~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

30.魔界王家の禁秘(きんぴ)(1)

“ああ。俺も同じことを考えて、くそ親父を怒鳴りつけてやったわ。
たわけ者! 墓参り程度で、貴様がサマエルにしたことを水に流せとでも言うつもりか! とな”
タナトスの仏頂面(ぶっちょうづら)が目に見えるようだった。
サマエルもまた、相手には見えないと知りつつ無表情で答えた。
“おのれの寿命を悟り、懺悔(ざんげ)でもしたくなったのだろうさ”

“今さらか、下司が”
兄王は吐き捨てた。
“ともかく、お前に会わせろの一点張りで、叔母上は泣き出すし、まったく往生(おうじょう)したわ。
仕方なく、会う気があるかは訊いてやるが拒否されたら諦めろ、と言ったのだ。
答えは聞くまでもないが、な”
肩をすくめる気配が伝わって来る。

“はぁ……それはご愁傷(しゅうしょう)様だったね……”
サマエルの念は、ため息の中に消えた。
難儀(なんぎ)な役回りを押し付けられた兄が、それでも渋々受けたのは、叔母の頼みを無下(むげ)には出来なかったからだろう。
それはサマエルも同じで、叔母には育ててもらった恩がある。
だが、義理の父親の懺悔(ざんげ)など聞かされてもうんざりするだけだし、何より二人きりで会うなんて、苦痛以外の何物でもなかった。

その時、不意に彼は思い出した。
“……しまった、忘れていた”
“何だ、どうした?”
“ほら、陛下は出撃前にも、私に何か言おうとしただろう?
あまりしつこいものだから、無事に戻って来たら話を聞くと約束していたのだよ……”

“ち、そんなもの、忘れたふりで押し通せ。
それに、お前は……無事に帰って来た、わけでは……”
タナトスは言いよどんだ。
“そうだね……今度ばかりは、自分の記憶力の良さを恨むよ。
それでも、叔母上のたっての望みとあれば、ね……”
サマエルの返答もまた、歯切れが悪かった。

“ほう……では、会ってやるのか、奇特だな。 
それはいいが、あまりうだうだ話が長引くようなら言え、速攻で、魔界へたたき返してやる。
まったく、棺桶に片足突っ込んでいるジジイのくせに。地獄に落ちてから、土下座でも何でもすればいいものを”

サマエルは顔をしかめた。
“それは、ごめんこうむりたいね。
あの世に行った先まで、付きまとわれるなんて真っ平だよ。
……本当のところ、それほど弱っているのかい、陛下は?”

“ああ、生けるミイラと言ったところだな。
最近は、死んでいる貴様よりも死人めいているわ”
タナトスの声は冷ややかだった。
“……そう。リナーシタと陛下とどちらが先か、という感じかい?”

“まあ、そんなものだ。
では、午後にでも……いや、明日にした方がいいか?
お前も、心の準備が必要だろう?”
“あ……いや、構わないよ、今でも。
むしろ間が開けば、会いたくない気持ちが余計に強まりそうな気さえしてくる……”
“分かった、すぐ行かせる”
タナトスの念話は切れた。

(それにしても、気が重い……やはり断るべきだったか……いや、でも……)
サマエルの思考が堂々巡りを始めたその時、再び兄の声が届いた。
“おい、サマエル。念のため言っておくが、殺すなよ”
“え、殺す? だ、誰を……?”
ぎょっとして、思わずサマエルは聞き返す。

“これはな、血のつながりとやらがどうとかいう問題ではない。
誰であろうと命を奪えば、お前自身が傷つくからだ。
せいぜい半殺し程度で……いや、殺したくなったら言え、代わりに俺が手を下してやる”

“またそんなことを……そもそも私は、陛下に手を出すつもりなどないよ。
それに、お前を尊属殺しにしたくもない”
“ふん、俺はあのくそ親父をバラしたところで、罪悪感も何も覚えはせんぞ?
ともかく、これ以上、鬱陶(うっとう)しい(やから)は近づかせん、俺が死ぬまで、お前が静かに待っていられるようにしてやるから安心しろ”
“そうあって欲しいね……あ、到着したようだ、また後で”

人影が近づいて来るのを視界の端に捉えて、彼は念話を打ち切った。
それは一つではなく、杖にすがった者がもう一人に支えられて、芝生の上をおぼつかない歩みで進んで来るのだった。

イシュタル叔母も一緒だと知ると、途端にサマエルは気が楽になった。
徐々に近づいて来る前魔界王は、タナトスの言葉通り、出撃前に会った時よりさらに老け込んでいるようで、昔年(せきねん)の面影は微塵(みじん)もない。

彼の眼前まで来ると、老人は生気のない声で言った。
「おお、ルキ、フェル……会いたかった、ぞ……。
イシュタル、そなたは席を外せ……」
「え、ですが」
彼女は心配そうに、(おい)と異母兄と交互に目をやる。
「ええい、二人きりで話さねばならぬのじゃ、魔界に戻っておれ……!」
ベルゼブルは苛立ち、かすれ声を張り上げた。

イシュタルはため息をついた。
「かしこまりました、待っております」
「あ、叔母上、……」
引き留めようとする彼には構わず、しかめ面の前魔界王は、追い払うような仕草を見せた。
「……ではね、サマエル」
彼女は会釈(えしゃく)し、(きびす)を返す。
それを眼で追うサマエルは、心の中で肩を落とした。

異母妹の姿が見えなくなってから、ベルゼブルは小さな虹色の球体を取り出し、芝生の上に転がす。
直後、結界が墓場全体を覆い尽くした。
「陛下、何を……!?」
意表を突かれて、サマエルは頭上に広がる結界を見上げた。

「用心の、ためじゃ……今より、語るは、何人(なんぴと)……にも、聞かれては、ならぬ……魔、界王家の……禁秘(きんぴ)、なのじゃ、から……」
喉に絡んで途切れがちのベルゼブルの声は、かすれて聞き取りづらかった。

(大げさなことだ)
わずかに眉根を寄せてサマエルはつぶやき、視線を前魔界王に戻す。
「それで、お話とは何ですか?」
「おお……何から、話せば、良いものか……ふむ、やはり、初めから……うっ、
げほ、げほ、げほっ……!」
突如、老人は激しく咳き込み始める。

「大丈夫、ですか……?」
そう声をかけてはみたものの、サマエルはその場に釘付けになっていた。
普段の彼なら駆け寄って、背中をさするくらいはしたかも知れないが、今回はそばに行ったが最後、とんでもなく悪い事が起きそうな予感がして、足が動かなかったのだ。

その間にも、ベルゼブルは体を二つに折り、咳き込み続ける。
「み、水、をくれ……げほ、げほ、げぼっ」
「──カンジュア!
どうぞ、お飲み下さい」
ここまで来るとさすがに無視するわけにも行かず、やむなく彼は魔法でソファを出し、座り込んだ老人の手の中に水が入ったグラスを出現させた。
同時にテーブルも出して、満水の水差しも置いておく。

ベルゼブルは震える手でどうにか水を飲み下し、ようやく咳は止まった。
しばし肩で息をし、呼吸を落ち着けてから、老人は顔を上げ、彼を手招いた。
「……もそっと近う寄れ、ルキフェル。
左様に、離れておっては……まともに、話も、出来ぬぞ……」
「いえ、私はここで結構です。お話の続きをどうぞ」
サマエルはつっけんどんに返す。

「……むう」
ベルゼブルは不服そうな顔をしながらも、彼が動こうとしないのを見ると、諦めたように口を開いた。
「まあよい。あれは……左様、そなたが生まれるよりも前……アイシスが、サタナエルを身籠った時のことじゃったな……」
老人は言葉を途切らせ、遠い目をする。

そのままベルゼブルは追想にふけってしまい、いくら待っても口を開く気配もない。
兄のように舌打ちしたい気持ちを抑え、サマエルは軽く咳払いをした。
「……こほん。陛下、それで?」
「あ、ああ、……」
相手が我に返ると、サマエルは心底ほっとした。
何でもいいからさっさと話し終えて目の前から消えて欲しい、というのが彼の偽らざる気持ちだった。

「実は……余は医者に、同胞相手では子は望めぬ、と宣告されておってな……。
それもあり……何としても、人族の娘を、妃に迎えねば、と……、アイシスを、(めと)ったのじゃ。
その甲斐(かい)あって、待望の世継ぎを授かり、喜びもひとしお、じゃった。
されど……天にも昇る心地で、いられたのも束の間……妃の妊娠を、いずこより、嗅ぎつけたものか……あの、忌々(いまいま)しき、ミカエル共が、押し寄せて来おった……」
「大方、魔族の誰かを拷問したのでしょう」
冷ややかに、サマエルは口を挟む。

「うむ、彼奴(きゃつ)ならやりかねぬ。
ともあれ、余は兵を率い、神族どもを迎え撃った、のじゃ……。
このままでは、“黯黒の眸(あんこく  ひとみ)”の、結界があろうとも……安んじて子を産めまい、と……」
「お言葉ですが、陛下みずからのご出陣とは、さすがに無謀では?
万が一にも王が戦場にて倒れれば……」

「いや、余は、斥候(せっこう)を、放ち……敵の捕虜ども、も尋問し……結果、反撃可能、と判断……したのじゃ。
そのそも……この侵攻は、ミカエルめの独断専行……ゆえに、手駒はわずか一個大隊……千名程度……天使どもは皆、貧乏くじを引いたと不満を(つの)らせ……当然、士気など、高かろうはずも……ごほっ」
またも咳き込みかけたベルゼブルは、急いでグラスを手に取り、水を口に含んだ。

たしかに、ミカエルなら、妻にし損ねた女が身籠ったと聞いて嫉妬に駆られ、手近な兵を引っ立てて突撃して来かねない、そうサマエルも思う。
そして、そんな愚行を、狡猾(こうかつ)な天帝が許すわけがなかった。

愛した女を忘れかねての所業……情熱的と言えば聞こえがいいが、完全な横恋慕(よこれんぼ)であり、母、アイシスにとっては迷惑な話だった。
まして、それに()りることもなく、後に母が里帰りした際、人界で拉致(らち)監禁したことを考えれば。

彼が考えを巡らす間にも、前魔界王は水をグラスに注いでは喉を(うるお)し、再び話し出した時には言葉も明瞭になり、かなり聞き取りやすくなっていた。

「そうして、余が天使ども相手に奮闘している間に、アイシスが悪夢にうなされるようになっての。
余に心配をかけまいと黙っておったのじゃが、日増しに憔悴(しょうすい)していき、魔法医がそれに気づいた。
報告を受けた余は、陰湿なミカエルの(はかりごと)に違いないと考え、“焔の眸”に妃の警護を命じておいて、怒りと共に、敵どもを追い払ったのじゃ」

「……そんなことがあったのですか。
やはり悪質ですね、あのエセ天使は」
「いや、それがな。余もてっきり、彼奴(きゃつ)の仕業とばかり思っておったのじゃが……」
「え? 違ったのですか?」

「……それは追々(おいおい)に。まずは最後まで聞くがよい。
ともあれ、当時は、すべてうまく行っていたと思えた。
されど、運命の歯車は、すでに狂い始めておったのじゃ……」
「運命が狂った、とは……?」
サマエルは小首をかしげる。
それには答えず、ベルゼブルは続けた。

「やがて、アイシスは無事、男児を産み落とした。
サタナエル、“敵対する者”と名付けたのは、王子の代で神族に勝利し、ウィリディスを取り戻す事が出来るように、との願いを込めてのことじゃ。
民は二重の喜びに沸き、今度こそ余も、我が世の春を謳歌(おうか)……するはずじゃった。
されど、祝賀気分はすぐに消えた。
出産時にアナテ神殿に落雷があり、さらに直後から、洪水や地震、干ばつなどの被害が相次ぎ、王子は不吉な出生であるとの噂まで立った。
しかも、妃と幼いイシュタルまでもが悪夢に襲われるようにもなり……たまらずアナテ神殿の司祭に占わせたところ、世にも不吉な神託が下っての……」

きん‐ぴ【禁秘】

1 堅く秘密にして、決して見せないこと。2 宮中の秘密。

ざん‐げ【懺悔】

1 神仏の前で罪悪を告白し悔い改めること。
2 キリスト教会一般では、罪を告白し、神の許しを請うこと。
カトリック教会では「悔悛(かいしゅん)の秘跡」の俗称。
3 自分の罪を悔いて他人に告白すること。

おう‐じょう【往生】

4 どうにもしようがなく、困り果てること。閉口。