30.魔界王家の禁秘 (1)
“ああ。俺も同じことを考えて、くそ親父を怒鳴りつけてやったわ。
たわけ者! 墓参り程度で、貴様がサマエルにしたことを水に流せとでも言うつもりか! とな”
タナトスの
サマエルもまた、相手には見えないと知りつつ無表情で答えた。
“おのれの寿命を悟り、
“今さらか、下司が”
兄王は吐き捨てた。
“ともかく、お前に会わせろの一点張りで、叔母上は泣き出すし、まったく
仕方なく、会う気があるかは訊いてやるが拒否されたら諦めろ、と言ったのだ。
答えは聞くまでもないが、な”
肩をすくめる気配が伝わって来る。
“はぁ……それはご
サマエルの念は、ため息の中に消えた。
それはサマエルも同じで、叔母には育ててもらった恩がある。
だが、義理の父親の
その時、不意に彼は思い出した。
“……しまった、忘れていた”
“何だ、どうした?”
“ほら、陛下は出撃前にも、私に何か言おうとしただろう?
あまりしつこいものだから、無事に戻って来たら話を聞くと約束していたのだよ……”
“ち、そんなもの、忘れたふりで押し通せ。
それに、お前は……無事に帰って来た、わけでは……”
タナトスは言いよどんだ。
“そうだね……今度ばかりは、自分の記憶力の良さを恨むよ。
それでも、叔母上のたっての望みとあれば、ね……”
サマエルの返答もまた、歯切れが悪かった。
“ほう……では、会ってやるのか、奇特だな。
それはいいが、あまりうだうだ話が長引くようなら言え、速攻で、魔界へたたき返してやる。
まったく、棺桶に片足突っ込んでいるジジイのくせに。地獄に落ちてから、土下座でも何でもすればいいものを”
サマエルは顔をしかめた。
“それは、ごめんこうむりたいね。
あの世に行った先まで、付きまとわれるなんて真っ平だよ。
……本当のところ、それほど弱っているのかい、陛下は?”
“ああ、生けるミイラと言ったところだな。
最近は、死んでいる貴様よりも死人めいているわ”
タナトスの声は冷ややかだった。
“……そう。リナーシタと陛下とどちらが先か、という感じかい?”
“まあ、そんなものだ。
では、午後にでも……いや、明日にした方がいいか?
お前も、心の準備が必要だろう?”
“あ……いや、構わないよ、今でも。
むしろ間が開けば、会いたくない気持ちが余計に強まりそうな気さえしてくる……”
“分かった、すぐ行かせる”
タナトスの念話は切れた。
(それにしても、気が重い……やはり断るべきだったか……いや、でも……)
サマエルの思考が堂々巡りを始めたその時、再び兄の声が届いた。
“おい、サマエル。念のため言っておくが、殺すなよ”
“え、殺す? だ、誰を……?”
ぎょっとして、思わずサマエルは聞き返す。
“これはな、血のつながりとやらがどうとかいう問題ではない。
誰であろうと命を奪えば、お前自身が傷つくからだ。
せいぜい半殺し程度で……いや、殺したくなったら言え、代わりに俺が手を下してやる”
“またそんなことを……そもそも私は、陛下に手を出すつもりなどないよ。
それに、お前を尊属殺しにしたくもない”
“ふん、俺はあのくそ親父をバラしたところで、罪悪感も何も覚えはせんぞ?
ともかく、これ以上、
“そうあって欲しいね……あ、到着したようだ、また後で”
人影が近づいて来るのを視界の端に捉えて、彼は念話を打ち切った。
それは一つではなく、杖にすがった者がもう一人に支えられて、芝生の上をおぼつかない歩みで進んで来るのだった。
イシュタル叔母も一緒だと知ると、途端にサマエルは気が楽になった。
徐々に近づいて来る前魔界王は、タナトスの言葉通り、出撃前に会った時よりさらに老け込んでいるようで、
彼の眼前まで来ると、老人は生気のない声で言った。
「おお、ルキ、フェル……会いたかった、ぞ……。
イシュタル、そなたは席を外せ……」
「え、ですが」
彼女は心配そうに、
「ええい、二人きりで話さねばならぬのじゃ、魔界に戻っておれ……!」
ベルゼブルは苛立ち、かすれ声を張り上げた。
イシュタルはため息をついた。
「かしこまりました、待っております」
「あ、叔母上、……」
引き留めようとする彼には構わず、しかめ面の前魔界王は、追い払うような仕草を見せた。
「……ではね、サマエル」
彼女は
それを眼で追うサマエルは、心の中で肩を落とした。
異母妹の姿が見えなくなってから、ベルゼブルは小さな虹色の球体を取り出し、芝生の上に転がす。
直後、結界が墓場全体を覆い尽くした。
「陛下、何を……!?」
意表を突かれて、サマエルは頭上に広がる結界を見上げた。
「用心の、ためじゃ……今より、語るは、
喉に絡んで途切れがちのベルゼブルの声は、かすれて聞き取りづらかった。
(大げさなことだ)
わずかに眉根を寄せてサマエルはつぶやき、視線を前魔界王に戻す。
「それで、お話とは何ですか?」
「おお……何から、話せば、良いものか……ふむ、やはり、初めから……うっ、
げほ、げほ、げほっ……!」
突如、老人は激しく咳き込み始める。
「大丈夫、ですか……?」
そう声をかけてはみたものの、サマエルはその場に釘付けになっていた。
普段の彼なら駆け寄って、背中をさするくらいはしたかも知れないが、今回はそばに行ったが最後、とんでもなく悪い事が起きそうな予感がして、足が動かなかったのだ。
その間にも、ベルゼブルは体を二つに折り、咳き込み続ける。
「み、水、をくれ……げほ、げほ、げぼっ」
「──カンジュア!
どうぞ、お飲み下さい」
ここまで来るとさすがに無視するわけにも行かず、やむなく彼は魔法でソファを出し、座り込んだ老人の手の中に水が入ったグラスを出現させた。
同時にテーブルも出して、満水の水差しも置いておく。
ベルゼブルは震える手でどうにか水を飲み下し、ようやく咳は止まった。
しばし肩で息をし、呼吸を落ち着けてから、老人は顔を上げ、彼を手招いた。
「……もそっと近う寄れ、ルキフェル。
左様に、離れておっては……まともに、話も、出来ぬぞ……」
「いえ、私はここで結構です。お話の続きをどうぞ」
サマエルはつっけんどんに返す。
「……むう」
ベルゼブルは不服そうな顔をしながらも、彼が動こうとしないのを見ると、諦めたように口を開いた。
「まあよい。あれは……左様、そなたが生まれるよりも前……アイシスが、サタナエルを身籠った時のことじゃったな……」
老人は言葉を途切らせ、遠い目をする。
そのままベルゼブルは追想にふけってしまい、いくら待っても口を開く気配もない。
兄のように舌打ちしたい気持ちを抑え、サマエルは軽く咳払いをした。
「……こほん。陛下、それで?」
「あ、ああ、……」
相手が我に返ると、サマエルは心底ほっとした。
何でもいいからさっさと話し終えて目の前から消えて欲しい、というのが彼の偽らざる気持ちだった。
「実は……余は医者に、同胞相手では子は望めぬ、と宣告されておってな……。
それもあり……何としても、人族の娘を、妃に迎えねば、と……、アイシスを、
その
されど……天にも昇る心地で、いられたのも束の間……妃の妊娠を、いずこより、嗅ぎつけたものか……あの、
「大方、魔族の誰かを拷問したのでしょう」
冷ややかに、サマエルは口を挟む。
「うむ、
ともあれ、余は兵を率い、神族どもを迎え撃った、のじゃ……。
このままでは、“
「お言葉ですが、陛下みずからのご出陣とは、さすがに無謀では?
万が一にも王が戦場にて倒れれば……」
「いや、余は、
そのそも……この侵攻は、ミカエルめの独断専行……ゆえに、手駒はわずか一個大隊……千名程度……天使どもは皆、貧乏くじを引いたと不満を
またも咳き込みかけたベルゼブルは、急いでグラスを手に取り、水を口に含んだ。
たしかに、ミカエルなら、妻にし損ねた女が身籠ったと聞いて嫉妬に駆られ、手近な兵を引っ立てて突撃して来かねない、そうサマエルも思う。
そして、そんな愚行を、
愛した女を忘れかねての所業……情熱的と言えば聞こえがいいが、完全な
まして、それに
彼が考えを巡らす間にも、前魔界王は水をグラスに注いでは喉を
「そうして、余が天使ども相手に奮闘している間に、アイシスが悪夢にうなされるようになっての。
余に心配をかけまいと黙っておったのじゃが、日増しに
報告を受けた余は、陰湿なミカエルの
「……そんなことがあったのですか。
やはり悪質ですね、あのエセ天使は」
「いや、それがな。余もてっきり、
「え? 違ったのですか?」
「……それは
ともあれ、当時は、すべてうまく行っていたと思えた。
されど、運命の歯車は、すでに狂い始めておったのじゃ……」
「運命が狂った、とは……?」
サマエルは小首をかしげる。
それには答えず、ベルゼブルは続けた。
「やがて、アイシスは無事、男児を産み落とした。
サタナエル、“敵対する者”と名付けたのは、王子の代で神族に勝利し、ウィリディスを取り戻す事が出来るように、との願いを込めてのことじゃ。
民は二重の喜びに沸き、今度こそ余も、我が世の春を
されど、祝賀気分はすぐに消えた。
出産時にアナテ神殿に落雷があり、さらに直後から、洪水や地震、干ばつなどの被害が相次ぎ、王子は不吉な出生であるとの噂まで立った。
しかも、妃と幼いイシュタルまでもが悪夢に襲われるようにもなり……たまらずアナテ神殿の司祭に占わせたところ、世にも不吉な神託が下っての……」
きん‐ぴ【禁秘】
1 堅く秘密にして、決して見せないこと。2 宮中の秘密。
ざん‐げ【懺悔】
1 神仏の前で罪悪を告白し悔い改めること。
2 キリスト教会一般では、罪を告白し、神の許しを請うこと。
カトリック教会では「悔悛(かいしゅん)の秘跡」の俗称。
3 自分の罪を悔いて他人に告白すること。
おう‐じょう【往生】
4 どうにもしようがなく、困り果てること。閉口。