされた、ということでしょうか?」

すると、女神は険しい表情になり、ベルゼブルに指を突きつけた。
『かように手間を取らされたのも、すべてこのうつけ者の所為(せい)じゃ!
こやつに問うてみるがよい、おのれが何を仕出かしたかを!』
「えっ、仕出かした……とは、何をでしょう?」
困惑気味に、アイシスは夫に視線を移す。

ベルゼブルは顔を引きつらせた。
「な、何のことやら、余にはとんと分かりかねま……」
『この()れ者めが、おのれの所業を忘れたと申すか!
神殿の要、プレスビュテロス(司祭)を(あや)めておきながら!」
魔界王を睨み据える女神アナテの瞳には、殺気にも近い、激烈な怒気(どき)が燃え上がっていた。

「あ、殺めた!? アマルリク殿を、陛下がですか!?」
アイシスは、信じられない顔つきで、女神と夫を見比べる。
「まさか、左様なこと、余にはまったく身に覚えが……左様、余の預かり知らぬことで……」
否定するも、ベルゼブルの口調はしどろもどろ、額からは脂汗が滝のように流れ出ていた。

(たわ)け!』
女神は一喝した。
『いかにそらとぼけようとも、妾は、しかとこの眼で見たのじゃぞ!
アマルリクの死体を、その方が、こそこそと我が神殿に運び込んだのをな!
神族どもが“蝿の王ベルゼブブ”などと揶揄(やゆ)するも(むべ)なるかな、その蔑称(べっしょう)にふさわしき、まさしく胡麻(ごま)(はえ)のごとき所業よ!』

ベルゼブルは、心臓が口から飛び出そうになりながらも、必死に抗弁した。
「め、女神様におかれましては、勘違いをなさっておいでのようじゃ。
あの時は、アマルリクが倒れておったゆえ、余は駆け寄り抱き起こしたまでのこと、女神様は、たまたまそこをご覧に……」

『白々しい言い訳を!
ならば、何ゆえ、その後すぐ我が神殿より逃亡したのじゃ、魔法医も呼ばず!
たとえ息がなくとも、“焔の眸”ならば、蘇生も可能であったろうに!』
女神は彼を睨み据えた。

ベルゼブルの顔から、完全に血の気が引いていた。 
めまいの中、一気に記憶が蘇る。
怒りのままにアマルリクを殺害し、その後、死体の処分に困ってアナテ神殿に運んだ時、視線を感じて振り返ると、黄金の女神像と眼が合った。
罪悪感から来る思いすごしだと、ずっと信じ込んでいたのだが。

『バアル・ゼブルよ、その方も魔界の王なら、日々聞かされてきたはずじゃ。
魔族再興のためには、紅龍の資格者を得て儀式を行い、火閃銀龍を目覚めさせねばならぬと。
それがため、妾は予言にて魔族を導き、ふさわしき者を(めあわ)せていったのじゃぞ。
そうして、気が遠くなるほど永の年月の後、積年の恨みを晴らし、故郷を奪還する絶好の機会を目前にして……その方が! この痴れ者が!
我が努力のすべてを水泡に帰したのじゃ!』
女王の舌鋒(ぜっぽう)は鋭く、その眼は火を吹くかと思われた。

アイシスは王の罪状を知って青ざめ、体の震えも止まらなかった。
嫁いだ直後から、お妃教育の一環としてアナテ神殿の司祭に師事した彼女は、アマルリクを実の祖父のように慕っていた。
そのため、彼の死は祖父を亡くしたも同然で、胸が張り裂けそうだったのに。
敬愛する師の命を奪ったのが夫だったとは、にわかには信じられなかったが、女神の怒りや夫の態度を見るにつけ、それが事実だと思うしかなかった。

「……陛下、そのご様子では、女神様の仰ることは本当なのですね……。
ですが、なぜ、アマルリク殿をお手打ちされたのですか?
何か、よほどの理由がおありだったのでしょうか……」
悲しげに彼女は尋ねた。
「む、うう……」
口ごもるベルゼブルに代わって、女神が答えた。
『理由は簡単、こやつはそもそも、妾の予言に従う気がなかったのじゃ』

それを聞いたベルゼブルは、思わず叫んでいた。
「お、お言葉ですが、女神様!
ようやく生まれた世継ぎの王子を生贄にせよなどとは、あり得ぬご命令でございますぞ!
我でなくとも、大概の親は拒絶致すに決まっております!」

「えっ、赤ちゃんを、生贄に!? ……ひどいことを……」
アイシスの眼に、涙が浮かび始める。
「おお、アイシス、やはりそちも余に同意してくれるな?
アマルリクは、女神の予知と称し、我が子をすぐさま紅龍の塔に閉じ込めよと申したのじゃ……左様なこと、(うべな)うことなど到底出来まい。
それゆえ、余は頭に血が上り、気がついた時には、司祭は……」
沈痛な面持ちで、魔界の王は首を振った。

「め、女神様、今の陛下のお話は、本当なのでございますか……?」
うるんだ眼差しで、アイシスは女神を見つめた。
アナテは重々しくうなずいた。
『バアル・ゼブルの申す通りじゃ』
「そ、そんな……」

『聞け、アセトよ。
たしかに、生後間もない赤子を(にえ)に、とは無慈悲なる命令に他ならぬ。
されど、我が予言……妾の言葉を伝えただけの司祭を、殺めるとはいかがなものじゃ?
倫理に(もと)る行いではないのか?
……何か申し開きがあるか、バアル・ゼブル』
「そ、それは……」
ベルゼブルは言いよどみ、拳で汗をぬぐった。

『……されど。
アマルリクとて、粗忽者(そこつもの)(そし)りは(まぬか)れぬわ。
予知の終いまで聞かずして、伝令に走る愚行を仕出かしてしもうた。
いやはや……悲劇の一端は、あれの性急さが(にな)ったとも言えような』
ため息交じりに、女神は首を横に振る。

「な、何ですと、あの予言に、まだ続きがあったと仰る……!?」
魔界王は目を剥いた。
あの時も今も、そんなことは、頭の隅にも思い浮かばなかったのだから。
女神は肩をすくめた。
『無論じゃ。妾とて魔界の女神、そこまで無慈悲ではないわ。
救いなき予言など、下知したところで何になる』
「で、では、その続きを! ぜひともお聞かせ願いたい!」
ベルゼブルは勢い込んだ。

『ならば、この場で改めて我が予言の全貌を知らしめようか。
「第一子は、闇の申し子にして紅龍の器なり。
(すべか)らく赤子のうちより紅龍の塔へと封じ、祖先の御霊(みたま)と一体化すべし。
第二子は真の王にして、(まった)き龍の器なり。
紅龍の心の臓を喰らいて、次元の狭間より召喚せし火閃銀龍をその身に宿し、ついに故郷を奪還す』

「なんと、ルキフェルが次の王なのですか、サタナエルではなく……!?」
王妃は息を呑む。
「そうして、第二王子が火閃銀龍を召喚し、故郷を取り返すと……で、では、余のしたことは……」
ベルゼブルは絶句した。

「左様。たしかに、サタナエルは不憫(ふびん)と言えようが、あれは妾が現世に転生する際の肉体……同胞を贄とするに忍びず、使うことにしたものじゃ。
しかるに、闇中にて祖先の御霊を受け入れるには不要と、あれには魂魄(こんぱく)のうち(はく)しか入れなんだ。
心を持たぬあれが、長じて魔界の王位に()けばどうなるか、想像に難くあるまい。
どの道、魔族は破滅することとなろう、神族に滅ぼされずともな……』
女神は端正な眉をぎゅっと寄せた。

「そ、そんな……」
魔界の王妃は言葉を失う。
『されど、いかに粗忽(そこつ)じゃとしても、アマルリクが生きてさえおれば、予言の続きを伝えることが出来たのじゃぞ、それを、……』
「お、恐れながら申し上げます!
それならば、何ゆえもっと早う……サタナエルの誕生前に、予言を授けて下さらなんだのですか!
もし、そうして下さっておれば、かようなことにはならずに済みましたものを……!」
魔界王は声を振り絞った。

『何を申すか! 妾の力はすでに枯渇しておった、それもこれも、そちが儀式を(ないがし)ろにしてきた所為(せい)じゃ!
むしろ嫁いできたアセトの方が、熱心に我が神殿へと通ってくれた……日々、(かぐわ)しき花や美酒、季節の水菓子(果物)を奉納してくれたわ!
それだけが唯一、妾に捧げられし供物(くもつ)となっておったのを、その方は知っておるのか、バアル・ゼブル!
おお、(うるわ)しの王妃、アセトよ……!』
女神は、アイシスを抱きしめた。

「さ、左様なことは……決して、余は、女神を(ないがし)ろになど……」
『黙れ、慮外(りょがい)者!』
叫びと同時に、アナテの緑の黒髪が食人植物の(つる)のように伸び、ベルゼブルの首や手足に巻き付いた。
「う、く……」
王は必死にそれほどこうとするが、どうしてもできない。

「お、おやめ下さい、女神様!」
王妃は懇願するが、絡みつく長い髪はそのままぎりぎりと首を締め上げ、王の顔は赤黒く充血していくのだった。
「どうか、ご容赦下さいませ!
陛下が身罷(みまか)られば魔族の結束は崩れ、破滅が早まるだけと存じます、どうか、女神様!」
アイシスは必死の面持ちで、女神に取りすがった。

すると、女神はベルゼブルを放り出し、彼女の肩をがしりとつかんだ。
『おお、アセトよ……!
()つ国より魔界へと嫁ぎ、王子を二人も成してくれた……真なる王の母として、そちの名は末代まで讃えられるはずであったのに……!』
「女神様……まあ、泣いておいでなのですか?」
王妃は面食らっていた。

突然、女神の髪から解放されたベルゼブルは、首をさすりながらつぶやく。
(うう……まったく、酷い目に遭ったわい。
にしても……ふうむ、左様な事態になっておったのじゃな。
されど、それならば、ルキフェルとサタナエルの立場を入れ替えるとか……いかようにも出来るであろうに、破滅じゃの何だのと……)
地獄耳の女神はそれを聞きつけ、またもやまなじりを釣り上げた。

『この(たわ)け者が、左様な単純な話ではないわ!
そもそも妾は、吝ん坊(しわんぼう)のそちの所為(せい)で、もはや、やり直すだけの力も残されておらぬでな!
そちはもそっと早う知らせるべきと申したが、司祭も年老い、我が言葉をよく聞きとれぬようになっておったのじゃ!
仕方なく、夢で知らせようとしたものの、運悪くエセ天使の襲来と重なったがためか、うまく伝わらなんだ……。
それでも、どうにか正確な内容を受け取らせようと悪戦苦闘しておるうちに、またしても、その方は余計なことを! 結界なぞ張りおって!』

うべな‐う【肯う・諾う】

いかにももっともだと思って承知する。また、肯定する。

プレスビュテロス presbyteros

ギリシア語〈長老〉の意,のち司祭となる
カトリック教会では〈司教〉,プロテスタント教会の一部では〈監督〉と呼ぶ。

揶揄(やゆ)

対象をからかって面白おかしく扱うこと、皮肉めいた批判によって嘲笑的に扱うこと、といった意味で用いられる表現。
「揶」も「揄」も共に「からかう」という字義の字

宜(むべ)なるかな

いやはやもっともである、としみじみ思う様子を表明する言い方。
「むべ」は「うべ」ともいい、当然だと納得するさまなどを意味する語。

【胡麻の蠅】ごま‐の‐はえ

「護摩の灰(ごまのはい)」に同じ。昔、旅人の姿をして、道中で、旅客の持ち物を盗み取ったどろぼう。
高野聖(こうやひじり)のなりをして、弘法大師の護摩の灰だといって押し売りして歩いた者があったところからの名という。

こん‐ぱく【魂魄】

《「魂」は、人の精神をつかさどる気。「魄」は、人の肉体をつかさどる気》死者のたましい。霊魂。

みまか‐る【身罷る】

「死ぬ」の雅語的な言い方。

倫理に悖る(りんりにもとる)

善悪の判断基準が外れていること。人道に則した判断から大きくかけ離れること、大義や義務に対し、世間一般的な判断レベルから脱線していることを表す。

そこつ‐もの【粗忽者】

粗忽な人。そそっかしい人。おっちょこちょい。

謗(そし)りを免(まぬか)れない

非難を受けて当然である。
最近では「まぬがれる」と読む人が多く、この読み方も一般に浸透しつつあるが、正しい読み方は「まぬかれる」。
そもそも「免れる」の語源が、「目(ま)」と「ぬかる(油断する)」という意味からきているため、本来「まぬかれる」が正しい読み方。

しわん‐ぼう【吝ん坊】

けちな人。けちんぼう。しみったれ。しわんぼ。