~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

28.疑惑の貴婦人(4)

「こういう場合、肉体より、精神にダメージを与える方が効果的だな。
──カンジュア!」
サマエルに操られた使い魔──蛇のエルピダは、魔法で剣を呼び出す。
それから、(つか)をくわえて(さや)を払うと、縛られ牢獄に横たわる囚人の鼻先に放り出した。

戦時にミカエルの複製を刺殺した剣身は、乾いた血で赤黒く変色しており、ジャダ──サリエル達を毒矢で射た犯人の片割れ──は、すぐにそれが友人の形見と気づいた。
はっと顔を上げた刹那、蛇と眼が合い、男の背筋を嫌な予感が走り抜けた。

「ふ、これをどうする気かって? ──こうするのさ!」
蛇は尾を振り上げ、力任せに剣身を打ち据え始めた。
「あっ! や、やめて下せぇ!」
<狼狽(ろうばい)するジャダの静止をものともせず、蛇は尾をムチのようにしならせては、繰り返し振り下ろす。

やがて、執拗(しつよう)な打撃に耐えられず、剣は真っ二つに折れてしまった。
「こ、この嘘つきが! 必ず届けるって約束したじゃねぇか!」
顔を紅潮させてジャダは怒鳴った。

「ふ……折らずに、届ける、などとは、言ってない、ぞ……!
遺族には、ミカ、エルを、(ほふ)った、毒が、残っていて、危ない……とでも、言えば、いい……知られたく、ない、ならな。
く──こんなもの、こんなもの、こんなもの!」
サマエルは言い返し、さらに攻撃を続けた。

硬い鱗による数十回もの打撃で、ついに剣はバラバラの鉄片に成り果てた。
「くくく……こんな、鉄屑(てつくず)が、形見として大事に、される……。
それを、想像すると……ふ、はは、あははは、笑いが、止まらない……!」
蛇は荒い息で笑いながらそれらを魔法で拾い上げ、鞘に落とし込む。

「くそ、胸くそ悪りぃな!
怒りが収まらねぇってんなら、俺を殴るなり何なりすりゃいいだろが!」
ジャダは嫌悪に顔をゆがめた。

「大切な者を理不尽に奪われる……その苦痛と悲しみが、殴る程度で帳消しになるとでも?
お前にも、私と同じ苦しみを味わわせてやる……そう、友人の妻を、腹の子ごとあの世に送る、などというのはどうだ……」
低い声は怒気を(はら)み、その紅い眼からも、サマエルの激しい感情があふれ出ていた。

「な、何だと、ふざけんな!
んなことしやがったら、承知しねぇぞ!
こんちくしょう、こいつを解きやがれっ!」
だが、いくらジャダが激昂(げっこう)しようと、拘束された囚人の身では、文字通り手も足も出ない。

「ふ、夫に先立たれた女が、寝る間もなく働きづめで子を育てる……そんな苦労を背負うより、子と共に夫の元へ旅立つ方が幸せかも知れないぞ。
大丈夫、彼らに恨みはないから、苦しませずに死なせてやろう」
蛇は平然と言ってのけ、瞳の闇の輝きは、ますます強さを増していく。

「く……!」
ジャダは歯噛みしたが、相手はカオスの貴公子、元より歯が立つ相手ではなく、まして、王子を怒らせることで事態が好転するわけもなかった。

「お、お待ち下せぇ、悪いのは全部俺でさ、謝ります、すんません!
だから、殺るのは俺だけにして下せぇ!
どうか、ダチのかかぁや赤にゃ、手出ししねぇで下せぇ、お願ぇしやす!」
彼は、必死の思いで頼み込んだ。

「ほう、殊勝(しゅしょう)な心がけだな。私とて無用な殺しは好まない。
どれ、望み通りにしてやろう」
蛇は冷たく言い放ち、鋭い牙を男の肩に突き立てた。
「ぐわっ!」
ジャダは全身を痙攣(けいれん)させ、顔もみるみる土気色になっていく。

『やめよ、ルキフェル』
ライオンは檻に飛び込み、前足を器用に使って牙を引き剥がした。
大人しく床でとぐろを巻いた蛇を、(とが)めようとしたシンハは、相手の眼から真紅の(しずく)がこぼれ落ちていることに気づいて面食らった。

『むう……何ゆえ泣く? リナーシタの蘇生はうまくいったではないか。
ただ一つの希望を奪った、左様に汝は申したが、そも()の者は複製、真の息子であるサリエルは無傷なのだぞ』

「複製かどうかなど関係ない。
リナーシタは……もうもたないだろう……彼を創った天使が、そう言って……たしかに、サリエル自身だって、長生きはできそうにない……それでも、今回のことがなければ、まだ望みは……なのに……」
絞り出すような言葉は途切れがちで、涙も流れ続けて石造りの床に点々と紅い染みをつけている。

『……これはしたり』
瞳の紅い炎が揺れ、ライオンはたてがみを振り立てた。
岩の壁に映る影も激しい動きを見せ、床一面に火の粉が飛散する。
『されど、無闇に証人を(あや)めるは得策ではあるまい。
裁きが困難になるやもしれぬぞ……』
その言葉は、自分にも言い聞かせるような響きを持っていた。

蛇は首を横に振った。
「一時、死の恐怖を味わわせてやっただけ……毒は死なない程度の量さ」
その声はささやくようで、ともすれば、囚人の苦しげなうめき声、のたうち回る音に消されがちだった。

『──コンティケオ!』
シンハは呪文を唱え、耳障りな音声を消す。
静寂の中で、彼が話を続けようとした時、不意に蛇の様子が変わった。

「……ねぇ、シンハ。お前はいつも僕を、そんな眼で見るよね。
皆と同じで僕のこと、要らない子って思ってるくせに、どうしてお前は僕を殺してくれないの……あれ?」
ライオンに触れようとして動きを止め、蛇は小首をかしげた。

次の瞬間、細長い体が紫に輝き、幼少期のサマエルの姿となる。
「よかった、手があった」
自分の手を見て浮かべた安堵の笑みは一瞬で消え、少年の眼には一層暗い影が差した。

「……ねぇ、シンハ、僕は、生きてちゃいけないんだよね……?
父様も兄様も、僕なんかいらないって思ってる……お前もそうでしょ?
だったら、僕を殺して……ねぇ、殺して、コロシて、コロシテ……」
うわ言のようにつぶやくうちに、その眼は焦点を失っていく。

おのれが死んでいることにも気づけずにいる少年への、憐憫(れんびん)と苛立ちとを脇に置いて、シンハは、サマエルが狂気に囚われぬよう、急いで語りかけた。
『聞け、ルキフェル、我は決して、汝を要らぬ者などとは……』

途端に、子供姿のサマエルは我に返って、悲しげな顔をした。
「待って、シンハ。先に僕の話を聞いてくれる?
僕ね、ずっと前から、言いたかったことがあるんだ……」
『何だ』

「あ、あのね。僕のこと……ルキフェルっては呼ばないで。
だって、僕は“光をもたらす者”なんかじゃないもの。
そんな名前……立派すぎて、僕には似合わないよ……」
少年はうなだれた。

『……ふうむ。汝が(いと)うならば、呼び方を変えるもやぶさかでないが。
されど、サマエルよ、おのれを卑下(ひげ)してはならぬ。
なんとなれば、汝は未来、必ずや魔族に光を、勝利をもたらすがゆえだ』

すると、少年は耳を押さえた。
「やめて、お世辞なんか聞きたくない。
僕なんかを、喜ばせようとしてくれなくていいから」

“我は偽りは申さぬぞ。耳をふさいだとて、真実は変わらぬ”
念話に切り替えて、シンハは少年の心に語りかけた。
「でも……お前は、いくら朝まで一緒にいてって頼んでも、いてくれなかったじゃないか……」
幼い姿のサマエルは、手こそ離したものの、涙声で答えた。

『むう……左様、淋しき思いをさせたことは詫ねばならぬな、相済まぬ。
ともあれ、この機会に告げておくとしよう。
汝が成人の後、我らは晴れて夫婦(めおと)と相成る、とな』

少年は眼を見開いた。何か言いかけてやめ、頭を振る。
「……そんなの、絶対無理だよ。
魔界王にならなきゃ、お前と一緒にいられないことくらい知ってる。
けど、魔法も使えない僕が、なれるわけない……」

『たしかに汝は魔界王とはならぬ。
されど、王座に()いたサタナエルは、我が兄弟、“黯黒の眸”を(めと)り、我ら二組は揃って祝言(しゅうげん)を挙げることとなるのだ』
シンハは重々しく応じた。

サマエルは彼をまじまじと見た。
「え、兄様が、“黯黒の眸”と……?
じゃあ、ホントなの? ホントーに?」
『うむ。これは運命であり、(まご)うことなき真実だ』

うなずくライオンの燃える瞳をしばらく見つめた後、それでも彼は否定の身振りをした。
「信じられない。嘘だよ、そんなの……」
サマエルは、駄々っ子のように首を横に振り続けた。
『汝が信じようと信じまいと、事実だ』
シンハは前足で少年を抱き寄せ、口づけた。

ややって、解放されたサマエルは、今度は自分からシンハに抱きついた。
「忘れてた、お前には予言の力があるんだったね……!
だったら、本当にそうなるの、かな? そうだと、いいな……!」
しかし、幼い顔が希望に輝いたのも一瞬で、彼はライオンから身をもぎ離し、暗い声で言った。

「……やっぱりダメだ。
僕は、兄上やベルフェゴール伯父上に……他にも、たくさんの人に……。
お前も嫌でしょ? 僕みたいに汚い子なんて……」
またもや深い暗黒が少年の眼の光を覆い隠し、涙が盛り上がってきた。

『何を申すか、魔界の王族である汝には至極当然のこと。
加えて、我とて、汝が初めての伴侶ではないぞ』
「あ……そっか、お前は代々魔界王の……」

『されど、我はもはや自由の身。
我は常に汝と共にある。汝が我がもとを去らねば、だがな……』
万感の思いを込めてシンハはつぶやく。
サマエルも以前、彼の化身、ゼーンと名付けられた少年を、精神の牢獄から解放してくれたのだ。
今度は自分が、サマエルの心を救う番だった。

「お前から離れる? 僕がそんなこと、するわけないじゃないか! 
ホントなんだね……うれしい、もう僕、お前を放さないよ、絶対……!」
少年は、さらに力を込めて、ひしとライオンにすがりつく。

シンハは、その柔らかな頬を優しくなめた。
少年の体から立ち昇る、ほのかな甘い香り。
それは彼を、懐かしくも悲しく、苦しい過去に(いざな)う。
しかし、苦い思いは甘やかな思い出に上書きされ、いつまでもこうしていたいと願ったのも束の間、少年の体が輝き始め、彼にしがみついていた小さな姿は消えてしまった。

代わって現れた蛇の瞳には、カオスの力はすでにない。
『エルピダ、か?』
シンハは、確認のため声をかける。
「はい。本体は墓地で眠りについております。
我ではご不満でしょうが、及ばずながらお手伝いを……」
蛇は済まなそうに頭を下げる。

『いや、ありがたいぞ。監獄には看守が要り用ゆえな。
されど、ルキフェルは……覚醒した折に我がそばにおらねば、また裏切られたと……』
「あ、いえ、それは大丈夫です。
我は今の顛末(てんまつ)を覚えており、すべてを本体に伝えました。
サマエルが申すには、あの人格は、次にあなた様のお姿を見たなら、無条件で一緒にいてくれたと思うはず、とのことでございます」

『……ふむ。ならば、我が肩の荷も下ろせるというもの。
今少し早く教えてやれればよかったが、中々現れてくれなんだゆえ』
エルピダはにっこりした。
「いえ、本体はありがたく思っておりますよ。
くれぐれも、リナーシタ様のことをよろしく頼むと申しておりました」

『左様か、では階上へ戻らねばな。後は任せた』
「承知致しました」
エルピダは深々と礼をした。