~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

29.獅子の系譜(1)

呼ばれた気がして、サマエルは目覚めた。
再びまどろみかけるも、かすかなその呼びかけは続き、魔界の王子を夢現(ゆめうつつ)の境に彷徨(さまよ)わせた。

そして、隠世(かくりよ)の者が夢を見ることはありえるのか、という疑念がふと心に差した時、はっきりとした声が届いた。
“お願い! 出て来て、サマエルお父さん!”

完全に覚醒した彼は、地下の棺をすり抜けて地上に出た。
「キミか、シュ……いや、ベリル。何か用かな」
赤みがかった金髪の少女は愁眉(しゅうび)を開き、ぺこりと頭を下げた。
「お休み中にごめんなさい。
あのね、お願いしたいことが……あ、えっと、まずは公爵さん、どうぞ」
彼女の後ろには、グーシオン公爵が青ざめた顔で控えていた。

「ああ、グーシオン。奥方の様子はどう……」
サマエルの言葉の途中で、がばっと公爵は地面にひれ伏した。
「申し訳ございません!
本当なら、レイントの()っ首、打ち落として持参致すべきところでございますが、タナトス様のご裁断を(あお)ぐべきとの、イシュタル様のご命令……あんな女、もはや妻とも思いませんが、それでも、妻の(とが)はわたしの咎も同然、平にご容赦を!」
 
「やはりか……」
サマエルの端正な顔が曇ると、二人の後ろから、紅く輝くライオンがのそりと歩み出た。
『アルリ・アンデは貴族ゆえ、常ならば死一等(しいっとう)は減じられよう。
されど、魔界王の裁定ともなれば、いかなる罰が下りようと、伯も不服は唱えられまい』
グーシオンの妻のレイントは、フールフール伯爵の長女であり、真の名はアルリ・アンデと言う。

「……そうだね。いくらうるさ型の伯爵でも、タナトスの逆鱗に触れて魔封じの塔に放り込まれる不名誉を(こうむ)るのは真っ平だろうし。
まあ、昔のタナトスなら、相手の身分がどうあれ、みずから首を()ねてやると息巻いて、皆を青ざめさせたに違いないけれどね……ずいぶんと進歩したものだ」
サマエルは感慨深げに微笑む。

「は……この件も、大臣達の意見も一応は聞いた上で処遇をお決めになるそうで、それまでの間、レイントとヴァレフォルは、我が館に留めおくことになりました」
公爵の答えに、サマエルは首をかしげた。
「母子を連座させるのかい? 息子に罪はないのに」

途端に公爵は拳を握りしめ、歯を食いしばった。
それまで、揺らぎつつも、平常時の緑色を保っていた瞳は紫へと変化を遂げて、彼は絞り出すように告げた。
「それは別件でして……申し上げにくいことですが……実は、あれの父親はわたしではないと……」

「え……奥方は、不貞まで働いていたのか……!?」
さすがのサマエルも声を上ずらせ、呆然とする。
シンハもまた、苛々とたてがみを揺すって火の粉を辺りに撒き散らし、ベリルも無言で眉を寄せ、唇を噛んでいた。

グーシオンは、力なく(かぶり)を振った。
「不貞、というより、嫁いだ時にはもうすでに……」
「何と……あきれたな。
ヴァピュラは、弟がなついてくれたと喜んでいたのに……」
サマエルは、こめかみに指を当てた。

「……ともあれ、あの子に非はありません、今は母親と一緒にしておりますが、この後は……。
里へ帰すのが順当なのでしょうが、いっときは息子と呼んだ子を、死地へ送ることにもなりかねませんから……」
公爵の声は重く、暗かった。

「……ふむ。伯爵家に送れば、幽閉どころか闇に葬られかねない、かといって手元にも置きかねる、か……。
そもそも、獣嫌いなフールフール伯爵家と、獣頭貴族の筆頭であるお前の家との縁組が持ち上がるのは奇異だ……そう思わなかったのかい?」
サマエルは改めて尋ねた。

「……それは、わたしも面くらい、初めは断るつもりでおりました。
ですが、レイントが恋人と別れさせられ、腹いせに公爵家を指名した……という話を小耳に挟みまして、それなら、と……」
「……なるほど、義侠心(ぎきょうしん)(きざ)した、というわけだね」

「ええ、そのようなものです、横暴な父親から助けてやれるならと……子供達にも、母親が必要と考えておりましたし。
ですが、レイントの方は計算ずくだったのでしょう、獅子頭の赤ん坊なら、騙しおおせると……」
うつむく公爵の声には、深い悲哀がにじんでいた。

(……まるで、郭公(カッコウ)托卵(たくらん)だな。
郭公は、托卵相手のとそっくりな卵を産み落とす……孵化(ふか)した(ひな)は巣を独り占めし、養い親よりも大きく育つのだという……)
ため息混じりにサマエルはつぶやく。
それを耳にしたシンハは鼻にしわを寄せ、低い唸り声を上げて尾をぴしぴしと振り下ろした。

「ああ、お許し下さい、サマエル様!
わたしは二度も、あなた様を裏切ってしまいました……!」
グーシオンは、再び芝生に(ぬか)づいた。

「二度……? もしかして一度目は、ベルフェゴールの謀反の時のことか?
いや、前も今も、お前は悪くないよ。
それどころか、あの時、私の思惑通り行動してくれたからこそ、あの男を油断させて捕らえることができたのだ。
だが、ヴァピュラまで斬ってしまったのは、やり過ぎだったと反省している、済まなかったね」

サマエルは謝りながら実体化し、震える公爵の肩にそっと手を置いた。
刹那、相手の記憶が心に流れ込んできて、王子は眼を丸くした。
「お前……そんな目に遭ってまで私を……なるほど、だからか……」
「だ、駄目です、心をお読みになっては……!」
グーシオンは顔を手で覆った。
『何かあったのか?』
シンハが尋ねた。

「……私が幼い頃、彼がお茶に招いてくれたことがあってね。
初めは固辞したよ、私に関わった者達は、ベルゼブル陛下のご勘気(かんき)(こうむ)っていたから。
でも、空腹には勝てず、ひとときを夢見心地で過ごした……だが、お前も私のせいで酷い目に遭ったのだね、済まない……」
サマエルはうなだれる。

「いえ、あなた様のせいではなく、若気の至りで陛下に楯突(たてつ)き、罰を受けたのですよ」
公爵が否定すると、サマエルはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ふ、するとお前は若気の至りで、陛下に『王子を自分に下さい』などと言ったのかい?」

『何?』
「えっ!?」
シンハとベリルは思わず声を上げ、目を丸くして公爵を見る。
グーシオンは耳まで真っ赤になっり、あたふたと言った。
「お、おやめ下さい、それではまるで、わたしが、あなた様に、き、求婚したかのようでございませんか……!」

「ふ、誤解を招く言い方だったかな?
正確には、『陛下がいらないと(おっしゃ)るなら王子を自分に下さい、ちゃんと育ててご覧に入れます』と言ったのだよ、グーシオンは。
私の待遇に(いきどお)るあまりに、ね」
サマエルは、ぽかんとしている二人に笑いかけた。

「あ、何だ、そうだったの、びっくりしちゃった。ねぇ、シンハ」
ベリルは胸をなでおろす。
『左様なことだろうと思うたわ』
シンハも苦笑した。

公爵は気を取り直し、改めて経緯を話し始めた。
「……あれは母の()が明けた後、後見人の叔父に連れられ、次期公爵としてごあいさつに(うかが)った折のことでした。
陛下は大層ご立腹され、これ以上王子に関わるならば、改易(かいえき)もあるとまで仰って……」

「……同様の脅しをかけられて、皆、手を引かざるを得なくなったのに、お前は私の味方でいてくれたのだね。
なのに、私はお前を都合よく利用して……」
サマエルは申し訳なさそうな顔をした。

「いいえ、わたしは利用されたとは思っておりません。
それよりも、ベルゼブル陛下の行動は、君主というよりも親として、許されることではございません、お子様に食事もさせないなどと……!」
憤懣(ふんまん)やるかたないように、公爵は言いつのる。
葡萄酒色の瞳は輝きを増し、その奥に深い森の緑の炎が灯って燃え盛った。

『かく言う汝の言動も、()められたものではないぞ』
たしなめるように口を挟んだシンハの眼も、紅と紫の色の違いこそあれ、激しく燃え上がっていた。

「あの時は、『ご自由になさって下さい、公爵家なんてどうせわたし一人です。
ですが、意に沿わぬ者を皆、反逆者扱いし、お家まで取り潰すなら、いずれ本当の反乱が起きますよ』などと口走って、陛下のお怒りに油を注いだのです。
同行した叔父は卒倒しそうになっておりましたよ……今思えば、冷汗三斗(れいかんさんと)でございますが」
そう話す公爵の口調は徐々に穏やかになり、瞳も緑色に戻っていく。

『汝の心持ちは分かるが、いかんせん蛮勇(ばんゆう)であったな』
シンハは評した。
「仰せの通りですが、父はすでに亡く、成人前に母も他界、三人の弟達は養子に出され、がらんとした館で孤独をかこつ……そんなわたしは、自分の境遇とサマエル様を重ねて、もう一人の弟のように思ってしまったのですよ」
グーシオンはサマエルに会釈した。

「そう、ありがとう。前回も、今回だってお前は被害者だ。
裏切り者だなんて思わないよ、露ほども、ね」
サマエルは、安心させるように微笑みかけた。

「……こちらこそ、ありがとうございます。
思い起こせば、ベルフェゴールに脅された時……あなた様と、人質にされた妻、生まれたばかりのヴァレフォルを天秤にかけ……死ぬほど悩んだ末、家族を取りましたのに……それがまがい物、だったとは……」
公爵はまたもうなだれた。
「いや、家族を取るのは当然だよ。悩ませて本当に申し訳なかったね」
「いいえ、決してそのようなことは……」

シンハは話題を変えようと口を開いた。
閑話休題(それはさておき)、グーシオン。
アンリ・アンデの動機は何だ?
やはり、おのれの子を、公爵家の世継ぎにしようとてか?』
「そういえば、婚姻の際、後でもめないように諸々決めなかったのかい?」
サマエルも訊いた。

「いえ、もちろん、公式に取り決め致しましたとも。
こちらをご覧下さい──カンジュア!」
公爵は魔法で、巻いた書簡を取り出した。
「公爵家の継嗣(けいし)はヴァピュラであり、子が生まれても、跡目を継ぐ権利はないという覚書で……伯爵とレイントの署名も、ここにございます」
「……ああ、たしかに」
サマエルは書類を受け取って広げ、シンハとベリルにも見せた後に返した。

「初めこそ、レイントも恋人のことは忘れて公爵家になじもう、良い母親になろうと努力していた、とのことですが、戦が終わる直前、恋人に再会し、ヴァレフォルを公爵にして父親を見返してやろう、そのためには長男が邪魔だ、などと吹き込まれたそうなのです……!」
公爵は再び、拳をきつく握りしめる。
再び瞳は紫に変わり、奥の炎は金緑色にぎらぎらと燃え上がった。

サマエルはうなずく。
「……なるほど、そいつが真の黒幕だね」
()れ者の名はアダル。ウンデキンベル男爵家の十三男よ。
彼奴(きゃつ)の捕縛も時間の問題』
シンハもまた、瞳の炎を紅く燃やして重々しく宣言した。

「是非ともそう願いたいね」
サマエルの唇には笑みが張りついていたが、眼はまったく笑っておらず、首謀者を捕らえたらどうしてくれようかと、暗い考えを巡らしていた。

その時、公爵が、誰に言うでもなくつぶやいた。
「彼女には話しておくべきだった……たとえヴァレフォルが実子で、かつ一人っ子だったとしても、あの子が跡継ぎにはなり得ない、その理由を……」

かくり‐よ【隠世】幽世

死んだ人の行く世。あの世。よみの国。⇔現世(うつしよ)。

そっ くび 【素っ首】

〔「そくび」の促音添加〕 首をののしっていう語。

死(し)一等(いっとう)を減(げん)・ずる

死罪にすべきところを許して、一段階低い刑にする。

うるさ‐がた【煩型】

何にでも口を出し、文句を言いたがる性質。また、そのような人。

義侠(ぎきょう)

正義を重んじて、強い者をくじき、弱い者を助けること。

義侠心

義侠を積極的に行おうとする心・気性。おとこぎ。

れん‐ざ【連座/連坐】

他人の犯罪に関して連帯責任を問われて罰せられること。累座。

かん‐き【勘気】

主君・主人・父親などの怒りに触れ、とがめを受けること。また、その怒りやとがめ。

かい‐えき【改易】

2 中世、罪科などによって所領・所職・役職を取り上げること。

けい‐し【継嗣】

相続人。あとつぎ。よつぎ。

ふん‐まん【憤懣/忿懣】

怒りが発散できずいらいらすること。腹が立ってどうにもがまんできない気持ち。「―やるかたない」

ばん‐ゆう【蛮勇】

事の理非や是非を考えずに発揮する勇気。向こう見ずの勇気。

しれ もの 【痴れ者】

1.常軌を逸したばかもの。あほう。

れいかん-さんと【冷汗三斗】

強い恐怖感を抱いたり、恥ずかしい思いをして、からだ中から冷や汗が流れること。「一斗」は約十八リットル。「三斗」は量の多いことを誇張していったもの。