~紅龍の夢~

巻の七 DIES IRAE ─怒りの日─

28.疑惑の貴婦人(1)

“分かりました、叔母上、すぐシンハに行ってもらいます!”
私も一緒に行きます、という言葉をサマエルは飲み込んだ。
腐ってはいても()り所の、肉体から遠く離れてしまうと、現世に留まっていられなくなる恐れがあったのだ。
そうなれば、タナトスとの約束も守れなくなる……兄のためには、その方がいいのかも知れないが。

サマエルは断腸の思いで魔界の獅子を見、声を振り絞った。
「……シンハ。私も行きたいが、やはりウィリディスを出るのは無理だ……。
済まないが、どうか、二人をよしなに……!」
『任せるがよい、──ムーヴ!』
魔界の獅子は吼えるように答え、姿を消す。

(ああ……生きてさえいれば、私も一緒に行けたのに。
リナーシタもヴァピュラも、すぐに助けてあげられたのに……)
またも自分の愚かさを思い知らされ、サマエルは一人、がらんとした部屋で頭を抱え、煩悶(はんもん)した。

シンハがシュトラール城の前庭に現れると、蒼白な顔のグーシオンが魔法陣の側で待っていた。
「シンハ様、何とぞ息子をお救い下さい……!」
駆け寄って来た公爵は緑の眼に涙を浮かべ、ひざをついて深く頭を下げた。
『分かっておる、行くぞ』
シンハは言い、二人して魔法陣に入る。

「ああ、シンハ、待っていたわ!」
汎魔殿の前庭では、いつになく色を失ったイシュタルが出迎えた。
『二人は毒を盛られたのか? 他の童子らは?』
シンハは単刀直入に尋ねた。

「あ、ベリルとサリエルは無事よ。
子供達が街を見物していたら、いきなり毒矢が飛んできたのですって。
皆をかばってヴァピュラは矢を受け、運悪く少し離れていたリナーシタにも、矢が当たってしまったの……。
ベリルは碧龍となって犯人の一人を取り押さえ、逃げたもう一人は、エマイユが捜索中よ」

公爵は眼を剥いた。
「ど、毒矢ですと!?
戦も終わり、魔界に敵などいるはずが……まさか、敵の捕虜が脱走して?
……あ、いや、それより、まずは案内をお願い頂きたく」
「そうね、急ぎましょう。手を出して。
──ムーヴ!」
彼女は、差し出された公爵の手とライオンの前足を取り、保養所レギアへ移動した。

「ここよ。シンハ、お願いね」
到着した室内にはベッドが二台並べられ、黒ローブ姿のテネブレが、左側の少年を()ており、右方にはエッカルトがつきそっていた。
「おお、ヴァピュラ……!」
グーシオンが駆け寄ると、魔法医は黙礼して席を譲る。

“黯黒の眸”の化身は、左手をリナーシタの体にかざしたまま、シンハをちらりと見た。
「来たか、兄弟。
ちと厄介な毒物ではあるが、こちらの蘇生は順調に行っておるゆえ」

『……左様か。されど、厄介な毒とはいかなるものぞ?』
シンハは幾分ほっとして尋ねた。
「ふうむ、何と申せばよいであろう……一種の呪いのごときもの、とでも申せばよかろうか……うむむ? 未だ抵抗するか、まことにしぶとき毒物よ。
詳細はエッカルトに聞くがよい」
テネブレは魔法医に手を振って見せ、少年の治癒に専念した。

エッカルトは会釈し、話し始めた。
「これは魔族のみを害し、しかも解毒魔法に反応し毒性が強まるという、非常に特殊な毒物でございましてな。
そのため、失礼ながら純血ではないリナーシタ様には多少弱く、ヴァピュラ殿には致命的に作用しておるようでございまして……」

『ふむ。魔族のみに効く毒物ならばいくつか見知っておるが、解毒魔法にて毒性が強化されるとは、我は初めて耳にする。
……たしかに厄介なものであるな』
シンハは顔をしかめた。

「は。わたしも初耳でございます。
魔族は毒を受けた時、薬草などよりまずは魔法を用いますゆえ、これは致命的な罠と申せましょう。
ともあれ、恐らくは呪術により、かような(たち)の悪い性質を帯びさせておるのであろうと推察致しますが」
魔法医も眉をひそめていた。

イシュタルが話を引き継ぐ。
「こんな面倒な毒ですもの、エッカルトもお手上げで、だからタナトスに頼み込み、お妃に来てもらったのよ。
でも、こんな特殊な事例、しかも二人同時の蘇生なんて、さすがに一人では手に余るからと、……」

「も、申し訳ございません、お話中に」
その時、青い顔のグーシオンが話に割り込んで来た。
「シンハ様、何とぞお頼み申し上げます、一刻も早く、息子の蘇生を……!」
『うろたえるな、蘇生は必ず成る。息を深く吸い心を落ち着けよ』
「は、はい、……」

今にも泣きそうな公爵をなだめておいて、シンハはヴァピュラに顔を近づけ、鼻をうごめかした。
(……たしかに、何やら剣呑(けんのん)な、呪いの気配がする)

ベッドに横たわるライオンの頭部を持つ少年は、ぐったりと眼を閉じて呼吸は止まり、心臓もすでに動いてはいない。
体内を透視すると、まだ部分的に細胞は生きてはいたが、それも毒により機能が停止しかけている。

「……ううむ、まったくもって面妖なる毒物よ。
常ならば、とうに蘇生は叶っておる頃合いなのだが。
兄弟よ、これは中々に骨が折れるぞ。心して掛かるがよい」
唸るように言うテネブレの額には、玉の汗が光っていた。

そもそも魔界における蘇生は、呪文を唱えれば終わりという単純なものではなく、魔法というより、“眸”達と紅龍にのみ可能な特殊技能といってよかった。
膨大な魔力を消費するだけでなく、生きた細胞を探し出してそこから体全体を再構築するという、極度に根気のいる作業なのだ。
毒が死因ともなれば、おのずと難易度も上がる。
体内の解毒を終えた後に、繊細なその作業を行わなければならないのだから。

『相分かった』
兄弟石の忠告を心に留めながら、シンハは少年の額に前足をかざした。
瞳の炎が赤々と強さを増す。
“我が血脈に連なりし者よ、呼びかけに応え、奈落の門より還り来たれ!”

一瞬、二瞬……、少年は何の反応も見せない。
『……むう』
ライオンは首をかしげ、たてがみを大きく震わせた。
「ふむ、遅かったか……?」
横目でそれを見ていたテネブレも、眉間にぎゅっとしわを寄せる。
「シ、シンハ様……!」
涙目のグーシオンが、すがるように彼を見た。

『案ずるな、まだ手はある。
グーシオン家の者ならば、おそらく、この方法で蘇生は成ろう』
シンハはカッと口を開け、前足の肉球に鋭い牙を立てる。
傷ついた皮膚から紅い雫が一滴、青灰色の絨毯に滴り、それはたちまち、真紅の宝石に変化した。

鮮血の石、ブラッディムーンを魔力で拾い上げ、シンハは公爵に渡した。
『これを飲ませよ』
「は、はい……」
うやうやしく受け取るグーシオンの掌が、血にまみれたように紅く染まる。
息を呑むも彼はすぐに気を取り直し、息子の口を少し開いて貴石を含ませた。
『それでよい。後はのいておれ』
シンハは少年に近づき、蘇生作業にかかる。
緊張に満ちた静寂が室内を支配した。

『よし』
永遠にも思える時が過ぎ、やがてライオンは集中を解いた。
グーシオンは急いでベッドを覗き込む。
息子の鼓動は戻っており、ゆっくりとだが自発呼吸も始まっていた。
毛皮に覆われていない首や腕にみるみる赤みが差し、やがてヴァピュラは、眼を開けた。
「ち、父、上……?」

「おお、ヴァピュラ……!
あああ、ありがとうございます、ありがとうございます、シンハ様!」
グーシオンは涙声で叫び、息子の手を握ってうれし涙に暮れる。

それとほぼ同時に、リナーシタも息を吹き返し、テレブレは汗をぬぐうと、シンハの眼を捉えてうなずいた。
「思うたよりも反応が鈍く、我にもなく少々焦ったわ。
ともあれ、二人共蘇生した旨、ルキフェルに知らせたぞ」

『左様か。さぞ安堵したことであろうぞ』
魔界の獅子もまた、肩の荷を下ろしたように全身を震わせる。
『さて、まだ予断は許さぬが、エッカルト、しばし代わりに看ておれ』
「は、承知(つかまつ)りました」
魔法医はベッドに近寄り、早速ヴァピュラの回復に力を貸し始めた。

イシュタルは涙を流しながらも、晴れやかな笑顔を見せた。
「本当によかったわ、二人とも助かって。
シンハ、テネブレ、お疲れ様。お礼の言葉も見つからないわ」
『礼には及ばぬ』
「左様、当然のことをしたまで」
二つの“眸”達は、表情も動かさずに答えた。

涙をぬぐい、イシュタルは小首をかしげた。
「でも、一体誰が二人を狙ったのかしら……?
特殊な毒までこしらえて、毒矢で射るなんて……。
犯人を尋問してみたけれど、金銭で(やと)われたならず者らしくて、雇い主のことは何も知らないようだったわ…」

『……ふむ。(ぞく)どもは魔族に相違ないか?』
改めてシンハは尋ねた。
「ええ。子供達が、魔族特有の気を感じたそうだから、間違いないと思うわ。
それと、タナトスに訊いてみたけれど、捕虜の脱走者はないそうよ。
今回は魔族だけのお祝いで、堕天使も魔界にはいない……だから、狙われたのは純粋な魔族。
つまりはヴァピュラ……なのでしょ、シンハ?」
イシュタルは問い返した。

それを聞いたグーシオンが、はっと振り向く。
「まさか、この子が標的……!?
わたしはてっきり、不心得者が、神族の血を引いていらっしゃるサリエル様方を、誤った忠誠心から害さんとしたものとばかり。
息子はただ、巻き込まれただけかと……」

『童子らのうち、サリエルらは神族との混血、ベリルもまた人族の血を引く。
これは周知の事実であり、わざわざ魔族のみに効く毒物を用いたとなれば、いずれの者を標的にしたかは自明の理であろう』
シンハは威厳のある口調で言い切った。

「ご高説、痛み入ります。
ですが、我が子が命を狙われねばならぬ理由が、皆目……」
公爵は頭を振った。
『ふむ、心当たりはないとな。
ともあれ、禍根(かこん)を絶つためにも、()く、賊を鞠訊(きくじん)せねばなるまい』

「そうね。ここには牢なんてないから、向こうに監禁して……あ、そうだわ、──サリエル、ベリル、入ってらっしゃい、二人はもう大丈夫よ」
イシュタルは扉を開け、廊下に声をかけた。

「リナーシタ!」
「ヴァピュラ!」
「しーっ、目を覚ましたばかりだから、静かにね」
駆け込んで来た二人は慌てて立ち止まり、ゆっくりとベッドに近づく。

「……サリ、エル」
かすかな笑みを浮かべる弟分の手を、サリエルは涙ぐみながら取った。
「ああ、リナーシタ、本当によかった……!」
「ヴァピュラ、大丈夫?」
ベリルも、そっと尋ねた。

「はい、ベリル、様……ち、父上も……ご心配を……かけて……」
ライオン頭の少年は弱々しく答え、ベリルはほっとして自分の頬をぬぐった。
「よく頑張ったな、偉いぞ」
グーシオンが息子の頭をなでる。

「では、行きましょう、シンハ」
イシュタルは先導して、隣の小部屋へ行く。
「ここよ。エルピダに監視を頼んでいたの」
彼女がドアを開けた瞬間、静まり返った廊下に悲鳴が響き渡った。
「た、助けてくれ! 俺は、本当に何も知らねぇんだ!
許してくれぇ……!」

何事かと室内に飛び込む二人の眼に映ったのは、ゆらゆらと鎌首をもたげる紫の蛇……それは振り返り、二股に分かれた舌をちろちろと出して、言った。
「おや、叔母上、シンハ。
一足先に始めさせてもらっていたよ」

けん‐のん【剣呑/険難】

《「けんなん(剣難)」の音変化という》危険な感じがするさま。また、不安を覚えるさま。

きく‐じん【鞠訊/鞫訊】

罪を調べ問いただすこと。鞠問(きくもん)。