~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

30.魔界王家の禁秘(4)

タナトスはすくすくと育ち、いくら世継ぎの王子でも甘やかし過ぎだ、などという噂が立つほどわんぱくになっていった。
不安を覚えた王妃アイシスは、侍医(じい)シュリア(エッカルトの祖母の妹、当時の魔法医ギルド長)に相談を持ちかけた。

報告を受けたベルゼブルは、眉根を寄せた。
「……アイシス。無責任に放言する者がいることは余も存じておる。
じゃが、左様な噂ごとき、そなたが気に病むことはないのだぞ」
「お言葉ですが、サタナエルは次の魔界王になる身です。
何かあっては大変です、皆様にも申し訳が立ちませんし」

魔界の君主は肩をすくめた。
「……まあよい。それで、シュリアは何と申しておった?」
「はい、小さいうちは、さほど心配しなくともいいと仰っていました。
むしろ、無闇に要求をはねつける方が弊害があるので、可能なことなら、なるべく叶えてあげた方が良いそうですわ」
「左様か。ともあれ、ギルドの長が太鼓判を押したのじゃ、これでもはや誰も文句は言えまい」

「ええ、相談して良かったですわ……あら、ベルゼブル様? いかがなさいました?」
アイシスは、今も彼を魅了してやまない笑みを浮かべており、しばしうっとりとそれを眺めていた王は、声をかけられてはっと我に返った。
「あ……あ、いや、されど、あまり惑わされてはいかんぞ、アイシス。
サタナエルの親は我らじゃ……と言え、この前のように、余と遊びたがって執務が(とどこお)るようでは困るがの」

「ご心配には及びません、そういう場合の対処法も教えて頂きましたの。
どうしても無理な時は『そうしたいのね』と理解を示した上で、今は駄目、でもお夕食の後でなら良いなどと、言って聞かせればよいそうです。
自分でも薄々ごり押しとは分かっているので、それで納得するでしょうと。
……まあ、そうは言っても、最初のうちは駄々をこねるでしょうけれど、根気よく言い諭してみて下さい、と。
肝要なのは、望みは叶うものだと子供が知ること、なのだそうです」

ベルゼブルは首をひねった。
「望みは叶うものだと知る……じゃと?」
「はい。子供がこの世の終わりのような泣き方をするのは、この機会を逃したらもう叶うことがないという絶望感に駆られている時、なのだそうです。
そして、泣いても相手にされないことが続くと、子供は親の愛情、ひいては、自分の存在意義さえ疑い、自己評価が低いまま成長してしまうのだとか。
果たして、そんな大人に大事な職務が(まっと)うできるものでしょうかと問いかけられて、わたくし、返す言葉が見つかりませんでしたわ」

「ふうむ、何やら大げさじゃのう……」
ベルゼブルはため息をついてみせた。
「そうでしょうか。
……それから、これは一般論だそうですが、体罰は絶対にいけません、ともおっしゃって」
「当然じゃ、何ゆえ、可愛い王子に手をあげねばならぬ」
心外だと言いたげに、ベルゼブルは口をとがらせた。

「いえ、これは、ベルゼブル様やわたくしが、というのではなく、もし仮に、家臣などにそういう者がいたならば、お(いさ)め下さいねという意味だそうですわ」
アイシスは柔らかく微笑む。
「左様か」
王も釣られて笑みを返した。

「『たしかに、悪いことをしている子供に体罰を加えれば、すぐやめさせられますが、子供は、怒鳴られたり、たたかれたりすることが怖くてやめただけ、悪いことをしたとは分かっていないので、同じことを繰り返すでしょう。
すると、親は叱り方が足りないからだと思い込み、体罰を激しくしていき、しまいに子供を死なせてしまうことにもなりかねません。
ですから、体罰ではなく、言葉で教え(さと)さなくてはいけないのです』と申されて」
「……なるほどな。心に留めておこう」
魔界王は重々しくうなずいた。

それからは平穏な日々が続き、タナトスが五千歳になろうとする頃、王妃の懐妊が判明し、ベルゼブルの喜びようはただ事ではなかった。
そうして、前回と同じ(とてつ)を踏まぬようにと、侍女達には箝口令(かんこうれい)を敷き、妃と異母妹の部屋には、厳重に悪夢避けの結界を施した。

その甲斐あって、今度はミカエルの特攻も悪夢もなく、無事サマエルはこの世に生を受けた。
誕生日が同じため、二人は、アストロツイン“運命を分け合う者”とされ、以前にも増して盛大な祝宴が開かれた。

しかし、タナトスだけは、自分だけのパーティではなくなったこと、さらには、母が出席できないことに対して不服を唱えた。
それに対して、ベルゼブルは、いつにも増して多くの贈り物を与えて息子をなだめたのだった。

こうして、サマエルの登場により、ついに運命の歯車は回り始めた。
第二王子と“焔の眸”が、運命の出会いを果たす第一幕。
自身の死を予知したシンハは、それをもたらす赤ん坊の命を奪おうとして失敗し、宝物庫にて深い眠りにつく。

そして、第二幕。
息子と“貴石の王”の宿命など預かり知らぬ魔界の王が、妻子の部屋を訪ねたことで、さらなる悲劇の幕は上がる。

ベルゼブルが足音を忍ばせて室内に入り、ベビーベッドを覗き込むのと、赤ん坊が泣き出すのは、ほぼ同時だった。

「おお、泣くでない、よしよし」
急ぎ抱き上げてあやすも、サマエルは一向に泣き止まず、すぐにアイシスも目覚めてしまった。
「まあ、陛……いえ、ベルゼブル様、いつおいでに?」

「ああ、起こしてしまったか、相済まぬ。
お前達の顔だけ見て、そっと帰るつもりだったのじゃが……」
「まあ。ベルゼブル様のせいではございませんわ。
多分、お乳かおむつでしょう」
「うむ」
ベルゼブルはほっとして、差し出された妻の手に、壊れてしまいそうな我が子を(ゆだ)ねた。

サマエルは乳を飲み、おむつを替えてもらうと眠りについた。
その間、ベルゼブルは、幸福そうな母子が描いてある名画でも見ている心地で、自分も幸せを噛みしめていた。

「さて、もう休め。余も戻るゆえ。
明日からは乳母もつけようぞ、もはや隠し立ても無用ゆえな」
慈しみを込めて王は妃に声をかける。
「はい、お休みなさいませ」
アイシスは素直に横になった。

「ではな」
満ち足りた気分のまま、王が部屋を出ようと扉に手をかけた、そのとき。
突如、(まばゆ)い光が室内に満ちた。
「きゃあ、ルキフェル!」
その悲鳴に振り向いたベルゼブルは目を疑った。
赤ん坊が光に包まれ、ベビーベッドから浮き上がっていくではないか。

「ル、ルキフェル……! ああ、降りて来て、わたしの坊や……!」
よろめきながらベッドに立ち上がった王妃は、空中の息子に手を伸ばすも届かない。
「どうしたことじゃ、これは!?」
当惑しつつ、ベルゼブルは寝台に駆け寄る。
だが、それより早くサマエルは、カッと眼を見開くと両手を挙げ、赤ん坊らしからぬ鋭い──聞いたこともない女の声で叫んだ。
『このたわけ者めが、天誅(てんちゅう)じゃ、覚悟致せ!』

そして、小さな手を振り下ろすと、風が鋭利な刃となり、魔界王目がけて襲いかかった。
「うわっ!」
ベルゼブルは、とっさに床に身を伏せ避けた。

「やめて、ルキフェル!」
叫んでも、赤ん坊は聞く耳を持たず、次々と攻撃を繰り出し続ける。
アイシスは、暴れ狂う風に飛ばされぬようベッドにしがみつき、王に呼びかけるのがやっとだった。
“ベルゼブル様……! これは、あの子では、ありません……!
誰か、別の者が……!”

床に()してなすすべもなく歯噛みしていたベルゼブル王は、はっとして顔を上げた。
“別の誰か、じゃと……?”
“ええ、それに、これは到底、赤ちゃんの力ではありませんわ”

王は吹きすさぶ風に(あらが)い、どうにか薄目を開けた。
すると、息子と重なって、ぼんやりと何者かの姿が見えた。
たしかに、いくら魔族の王子でも、生まれたばかりの赤ん坊がこれほど強力な魔法を使えるはずがない。

「貴様、何奴じゃ! 我が王子を返せ!
──フムス!」
魔界王は対抗呪文を唱えたが、効果はなかった。
それどころか、風の刃はさらに力を増して繰り出され、文字通り頭を抱える羽目になった。
「く、何が起こっておるのじゃ、一体……!?」

“陛下、わたくしが!”
アイシスも負けじと呪文を唱えるが、王に次いで魔力の強さを誇る彼女を()ってしても、小さな赤ん坊の力に対抗はできなかった。
「ああ、お願い、やめて、赤ちゃんを返して!」
彼女に可能だったのは、涙を浮かべて両手を差し伸べ、哀願することだけだった。

すると、意外なほどあっさりと、王妃の要求は聞き入れられた。
風は止み、しずしずと赤ん坊の体は降下して、彼女の腕の中に収まった。
「ああ、ルキフェル、よかった……!」
安堵のあまり、アイシスは息子を抱きしめ頬ずりをする。
母親の動揺を気づいてもいない風で、サマエルは穏やかに寝息を立てていた。

その隙にベルゼブルは妻子をかばい、ベッドの前に立ちふさがった。
“アイシス、王子を連れて逃げよ”
“で、ですが……”
“助けを呼んで来るのじゃ、行け!”
“は、はい!”
王子を胸に抱き、王妃は戸口に向かって走り出す。

そして、扉を開けようとした瞬間、何かに当たって手は弾かれてしまった。
見えない障壁が目の前にあり、押してもたたいてもびくともしない。
王妃は青ざめて叫んだ。
「だ、駄目です、出られません! 結界が張られています!」

分かった、衛士を呼ぶ!”
答えておいて、王は思念で兵士達に呼びかけた。
“皆の者、侵入者じゃ! ()く王妃の寝所へ参れ!”
しかし、どこからも返答はなく、誰かがやって来る気配も感じなかった。
ならばと結界の破壊呪文を唱えてみても、何の反応も得られない。

「そ、そんな……あり得ぬ……」
ベルゼブルは呆然とするしかなかった。
風の魔法といい結界といい、魔界王である自分が対抗できないほど強い魔力を持つ者など、魔界にいるはずはないのに……。

そのとき、彼の頭の中で声が響いた。
“無駄じゃ。(わらわ)の結界は、そちごときに破られはせぬわ。
外なる者は、何が起ころうと、ついぞ気づかぬままであろうぞ”
「く、そなたは一体、何者じゃ!? 
余を、魔界の君主と知っての狼藉(ろうぜき)か、無礼者!」
ベルゼブルは虚勢を張りって詰問した。

途端に、サマエルはするりとアイシスの手から離れ、再び宙に浮き上がった。
「ああ、また……!」
赤ん坊はそのまま空中で成長し始め、あっという間に大人になったが、それは、サマエルの成人した姿ではなかった。
どう見ても赤の他人であり、さらには性別さえもが違った。
そこに浮かんでいたのは、見知らぬ女だったのだ。

そして、謎の女性は声高らかに宣言した。
『我が子孫にして、(うつ)し世の王たるバアル・ゼブルよ!
よっく聞け、(わらわ)の名はアナテ!
そなたに天誅(てんちゅう)を下すため、ルキフェルの魔力を借り、ここに顕現(けんげん)したのじゃ!』

黒く(つや)やかな長い髪、小麦色の肌、猫のように縦長をした漆黒の虹彩(こうさい)……遠い昔、神族に故郷を奪われ(たお)された女王、魔族の祖、アナテの姿がそこにあった。

てん‐ちゅう【天誅】

1 天の下す罰。天罰。 2 天に代わって罰を与えること。天罰として人を殺すこと。