~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

28.疑惑の貴婦人(2)

『この気配……ルキフェルか?』
シンハは、声に驚きをにじませて尋ねた。
「え、サマエルですって?」
イシュタルも瑠璃色の眼を丸くする。

「さすがシンハ、よく見抜いたね」
そう話すエルピダの紅い眼は、今やサマエルそっくりに輝いていた。
「叔母上。私は霊体ゆえ、(しかばね)から離れすぎては、現世に留まるのも難しくなります。
ですが、この一大事、いても立ってもいられず、エルピダに話をつけてこちらへ……体を拝借出来るのは分かっておりましたので」

「そう、無理もないわ……ようやく平和になったのにね」
「ええ。では、尋問を続けさせて頂きますよ。
さて、お前、覚悟はいいか?」
紫の蛇はやおら男に向き直り、カッと口を開けた。

剥き出しになった鋭い牙の先端に暗紫色(あんししょく)の雫が現れて、揺れながら次第に大きくなっていき、ぽたりと落下する。
刹那、大理石の床が溶け、瘴気が煙のように立ち昇った。
縛られ、床に転がされていた男は息を呑んだ。

「私はカオスの貴公子……魔道の闇に染まり、みずからを“毒悪醜穢(どくあくしゅうわい)”と嘆く紅き龍……生ける毒薬である私から、これはお前への贈り物……現世で最も(けが)れし毒物、死穢(しえ)毒だ。
お前はすぐには殺さない、楽に死なせてなどやるものか……!」
サマエルは、ありったけの憎しみを込めて、エルピダの声帯を操った。

「ま、待って下せぇ、ご子息を射たなぁ、別の野郎ですぜ!
それに俺ぁ、眠り薬を塗った矢を、獅子頭の子に危険がねぇよう当ててくれって頼まれただけなんでさ……!」
無精ヒゲの男は当惑して叫ぶ。

だが、その抗弁など耳に入った様子もなく、蛇は爛々(らんらん)と眼を光らせ、男に迫っていく。
「……喜ぶがいい。お前はこれから、激烈な苦痛に(さいな)まれながら体中の肉が腐っていく様を全身全霊で感じるという……カオスの司祭から与えられる最高の栄誉に浴するのだから。
さあ、どこに噛みついて欲しい?」

「あわわ、だから、俺じゃねぇってのに……!」
男は冷や汗を滝のように流し、芋虫のように這いずって逃れようとする。
だが、いくらも動けないうちに壁に突き当たってしまい、後は魅入られたように蛇を見つめ、ガタガタと震えるばかりだった。

「特に望みの箇所がないなら……そうだな、指はどうだ?
一本、また一本と腐り落ちて行く間にも、毒は体内に広がって行き、お前は、例えようもない苦痛にあえぐのだ……」
蛇はうっとりとつぶやく。

「それとも、鼻頭に噛みついてやろうか?
苦悶するお前の顔面が()みただれ、どろどろに腐って崩壊していくのをじっくりと……いや、これでは毒がすぐ脳に回るな、狂い死になどされたら興醒(きょうざ)めだ。
お前には、正気を保ったまま、苦しみ抜いて死んで行ってもらおう……」

サマエルに操られた蛇は、青い舌をちろちろと出しながら恍惚(こうこつ)とした表情になる。
男はまさに蛇に(にら)まれた蛙も同然、目を()らすことも出来ずに、喉からはヒューヒューという音しか出ない。

「よし、決めた。急所にしよう。
想像してご覧、この牙で猛毒を注ぎ込まれたお前の秘所が、どうなるかを。お前を襲う、この世のものとも思えぬほど激烈な痛みを……。
だが、すぐには死なせてやらない、毒を調節して、何ヶ月、いや何年もの間、私の気が済むまで苦しめ続けてあげるよ。
そうして最後には、大事な男のシンボルは見るも無惨に腐り落ちるのだ……苦痛と屈辱にまみれた最期を迎える瞬間、お前は何を思うのだろうね……?」

紅い眼は熱に浮かされたようにぎらぎらと輝き、蛇は、舌なめずりしながら男に這い寄って行く。
「さっきも言ったが、気絶などという贅沢はさせてあげないよ。
私の息子だけでなく……親友の息子で、彼自身もまた私の友人、ヴァピュラをも殺したお前を、私は許さない、決して……!」
静かな中に狂気を秘めた声で宣言した蛇は、改めて大きく口を開き、またも鋭い牙を見せつけた。

途端に我に返った男は、縛られたままもがき、慈悲を乞う。
「お、おやめ下せぇ、サマエル様!
聞いて下せぇ、俺ぁ騙されたんでさ、勘弁して下せぇ!
ああ、シンハ様にイシュタル様、お助け下せえまし!」

「ね、サマエル。毒を使う前に、少し、この男の話を聞いてみないこと?」
イシュタルが口を挟む。
男は顔を輝かせたが、彼女の藍色の瞳には、彼に対する同情の色はかけらもなかった。

「叔母上、ご心配なく。脳は最後まで生かしておきますから。
万一、こいつが自白しないで死んでも、私もまた死者、地獄の底までつきまとい、必ずや白状させてご覧に入れますよ」
蛇はにたりと笑う。

『それには及ばぬ。我が()く、そやつの口を割ってやろう』
ずいと、シンハが進み出たのはその時だった。
その眼は黄金色に覆われつつあり、たてがみは常よりも赤々と燃え上がって、前足の爪も熱を帯び、大理石の床に深々と食い込んで白煙を上げ始めていた。
その熱さは、彼から少し離れたところにいる蛇やイシュタルにも感じ取れるほどだった。

「あわわ……」
脂汗を流す男は、怒りの権化(ごんげ)と化した獅子から視線を外すことができない。
「シンハ……?」
サマエルはいぶかしげに彼を見た。
(妙だな……彼はなぜ、こんなにも怒っているのだ?
私に関わる子供が二人も殺されかけたからか……にしても)

蛇が首をかしげる間にも、たてがみを赤々と燃え立たせたライオンは、威嚇(いかく)するように唸りながら身を低くしていき、男は気を失いそうな眼でそれを見守る。

シンハが今にも飛びかかろうとしたその刹那、ドアがノックされ扉が開いた。
「失礼しま……あ」
グーシオンは一瞬で事態を把握し、室内に飛び込んで来た。

「お、お待ち下さい、シンハ様!
その男はまだ殺さずに、よくよく吟味して下さいませ!」
はっとして、シンハは振り返る。
『……グーシオン。されど、こやつは汝の息子を……』

「はい、それは重々承知致しております。
されど、取り逃がした賊もいる以上、今こやつを殺しても、息子だけでなく他の子らにも類が及ぶやも知れません。
黒幕を割り出し、ひっ捕らえるためにも、ぜひともこの男は生かしておいて下さいませ……!」
公爵は深々と頭を下げる。

「そうね、たしかに証人は必要だわ。二人共、そう思わないこと?」
イシュタルは、ライオンと蛇を代わる代わる見た。
『……ふむ。奸賊(かんぞく)の首領は、貴族であることも考えられる。
さすれば当然、罪の裏付けも必要となるであろうな』
シンハは冷静さを取り戻し、重々しく答えた。

「そうですね、叔母上。
貴族を断罪するには、皆を納得させるだけの証拠が不可欠……ということになりますか。
……仕方がない、毒は後にするとしましょう」
 サマエルは魔力で男を引き起こした。

「あ、ありがてぇ、俺ぁジャダってんで。
けど、同族の、しかも子供の命を奪おうなんて、とんでもねぇこった。
んな魔界を裏切るようなこと、してたまるかってんです、俺ぁ、先の戦にも弓兵として参戦したんですぜ」
無精ヒゲの男は、心底ホッとしたように答えた。

蛇はじろりと男を見た。
「参戦? 証拠は?」
「ええっと……軍に記録があるんじゃないですかい」
「そうか。続けて」
後で確認を取ろうと思いつつ、サマエルは先を促す。

「へぇ。ですが、配属された部隊は、ミカエルの野郎に全滅させられちまいましてね。
俺も虫の息で病院に収容されて、意識が戻った時にゃ、もう戦は終わっちまってたんでさ……戦友の仇も取れずじまいで……」
男の声は沈む。
顔にも憔悴(しょうすい)の色が濃く、これは本当のようだった。

「……ふむ。それで?」
「あ、そんで、俺だけ生き残っちまって、情けねぇやら悔しいやら、勝利に浮かれてやがる世間も腹立たしくて、毎日呑んだくれてたんでさぁ。
そしたら、一週間くれぇ前だったか、ヤツが現れて……」
「ヤツ? 逃亡した相方か」
「へッ、んな嘘つき野郎、相方でも何でもねぇですぜ」
男は鼻にしわを寄せ、吐き捨てる。

「ともかく、ヤツぁ、俺の弓の腕を見込んで頼みがある、って言ってきたんで。
貴族のガキ、もとい子弟がかどわかされて、事を荒立てずに取り戻してぇんだが、その子供ってぇのが、術をかけられて記憶が飛んじまってる。
んで、強力な眠り薬を塗った矢を、危なくねぇように手か足にでもかすらせ、眠らせて連れ帰る、と……」
「……あきれたな。そんなずさんな計画に乗ったのか」
蛇も顔をしかめた。

「いや、俺もきっぱり断ったんですがね。
けどあいつぁ、だったら奥方に会わせてやる、直接話聞いたら、んな不人情なこたぁ言えねぇはずだとかほざいて、でけぇ屋敷に連れてかれたんでさぁ。
そこの奥方ってぇのが、そりゃもう、ふるいつきたくなるようなイイ女で、ドレスときたら総レースのスケスケ、肌着も何も着けてねぇし、尻んとこまで深くスリット入ってむっちり太ももが丸見えで、おまけに胸元はおっきく開いてやしてね、水蜜桃(すいみつとう)みてぇな、ぷるんぷるんの……」

「もういい。その女に会えば分かるな?」
ペラペラとまくし立てる男を、サマエルはそっけなくさえぎる。
「えっ、あ、それが……黒いベールで顔を覆ってて、よく分かんねぇっていうか……でも、ちら見した感じじゃ、すげぇべっぴんだった、ような……」
男は自信なさげに口ごもる。

「……ふむ、用心深いな。顔から意識を()らすそのやり口……おそらく、その女が首謀者だろう。
その館の場所は分かるか? そもそも、本当に貴族の館だったのか?
他に気づいたことは? どんな些細なことでもいい、思い出してみよ」
サマエルは命じた。

「うーん、目隠しされて連れてかれたもんで……ただ、あの野郎は貴族の別邸だって言ってやしたぜ。
ま、金持ちの屋敷だってこたぁ、目隠し外された瞬間に分かりやしたがね。
なんしろ、長ぇ廊下はふっかふかの絨毯敷きで、ピカピカのシャンデリアや、高そうな壺やら絵やら、窓から見える庭だって、だだっ広れぇんですからねぇ。
他には……と、そういや、どでけぇ金ピカのライオンのツラが、これまたでっけぇドアに張っつけられてて、それがまぁ、目立つのなんの」

「金の獅子面だと!? 眼は何色だった!?
もしや、緑……エメラルドがはめ込まれていなかったか!?」
グーシオンが勢い込んで訊いた。
「あー、たしかに目ん玉は緑色に光ってやしたねぇ。
けど、エメラルドかどうかは……俺ぁ宝石になんざ縁もねぇし……」

それを聞くと、公爵は蛇に向き直った。
「サマエル様、この男の記憶を見たいのですが、お許し願えますか。
緑眼で黄金の獅子といえば、ご存知の通り、魔界王家より(たまわ)りし我が公爵家の紋章、屋敷はもちろん、別邸にも飾ってございますから……」

「お前が見れば一目瞭然だね、構わないよ。
ジャダ、そういうわけだ。
これで、お前の話が真実かどうか分かるだろう、いいな?」
「もちろんでさぁ。何もやましいことはございやせん、どうぞ、とことんお調べになって下せぇまし」
厳粛な面持ちで男は答え、グーシオンは、こちらもまた真剣な顔でその額に手を当てた。

どくあく【毒悪】

非常にわるいこと。ひどく害をなすこと。また、そのさま。

しゅう‐わい【醜穢】

みにくくけがらわしいこと。また、そのさま。しゅうかい。

死穢【しえ】

死の穢(けが)れのこと。古代・中世において死は恐怖の対象と見られ、死は伝染すると信じられた。 weblio辞書
死体、それと接する遺族は死穢に染まっていると考えられ、清められるべきものと考えられた。
葬式に出た者が家に入るとき清めをした。遺族が忌中の間こもったのは清まる時間が必要との考えもあったから。
穢が罪や災いと異なる点は,その呪的な強い伝染力にある。
そのため死や産の穢には喪屋や産屋(うぶや)を別に建てて隔離し,それとの接触を厳しく警戒して忌避するが,とくに死穢は不可抗的に死者の家族や血縁親族を汚染する。 世界大百科事典【穢】より

かん ぞく 【奸賊・姦賊】

心がねじけ策謀にも長じた悪人。