30.魔界王家の禁秘(2)
(……そう言えば、タナトスはかつて、王位に
たしかに良いとは言えないが、これで“世にも不吉な予言”とはね……)
サマエルはかすかに肩をすくめた。
すると、彼の思考が聞こえたかのように、ベルゼブルは眼を怒らせた。
「そなたは知らぬのだ!
いくら女神のお告げとて、あのような事、あり得んわ!」
「おや、それでは、タナトスへの
「いいや、サタナエルの事じゃとも。
あの日、余は幸福の絶頂から、奈落の底へと突き落とされたのじゃ。
何たる無慈悲な宣告よ……サタナエルは王家の世継ぎ、前途洋々たる未来が約束されているものとばかり……」
ベルゼブルは、がっくりと肩を落とした。
サマエルはうなずいた。
「……なるほど、その時にですか」
「何じゃ?」
老人は顔を上げた。
「その予言で、魔界王にふさわしくないと言われたのでしょう?」
「……む? いや、それは別の折に授かったお告げじゃな。
ともあれ、その程度であったのなら、どれほど良かったことか……。
要は育て方次第と、希望を持ってもいられたじゃろうて……」
前魔界王は、ため息交じりに
サマエルは、ここでようやく事の深刻さを悟った。
「これは失礼を、そこまでとはつゆ知らず。
改めて、お伺いしてもよろしいですか、その……悪しき予言の内容を」
「……ふむ、そなたには話しておくべきか。
それは、耳を疑う内容でな。今でも時折、夢に見るほどじゃ、アナテ神殿の司祭が告げた、あの瞬間を……」
ベルゼブルは一瞬だけ天を
「その神託とは、こともあろうに第一王子はカオスの貴公子……すなわち紅龍の資格者であり、
しかも、紅龍と相成ることが叶わぬ場合には、魔族は滅亡の淵へと
サマエルは首をかしげた。
「ええと……それはつまり、私だけでなくタナトスも紅龍の資格を持っている、ということでしょうか?」
「む? いや、左様な意味ではない。
本当は、そなたではなくサタナエルが紅龍となるはずだった、と申しておるのじゃ」
「ええ!? ま、まさか……」
サマエルは、声が上ずるのを抑えられない。
(だったら、なぜ、神託通りにタナトスを紅龍にしなかったのだ?
……それに、この話が本当なら、私が紅龍の資格者であるはずがない。
タナトスが変化出来なければ魔族は滅ぶ……それは、あいつ以外に資格者がいないからそうなる、ということだろう……?
だが、現に私は紅龍……どういうことだ、これは。訳が分からない……)
想像すらしていなかった内容に、サマエルは混乱し、額に手を当てる。
ベルゼブルもまた頭を抱え、うわ言のように言い続けた。
「まさしく青天の
たしかに、神族との戦に勝利するため、魔族は紅龍を待望しておった。
されど、何ゆえそれが、よりにもよって我が子なのじゃ?
しかも、妃は産後の肥立ちが悪く、医者には、もはや子を為すは出来まいと宣告された……いくら戦に勝とうと、王に跡継ぎがおらねば国が立ち行かぬ……されど、余はアイシス以外を
その時、不意に頭の中ですべてが一つにまとまって、サマエルは思わずそれを口に出していた。
「そうだ、私と兄はアストロツイン、運命を分け合うもの、だ。
奇跡が起きて、世継ぎの王子とまったく同じ条件の赤ん坊が生まれた……それが私。
だから、陛下は私を身代わりにして、紅龍に仕立て上げた……当然だ、私は実の子でないのだから、生贄にしても心が痛まないしな」
そう考えれば
それでも、彼は別に腹も立たなかった。
今さら何を知っても、自分はもう死んでいるのだから。
だが、そのつぶやきを耳にした途端、正気に戻ったベルゼブルは、彼を真正面から見据えてそれに異を唱えた。
「たわけたことを言うでない。
そなたは余の実子、正真正銘、愛しい我が子じゃぞ」
「は……?」
ぽかんとするのはサマエルの番だった。
……我が子? 愛しい? ならば、なぜ、あんな仕打ちをしたのだ?
無視、あるいは暴言を吐き、食事も与えず……絶望してみずから生贄に……紅龍になると言い出すよう仕向けたのだろう。
その上、試練に耐えて紅龍へ変化した後も存在を認めず……居場所もなく魔界を出れば追手をかけ、連れ戻そうとした……思い返せば切りがない。
すると、またもや彼の心を読み取ったかのように、ベルゼブルは言った。
「そなたが思い違いをするも道理……されど、誰が好き好んで、愛おしい我が子を
余の態度はすべて、アナテ女神に申し付けられしもの。
そなたに愛情を示すことを禁じたその上で、女神は申された。
『ルキフェルが心の内に闇を飼うように仕向けよ、さすれば、サタナエルの代わりになれよう』と」
「……その
そもそも、女神はなぜ、陛下にそのような事を命じられたのです?」
「むう……それはな。聞くがよい、ルキフェル。
実は本来、そなたとサタナエルの運命は真逆……そなたこそが余の後継者であり、次代の魔界王となる定めだったのじゃ。
……紅龍と化したサタナエルの心の臓を食らって火閃銀龍となり、憎き神族どもを討ち滅ぼし、故郷を取り戻す役目を担うはずであった……」
サマエルは眼をパチクリさせた。
「は? ええ……!? 私が魔界王……私とタナトスの運命が逆?
そんな……そんなこと、あるはずが……でも、もし仮にそれが真実だというなら、なぜ、私達の運命は逆転したのですか?」
ベルゼブルは彼の問いかけには応えず、ぶつぶつとこぼし始めた。
「アイシスは、腹を痛めた子を手放すことを拒み、ゆえに女神の計画は狂ってしもうた……ああ、アイシスさえ、あの赤子を手放していたなら。
あの生まれ損ないを、紅龍の塔に幽閉できていたら。
……いや、イシュタルが余の子を産んでいたなら、それをそなたの身代わりに出来たものを、
その濁った瞳を見るにつけ、サマエルは、今聞いた話が本当とは思えず、また思いたくもなかった。
(これはいつもの夢……ベルフェゴールではなく、この男が父親であった方がまだましだという私の気持ちが見せている幻……。
いや、死人は夢など見まい。それなら、墓の中で、父親を名乗る男の妄想を聞かされている最中、なのかもな……?
……ああ、心底どうでもいい。
義務は果たしたし、もういい加減、解放されてもいい頃合いだろう)
耐えられなくなったサマエルは、念話で兄に呼びかけた。
“タナトス、話は済んだ。やはり大した事ではなかったよ。
これで叔母上も気が済んだろう、陛下を魔界にお戻ししてくれ。
……ん? タナトス、どうした? 返事をしてくれ、タナトス?”
しかし、何度呼んでも応答はなく、すぐに彼は気づいた。
先ほどベルゼブルによって張られた結界が、兄との通信を妨害している事に。
さらにこの結界は、球状となって戦勝記念公園をすっぽりと覆っており、彼が霊体となってもすり抜けることは難しそうだった。
(むう……参ったな)
無論、力づくで結界を破る事も出来るだろうが、今はそれほど余力がなく、無理をすれば、実体を保てないどころか、昇天してしまいかねない。
また、破壊することで、相手に術が跳ね返る可能性もある。
父親であるにしろないにしろ、彼は、弱った老人を痛めつける気にはなれなかった。
そうやってサマエルが
「おお、ルキフェル、我が子よ……!」
(うわ、何でこっちへ来るのだ……わっ)
後ずさった拍子に足がもつれ、彼は尻餅をついてしまった。
すると、つられたようにベルゼブルもつまずき、転んだ。
杖が遠くに飛び、老人は起き上がろうともがいたが果たせずに、そのまま彼に向かって這い寄り始めた。
「愛しい、我が、息子……」
燐光を放つローブを着ているからだろうか。
地面を這いずるその様子は、まるで青白く輝く巨大な不定形生物のようで、サマエルは、急いでそのおぞましい姿から逃れようと立ち上がりかけた。
だが、相手は老人とは思えない素早さで近づき、逃げ切る前に彼は足首をつかまれてしまう。
「っ……!」
やせ細り、乾き切ったミイラのようなその手の感触に、サマエルが声のない悲鳴を上げたその刹那。
前魔界王の記憶が、どっと彼の中に流れ込んで来た。
待望の世継ぎを得て得意の絶頂だったベルゼブルは、汎魔殿にて盛大な祝宴を開いた。
宴は七日七晩続き、八日目、空が白み始めた頃にようやく終りを迎えた。
幸福感に酔いしれながら私室へ戻った王が扉に手をかけた時、後ろから声がかかった。
「へ、陛下……しばし、お待ちを……!」
振り向くと、前かがみで両膝に手を当て、肩で息をしている初老の男が一人、立っていた。
「何じゃ、そなたか。左様に慌てて、いかがした?」
「は、恐れながら、たった今、アナテ女神様より、お告げが……
長く伸びた白いあごひげと髪、漆黒のローブに身を包み、賢者のような風格のある老人、それはアナテ神殿の司祭アマルリクだった。
王は、いつになく取り乱しているアマルリクを、いぶかしむように見た。
「……かような時間に儀式とな?
王子の将来を占うは、明日でよいと申したはずじゃが」
「は、はい、しかと承りました。
されど、儀式を、まだ始めもせぬうちに、託宣が下りましたのです……!
これは、まったく前例のないことで、ございまして、わたくしめも、驚きを禁じ得ず……!」
「ほう、たしかに珍しいな。されど、左様に急ぐような事か?
後でもよかろう。一眠りしてから報告は聞くゆえ……」
魔界王はあくびを噛み殺す。
老司祭は、くわっと目を見開いた。
「陛下! 左様な、悠長なことを、仰っている場合ではございませぬぞ!」
相手の剣幕にベルゼブルは軽く肩をすくめ、手を振って促した。
「相分かった、
「は。それでは、申し上げます。
お告げにいわく。『第一王子は
ゆえに、
さすれば、伝説の火閃銀龍がついに顕現し、
されど、王子が紅龍に成ること
ベルゼブルは目を剥いた。
「な、何ぃ……!? サタナエルが紅龍、
「……は。それゆえ、疾く王子殿下を紅龍の塔へお連れせねば。
始祖の
陛下、ご決断を」
「な、……」
魔界王は色を失って、返事もできずにいた。
しゅうてき【讐敵・讎敵】
恨みに思う相手。かたき。
そうめつ【掃滅・剿滅】
(敵や害をなすものを)すっかり滅ぼしてしまうこと。
色(いろ)を失・う
心配や恐れなどで顔が真っ青になる。意外な事態に対処しきれないようす。