~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

28.疑惑の貴婦人(3)

グーシオンは男の額に指を押し当て、眼を閉じた。
固唾(かたず)を呑んで皆が見守る中、その表情が徐々に険しくなり、眉間(みけん)には深いしわが刻まれていく。

かなりの時が経ってから指を外し、おもむろに顔を上げた公爵の眼には、当惑に近い感情が浮かんでいた。
他の者に先んじて、サマエルが口を開く。
「どうした、グーシオン。やはりこの男……?」

「あ、いえ、話自体に嘘はございませんが、行った先と申しますのが……」
グーシオンは言葉を濁した。
「ああ、公爵家の別邸ではなかったのか。
……ならば、会った女というのは?」

公爵は(かぶり)を振る。
「声に聞き覚えはございませんでしたし、言葉遣いからみまして、貴族ではございませんね」
「……ふうん。当てが外れたね」
「左様で」

「あらまあ。てっきり、アルリ・アンデ夫人かと思ったのに」
イシュタルが口を挟むと、公爵は眉をしかめた。
「……イシュタル様、いくら、奥が息子と成さぬ仲と申しましても。
わたしは手掛かりが欲しかっただけで、奥に対しては何も含むところはございませんよ」

イシュタルは負けじと言い返す。
「お前の気持ちも分かるけれど、夫人は、ヴァピュラをずっと邪険にしていたわよね?
最近も、あの子への縁談を方々から持ちかけられては、険悪な顔つきをしていたわよ?
気の毒で見ていられなかったから、ここに連れて来たのに」

「縁談……何と、ヴァピュラにでございますか?」
公爵は眼を丸くし、頭を下げた。
「それはともかく、細やかなお心遣い、お礼の言葉もございません」

イシュタルは大げさに手を口に当てた。
「あらまぁ、知らされていなかったの?
総領(そうりょう)息子の縁談なんて、公爵家の一大事でしょう、それを当主に隠すなんて、やはり何かあるとしか思えないわねぇ」

「いやいや……たまさか、連絡が遅れただけのことでございましょう」
「まあ、お前、息子より奥方の方が大事なのね?」
「さ、左様なことはございませんが、」

『話の腰を折って相済まぬが。グーシオン、この者の連れ行かれた先が、公爵家の別邸でないというのはたしかであろうな』
二人の押し問答に、シンハが割り込んできた。
興奮はすでに収まり、たてがみの熱も抑えられている。

話に割って入られて、むしろほっとしたように公爵は答えた。
「はい。男が目隠しを外されたのは邸内に入ってからでしたが、すぐに違うと分かりましたよ。
何しろ我が別邸は、曽祖父の代まで本宅として使われ、他の貴族の館に比しましても遜色(そんしょく)ない威容(いよう)を誇っております。
あのような貧弱な屋敷とは格が違いますから」

『……ふむ。ならば、例の浮き彫りも偽物であったか』
「はい。あれも純金製ではないようでして、瞳の石もグレードは低く、肝心の獅子の表情にも迫力が欠けておりましたよ。
大方(おおかた)、素人がこしらえたものでございましょう」
グーシオン公爵は、話にならないという風に肩をすくめた。

「お前が言うのなら間違いないね。
ともあれグーシオン。一度、屋敷に戻ってはどうだい。
ヴァピュラが襲われたと夫人に告げて、反応を見るのさ。
奥方の無実を確かめてから、心置きなく犯人を探せばいい。
タナトスに頼んで、一時的に魔界からの出入りを禁じてもらえば、後は……そう、草の根分けても、必ずや探し出してみせる」
蛇の紅い眼が、凄みを帯びてギラリと光る。

「……御意」
グーシオンは同意したものの、顔はこわばっていた。
「それがいいわね。ここで言い合っていても(らち)が明かないし。
でも、この男はどうするの? 汎魔殿に連行するのかしら?」
イシュタルが訊いた。

「いえ、この屋敷の地下に牢屋を作りましょう。
ご心配なく、私が見張りに立ちますから」
「そう。お前が看守をしてくれるのなら安心ね」
安堵したように、イシュタルは微笑んだ。

「シンハもそれでいいね?」
サマエルは上目遣いに確認を取る。
『……汝に任せる。
ともあれ、こやつをそそのかした男を魔界全土に手配致さねばな』

「ちょ、ちょっとお待ち下せぇ。
その前に一つだけ、お願ぇがあんですが……」
唐突に、男が皆の話をさえぎった。
「何? お前、頼み事が出来る立場だと思っているの?」
イシュタルは、きりりと柳眉(りゅうび)を逆立てた。

「す、すんません、けど、これだけは引くわけにゃ行かねぇ。
ビアズの……友人の形見を、やっこさんの家族に届けてもらいてぇんでさ」
「形見ですって?
今頃そんな話を持ち出して、同情を引くつもり?」
彼女は顔をしかめた。

「いや、俺ぁ同情されようなんざ、毛ほども思ってませんぜ。
ビアズは親友で、俺の命の恩人なんでさぁ。
俺をかばってミカエルと……あ、もち、複製の野郎ですが、差し違えて死んでたあいつを見っけた部隊の隊長が、剣を形見として持ち帰ってたんすよ。
んで、遺族に届けて欲しいと……けど、こうなっちまったら、もうそれは無理でやんしょ?
だから、代わりに持ってってもらいてぇんで……どうか、頼んます!」
ジャダは、縛られた状態で可能な限り深く、頭を下げた。

イシュタルは部屋の隅に行き、血で汚れた鞘に収まった剣を持ってきた。
「形見って、これね」
「そう、そいつでさ。
あ、危ねぇですよ、先っちょに龍毒が塗ってあるんで」
男は、彼女がそれを鞘から抜こうとしていることに気づくと、言った。

イシュタルは鞘のまま剣をサマエルに見せた。
「……だそうだけれど。どうしようかしらね」
「そうですね……まずは確認しましょうか。
グーシオン、今の話、この男の記憶にあったかい?」
紫の蛇は公爵を見上げる。

相手はうなずいた。
「はい、ございましたよ。
その隊長が酒場を去った直後、例の男が声をかけて参りまして、言葉巧みにこやつを誘導し、例の屋敷に……」

「……なるほど、そういうことか。
ジャダ、といったな。お前を許す気はまったくないが、勇敢な兵士の形見を、遺族に届けることにはやぶさかでない。必ず渡すと約束しよう」
「あ、ありがてぇこってす。
これでもう、何も思い残すこたぁねぇ、罪を(つぐな)うためにも、煮るなと焼くなと、お好きになさって下せぇませ」
男はペコリと頭を下げた。

「いい心がけだ。ならば、拷問した後は殺さずに、異界へ島流してやろうか。
まあ、瀕死の状態であんな所に送られても、死んでしまうだろうけれどね。
例え命を取り留めても、こちらへ戻る手立てはないぞ。
一生孤独に(さいな)まれ、いっそ殺されていた方がマシだと思う……かもしれないが、自業自得というものだよ」
蛇は紅い眼で男を見据え、先が二股に割れた青い舌を、威嚇するようにちろちろと出し入れした。

青ざめたジャダの額に玉の汗が浮かび、頬を滑り落ちた。
「……し、しょうがねぇす。
知らなかったつっても、悪事の片棒担いじまったなぁ事実っすから……。
あ、俺の懐に金子(きんす)が入ってますんで、それも一緒にお願ぇできますか、俺にゃもう用がねぇし……」
蛇は服の中から小袋を取り出し、中身を見て顔をしかめた。
「……これが悪事の報酬か? お前はたった金貨三枚で、息子の命を……」

「え、ち、違いまさ、そいつぁ軍の給金で。
戦死者にゃ特別報奨が出るらしいっすが、ビアズのカミさんは身重で、何かと物入りでしょうし。
赤ンボのために金がいるつって入隊したのに、あの野郎、何で俺なんざ、かばっちまったんだか……。
あいつこそ、生きて帰んなきゃいけなかったのによ」
男は、疲れたようにうなだれる。

しびれを切らしたように、シンハがのそりと前に出てきたのはその時だった。
『もう良い。
グーシオン、我も共に汝の屋敷に参るぞ。奥方が咎人(とがびと)としたなら捨ておけぬ』

「それはよしたがいいよ、シンハ。
今のお前は冷静さを欠いている。怪しい所を見つけた途端、問うより早く、夫人に飛びかかって八つ裂きにしそうだ」

サマエルの指摘を聞いたグーシオンは、さっと顔色を変えた。
「そ、それは困ります、シンハ様!
例え奥が、この件に関わりがあったと発覚致しましても、問答無用のお手打ちはご容赦願います!」
『二人共、何を申すやら。
よもや我が、左様な蛮行に及ぶわけがなかろう』
ライオンは、ぶるぶると炎のたてがみを揺すった。

「シンハ、サマエルの言う通りよ。
不本意でしょうけれど、お前は子供達についていてあげて。
万が一、お前がいない間に容態が悪化したら大ごとよ、ね?
お願いよ」
イシュタルは、拝むように手を合わせた。
『……むう。されど……』
ライオンは、ためらうように公爵をちらりと見た。

「誰か付き添いが必要なら、わたしが行くわ。
それでいいでしょ? どう、サマエル」
問われた蛇は鎌首をもたげ、その紅い眼と、金の粒を散らした藍色の眼がかちりと合う。

一呼吸おいて、蛇は返事をした。
「……ええ、私は構いませんよ、叔母上。
シンハも、いいだろう?」
『相分かった』
シンハは、不承不承(ふしょうぶしょう)提案に乗る。

二人が出発してしまうと、サマエルは改めて口を開いた。
「シンハ、この男を入れる牢屋は、お前が作ってくれないか。
逃げられないほど堅牢なものを作れば、少しは気が晴れるのではないかな」
『……ふむ。気休めだが、まあよかろう』
ライオンは答え、魔法を使う。

『そこから、地下へ行けるようにした』
前足で指し示す先には、頑丈な鉄の扉が(いざな)うように口を開けており、その奥には底知れぬ暗闇だけがあった。
シンハは縛られた男を魔法で浮き上がらせ、二匹と一人は地下へと続く階段を降りていく。
灯りはなくとも魔族達は夜目が効くし、何より今はシンハのたてがみが赤々と燃え上がって闇を払っていて、困ることはなかった。

人が三人並んで通れるほど広い石段をひたすら降りていくと、やがて開けた場所に出る。
そこには、硬い岩壁をくり抜いて創られた牢屋があった。
格子は鉄ではなく頑強な鉱物で出来ており、鍵穴はない。
『“焔の眸”が命ず、石の格子よ、(あぎと)を開け』
途端に、音もなく格子は地中に潜り込んでいき、シンハは男を中に入れた。

『“焔の眸”が命ず、石の格子よ、(あぎと)を閉じよ』
すると、格子は元の位置にせり上がってきた。
『汝が開閉する場合は“カオスの貴公子が命ず”とすればよい』
「なるほど。それでは、さっそく始めようか」
蛇はニタリと嫌な笑みを浮かべた。

『されど、汝は先ほど……第一、証人は生かしておかねばならぬのだろうが』
シンハが重々しく言う。
「おや、さっきはお前だって、殺しそうな勢いだったと思うがね。
魔族は傷の治りが早い、いや、治癒魔法を使えば傷痕も残らないよ。
それに、体を痛めつけるだけが拷問ではないしね。
ふふ、何が一番、この男にはこたえるのだろうな……?」

蛇は舌なめずりをし、先の文言(もんごん)を唱えた。
鉱物の格子が下がると、サマエルは、冷たい石の床で身を縮ませて震えている男ににじり寄った。

「私のたった一つの希望を奪ったお前を、私は許さない。
その報いを、今から受けてもらおう」
眼を熾火(おきび)のように燃え上がらせた蛇は、カッと口を開け、牙から滴る毒と共に宣言した。

そうりょうむすこ【総領《息子》】

家督を継ぐべき長男。嫡男。

偶さか・適さか(たまさか)

「たま」は、滅多にないこと、希なことを意味する「たま」「たまたま」と同源。 「さか」は、「おろそか(疎か)」や「おごそか(厳か)」の「そか」と同系で、状態を表す接尾語と思われる。- 語源由来辞典

威容(偉容)を誇る:いようをほこる

堂々とした立派な姿を見せるさま。姿が誇らしげに栄えるさま。

おき び 【熾火・燠火】

1火勢が盛んで赤く熱した炭火。おこし火。おき。
2薪が燃えたあとの赤くなったもの。おき。