28.疑惑の貴婦人(4)
「こういう場合、肉体より、精神にダメージを与える方が効果的だな。
──カンジュア!」
サマエルに操られた使い魔──蛇のエルピダは、魔法で剣を呼び出す。
それから、
戦時にミカエルの複製を刺殺した剣身は、乾いた血で赤黒く変色しており、ジャダ──サリエル達を毒矢で射た犯人の片割れ──は、すぐにそれが友人の形見と気づいた。
はっと顔を上げた刹那、蛇と眼が合い、男の背筋を嫌な予感が走り抜けた。
「ふ、これをどうする気かって? ──こうするのさ!」
蛇は尾を振り上げ、力任せに剣身を打ち据え始めた。
「あっ! や、やめて下せぇ!」
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やがて、
「こ、この嘘つきが! 必ず届けるって約束したじゃねぇか!」
顔を紅潮させてジャダは怒鳴った。
「ふ……折らずに、届ける、などとは、言ってない、ぞ……!
遺族には、ミカ、エルを、
く──こんなもの、こんなもの、こんなもの!」
サマエルは言い返し、さらに攻撃を続けた。
硬い鱗による数十回もの打撃で、ついに剣はバラバラの鉄片に成り果てた。
「くくく……こんな、
それを、想像すると……ふ、はは、あははは、笑いが、止まらない……!」
蛇は荒い息で笑いながらそれらを魔法で拾い上げ、鞘に落とし込む。
「くそ、胸くそ悪りぃな!
怒りが収まらねぇってんなら、俺を殴るなり何なりすりゃいいだろが!」
ジャダは嫌悪に顔をゆがめた。
「大切な者を理不尽に奪われる……その苦痛と悲しみが、殴る程度で帳消しになるとでも?
お前にも、私と同じ苦しみを味わわせてやる……そう、友人の妻を、腹の子ごとあの世に送る、などというのはどうだ……」
低い声は怒気を
「な、何だと、ふざけんな!
んなことしやがったら、承知しねぇぞ!
こんちくしょう、こいつを解きやがれっ!」
だが、いくらジャダが
「ふ、夫に先立たれた女が、寝る間もなく働きづめで子を育てる……そんな苦労を背負うより、子と共に夫の元へ旅立つ方が幸せかも知れないぞ。
大丈夫、彼らに恨みはないから、苦しませずに死なせてやろう」
蛇は平然と言ってのけ、瞳の闇の輝きは、ますます強さを増していく。
「く……!」
ジャダは歯噛みしたが、相手はカオスの貴公子、元より歯が立つ相手ではなく、まして、王子を怒らせることで事態が好転するわけもなかった。
「お、お待ち下せぇ、悪いのは全部俺でさ、謝ります、すんません!
だから、殺るのは俺だけにして下せぇ!
どうか、ダチのかかぁや赤にゃ、手出ししねぇで下せぇ、お願ぇしやす!」
彼は、必死の思いで頼み込んだ。
「ほう、
どれ、望み通りにしてやろう」
蛇は冷たく言い放ち、鋭い牙を男の肩に突き立てた。
「ぐわっ!」
ジャダは全身を
『やめよ、ルキフェル』
ライオンは檻に飛び込み、前足を器用に使って牙を引き剥がした。
大人しく床でとぐろを巻いた蛇を、
『むう……何ゆえ泣く? リナーシタの蘇生はうまくいったではないか。
ただ一つの希望を奪った、左様に汝は申したが、そも
「複製かどうかなど関係ない。
リナーシタは……もうもたないだろう……彼を創った天使が、そう言って……たしかに、サリエル自身だって、長生きはできそうにない……それでも、今回のことがなければ、まだ望みは……なのに……」
絞り出すような言葉は途切れがちで、涙も流れ続けて石造りの床に点々と紅い染みをつけている。
『……これはしたり』
瞳の紅い炎が揺れ、ライオンはたてがみを振り立てた。
岩の壁に映る影も激しい動きを見せ、床一面に火の粉が飛散する。
『されど、無闇に証人を
裁きが困難になるやもしれぬぞ……』
その言葉は、自分にも言い聞かせるような響きを持っていた。
蛇は首を横に振った。
「一時、死の恐怖を味わわせてやっただけ……毒は死なない程度の量さ」
その声はささやくようで、ともすれば、囚人の苦しげなうめき声、のたうち回る音に消されがちだった。
『──コンティケオ!』
シンハは呪文を唱え、耳障りな音声を消す。
静寂の中で、彼が話を続けようとした時、不意に蛇の様子が変わった。
「……ねぇ、シンハ。お前はいつも僕を、そんな眼で見るよね。
皆と同じで僕のこと、要らない子って思ってるくせに、どうしてお前は僕を殺してくれないの……あれ?」
ライオンに触れようとして動きを止め、蛇は小首をかしげた。
次の瞬間、細長い体が紫に輝き、幼少期のサマエルの姿となる。
「よかった、手があった」
自分の手を見て浮かべた安堵の笑みは一瞬で消え、少年の眼には一層暗い影が差した。
「……ねぇ、シンハ、僕は、生きてちゃいけないんだよね……?
父様も兄様も、僕なんかいらないって思ってる……お前もそうでしょ?
だったら、僕を殺して……ねぇ、殺して、コロシて、コロシテ……」
うわ言のようにつぶやくうちに、その眼は焦点を失っていく。
おのれが死んでいることにも気づけずにいる少年への、
『聞け、ルキフェル、我は決して、汝を要らぬ者などとは……』
途端に、子供姿のサマエルは我に返って、悲しげな顔をした。
「待って、シンハ。先に僕の話を聞いてくれる?
僕ね、ずっと前から、言いたかったことがあるんだ……」
『何だ』
「あ、あのね。僕のこと……ルキフェルっては呼ばないで。
だって、僕は“光をもたらす者”なんかじゃないもの。
そんな名前……立派すぎて、僕には似合わないよ……」
少年はうなだれた。
『……ふうむ。汝が
されど、サマエルよ、おのれを
なんとなれば、汝は未来、必ずや魔族に光を、勝利をもたらすがゆえだ』
すると、少年は耳を押さえた。
「やめて、お世辞なんか聞きたくない。
僕なんかを、喜ばせようとしてくれなくていいから」
“我は偽りは申さぬぞ。耳をふさいだとて、真実は変わらぬ”
念話に切り替えて、シンハは少年の心に語りかけた。
「でも……お前は、いくら朝まで一緒にいてって頼んでも、いてくれなかったじゃないか……」
幼い姿のサマエルは、手こそ離したものの、涙声で答えた。
『むう……左様、淋しき思いをさせたことは詫ねばならぬな、相済まぬ。
ともあれ、この機会に告げておくとしよう。
汝が成人の後、我らは晴れて
少年は眼を見開いた。何か言いかけてやめ、頭を振る。
「……そんなの、絶対無理だよ。
魔界王にならなきゃ、お前と一緒にいられないことくらい知ってる。
けど、魔法も使えない僕が、なれるわけない……」
『たしかに汝は魔界王とはならぬ。
されど、王座に
シンハは重々しく応じた。
サマエルは彼をまじまじと見た。
「え、兄様が、“黯黒の眸”と……?
じゃあ、ホントなの? ホントーに?」
『うむ。これは運命であり、
うなずくライオンの燃える瞳をしばらく見つめた後、それでも彼は否定の身振りをした。
「信じられない。嘘だよ、そんなの……」
サマエルは、駄々っ子のように首を横に振り続けた。
『汝が信じようと信じまいと、事実だ』
シンハは前足で少年を抱き寄せ、口づけた。
ややって、解放されたサマエルは、今度は自分からシンハに抱きついた。
「忘れてた、お前には予言の力があるんだったね……!
だったら、本当にそうなるの、かな? そうだと、いいな……!」
しかし、幼い顔が希望に輝いたのも一瞬で、彼はライオンから身をもぎ離し、暗い声で言った。
「……やっぱりダメだ。
僕は、兄上やベルフェゴール伯父上に……他にも、たくさんの人に……。
お前も嫌でしょ? 僕みたいに汚い子なんて……」
またもや深い暗黒が少年の眼の光を覆い隠し、涙が盛り上がってきた。
『何を申すか、魔界の王族である汝には至極当然のこと。
加えて、我とて、汝が初めての伴侶ではないぞ』
「あ……そっか、お前は代々魔界王の……」
『されど、我はもはや自由の身。
我は常に汝と共にある。汝が我がもとを去らねば、だがな……』
万感の思いを込めてシンハはつぶやく。
サマエルも以前、彼の化身、ゼーンと名付けられた少年を、精神の牢獄から解放してくれたのだ。
今度は自分が、サマエルの心を救う番だった。
「お前から離れる? 僕がそんなこと、するわけないじゃないか!
ホントなんだね……うれしい、もう僕、お前を放さないよ、絶対……!」
少年は、さらに力を込めて、ひしとライオンにすがりつく。
シンハは、その柔らかな頬を優しくなめた。
少年の体から立ち昇る、ほのかな甘い香り。
それは彼を、懐かしくも悲しく、苦しい過去に
しかし、苦い思いは甘やかな思い出に上書きされ、いつまでもこうしていたいと願ったのも束の間、少年の体が輝き始め、彼にしがみついていた小さな姿は消えてしまった。
代わって現れた蛇の瞳には、カオスの力はすでにない。
『エルピダ、か?』
シンハは、確認のため声をかける。
「はい。本体は墓地で眠りについております。
我ではご不満でしょうが、及ばずながらお手伝いを……」
蛇は済まなそうに頭を下げる。
『いや、ありがたいぞ。監獄には看守が要り用ゆえな。
されど、ルキフェルは……覚醒した折に我がそばにおらねば、また裏切られたと……』
「あ、いえ、それは大丈夫です。
我は今の
サマエルが申すには、あの人格は、次にあなた様のお姿を見たなら、無条件で一緒にいてくれたと思うはず、とのことでございます」
『……ふむ。ならば、我が肩の荷も下ろせるというもの。
今少し早く教えてやれればよかったが、中々現れてくれなんだゆえ』
エルピダはにっこりした。
「いえ、本体はありがたく思っておりますよ。
くれぐれも、リナーシタ様のことをよろしく頼むと申しておりました」
『左様か、では階上へ戻らねばな。後は任せた』
「承知致しました」
エルピダは深々と礼をした。